●歌は、「都辺に立つ日近づく飽くまでに相見て行かな恋ふる日多けむ」である。
●歌碑は、石川県羽咋郡宝達志水町臼が峰往来(石仏峠)にある。
●歌をみていこう。
題詞は、「守大伴宿祢家持舘飲宴歌一首 四月廿六日」<守(かみ)大伴宿禰家持が館(たち)にして飲宴(いんえん)する歌一首 四月の二十六日>である。
(注)四月二十六日:前四首(三九九五~三九九八)と同じ日付。会場を家持の館に移したもの。(伊藤脚注)
◆美夜故敝尓 多都日知可豆久 安久麻弖尓 安比見而由可奈 故布流比於保家牟
(大伴家持 巻十七 三九九九)
≪書き下し≫都辺(みやこへ)に立つ日近(ちか)づく飽(あ)くまでに相見(あひみ)て行かな恋ふる日多けむ
(訳)都に向けて私が出立する日が近づきました。心行くまで皆さんのお顔を拝見して行きたいものです。恋しくてならぬ日が重なることでしょうから。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)
(注)相見て行かな:心行くまで席を共にして。(伊藤脚注)
(注の注)あひみる【相見る・逢ひ見る】①対面する。②契りを結ぶ。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)ここでは①の意
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題詞にある「四月二十六日の前四首(三九九五~三九九八)」については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その2284)」で紹介している。
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天平十八年暮れから「枉疾に沈み、泉路に臨んだ」が、池主の励ましもあり、ようやく癒え、三月二十日に作った「恋緒(れんしょ)を述ぶる歌(三九七八歌)で「恋しけく 千重に積もりぬ 近くあらば 帰りにだにも うち行きて 妹が手枕 さし交へて 寝ても来ましを 玉桙の 道はし遠く 関さへに へなりてあれこそ よしゑやし よしはあらむぞ(訳:恋しさは千重に百重に積もるばかり。近くにさえおれば、日帰りにでも馬で一走り行って、かわいい手枕をさし交わして寝ても来ようものを、都への道はいかにも遠い上に、関所までが遮っていてはどうにもならなくて・・・。ええ、それならそれで、手だてはほかにあるはず。・・・)」と詠った。「よしはあらむぞ」と詠ったのは、五月に税帳使として都に、妻のもとに帰る予定が決まったからであり、まさに、俄かに恋情を覚えた興奮が伝わる歌である。
この恋緒(れんしょ)を述ぶる歌(三九七八~三九八二歌)については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その2282)」で紹介している。
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五月に税帳使として上京することが近くなると、相次いで惜別の宴が開かれたのである。
四月二十日は、「大目秦忌寸八千島が館にして(三九八九、三九九〇歌)」、四月二十六日には、「掾大伴宿禰池主が館にして(三九九五~三九九八歌)」、同日「守大伴宿禰家持が館にして(三九九九歌)」である。
四月二十日の「大目秦忌寸八千島が館にして」の三九八九、三九九〇歌をみてみよう。
題詞は、「大目秦忌寸八千嶋之舘餞守大伴宿祢家持宴歌二首」<大目(だいさくわん)秦忌寸八千島(はだのいみきやちしま)が館(たち)にして、守(かみ)大伴宿禰家持を餞(せん)する宴(うたげ)の歌二首>である。
◆奈呉能宇美能 意吉都之良奈美 志苦思苦尓 於毛保要武可母 多知和可礼奈婆
(大伴家持 巻十七 三九八九)
≪書き下し≫奈呉(なご)の海の沖つ白波しくしくに思ほえむかも立ち別れなば
(訳)奈呉の海の沖の白波、その波がひきもきらずに立つように、ひっきりなしに思われることでしょう。旅立ってお別れしてしまったならば。(同上)
(注)奈呉の海:高岡市から射水市にかけての海岸。国府の東。(伊藤脚注)
