●歌は、「ますらをの鞆の音すなり物部の大臣楯たつらしも(元明天皇 1-76)」、「我が大君ものな思ほし統め神の継ぎて賜へる我がなけなくに(御名部皇女 1-77)」、「大君の命畏み大殯の時にはあらねど雲隠ります(倉橋部女王 3-441)」である。
「古代史で楽しむ 万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫)は、「九 天平の陰翳(いんえい)」の「長屋王の変」である。
「時の左大臣長屋王が謀反(むほん)の心があるとして、自害せしめられたのは、神亀六年(七二九)二月のことであった。その六か月後、八月に安宿媛(あすかべひめ)が立てられ皇后となり、代は天平と改元される。すなわち、天平時代は長屋王の死をもって幕を上げたのである。」(同著)
(注)安宿媛:のちに聖武(しょうむ)天皇の皇后となる光明子(こうみょうし)(安宿媛(あすかべひめ))は、藤原不比等(ふひと)の娘として701年に生まれた。716年に同い年の首(おびと)皇子(のちの聖武天皇)の妃(きさき)となり、聖武天皇即位後の727年に基王(もといおう)を生んだ。しかし、皇子は翌年病のために亡くなった。その5ヵ月後、当時の政権を握っていた長屋王が呪い殺したとの噂を立てられ自殺に追い込まれたのは、藤原氏4兄弟の画策といわれている。(奈良県HP)
「・・・慶雲四年(七〇七)、元明の即位・・・の時期から王が急激に重きをなす」ことになった。「・・・その即位の翌年、和銅元年に元明は、(巻一、七六)(歌は省略)という一首を詠んでいる。将軍が楯を立てて訓練しているらしいことを・・・この訓練が何のためであったのか。元明の心に不安がきざし、そのゆえに信頼を示そうとしていたことが、次の歌からわかる。(巻一、七七)(歌は省略)これは御名部皇女の歌である。・・・御名部は元明の同母の姉で、高市皇子に嫁し、元明にとっては、夫草壁(くさかべ)のなき後、唯一の頼りとする肉親であった。長屋はその御名部の子である。かつ王は草壁の娘吉備(きび)内親王を妃(きさき)としていた。このような王を元明が重用しないはずはない。」(同著)
七六、七七歌をみてみよう。
■巻