(注)上二句は序。「しくしくに」を起す。(伊藤脚注)
(注)しくしく(と・に)【頻く頻く(と・に)】副詞:うち続いて。しきりに。(学研)
(注)おもほゆ【思ほゆ】自動詞:(自然に)思われる。 ※動詞「思ふ」+上代の自発の助動詞「ゆ」からなる「思はゆ」が変化した語。「おぼゆ」の前身。(学研)
◆和我勢故波 多麻尓母我毛奈 手尓麻伎氐 見都追由可牟乎 於吉氐伊加婆乎思
(大伴家持 巻十七 三九九〇)
≪書き下し≫我が背子(せこ)は玉にもがもな手に巻きて見つつ行かむを置(お)きて行(い)かば惜(を)し
(訳)あなたは玉ででもあってくれたらなあ。そしたら手に巻き持って見ながら旅行くことができように。あとに残して行くのは何とも心残りです。(同上)
(注)もがも 終助詞:《接続》体言、形容詞・断定の助動詞の連用形などに付く。〔願望〕…があったらなあ。…があればいいなあ。 ※上代語。終助詞「もが」に終助詞「も」が付いて一語化したもの。(学研)
(注)手に巻きて:玉飾りの緒を手に巻き付けて。(伊藤脚注)
左注は、「右守大伴宿祢家持以正税帳須入京師 仍作此歌聊陳送別之嘆 四月廿日」<右は、守大伴宿禰家持、以正税帳(せいせいちやう)をもちて、京師(みやこ)に入らむとす。よりて、この歌を作り、いささかに相別るる嘆きを陳(の)ぶ。 四月二十日>である。
(注)しょうぜいちやう【正税帳】:律令制で、各国の国司が1年間の正税の出納を記入して中央政府へ報告した決算帳簿。大税帳。税帳。(コトバンク 小学館デジタル大辞泉)
(注)二月末までに太政官に報告するのが義務であったが、雪国の越中は四月末が期限。ただし、家持の出発は五月二日直後。(伊藤脚注)
この二首は、いずれも恋歌仕立てになっている。
「玉にもがも」と詠われている歌をみてみよう。
◆阿母刀自母 多麻尓母賀母夜 伊多太伎弖 美都良乃奈可尓 阿敝麻可麻久母
(津守小黒栖 巻二十 四三七七)
≪書き下し≫母刀自(あもとじ)も玉にもがもや戴(いただき)きてみづらの中(なか)に合(あ)へ巻かまくも
(訳)お袋様がせめて玉であったらよいのにな。捧(ささ)げ戴いて角髪(みずら)の中に一緒に巻きつけように。(同上)
(注)みづら【角髪・角子】名詞:男性の髪型の一つ。髪を頭の中央で左右に分け、耳のあたりで束ねて結んだもの。上代には成年男子の髪型で、平安時代には少年の髪型となった。(学研)
左注は、「右一首津守宿祢小黒栖」<右の一首は津守宿禰小黒栖(つもりのすくねをぐろす)>である。
この歌は、下野の国の防人部領使(かしもりのことりづかひ)田口朝臣大戸(たぐちのあそみおほへ)が家持に進(たてまつ)った歌の十八首の中から選ばれた十一首の内の一首である。
家持は、内心ほくそえんでこの歌を選んだのだろう。
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「花にもがも」と詠った歌もある。同じく防人の歌である。
◆知ゝ波ゝ母 波奈尓母我毛夜 久佐麻久良 多妣波由久等母 佐々己弖由加牟
(丈部黒当 巻二十 四三二五)
≪書き下し≫父母(ちちはは)も花にもがもや草枕旅は行くとも捧(さき)ごて行かむ
(訳)父さん母さんがせめて花ででもあってくれればよい。そしたら草を枕の旅なんかに行くにしても、捧げ持って行こうものを。(同上)
(注)もがも 終助詞:《接続》体言、形容詞・断定の助動詞の連用形などに付く。〔願望〕…があったらなあ。…があればいいなあ。 ※上代語。終助詞「もが」に終助詞「も」が付いて一語化したもの。(学研)
この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1509)」で紹介している。
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愛しい人を思う心、親孝行な思いは時を経た今も相通じるものがある。心和む歌である。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯」 藤井一二 著 (中公新書)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」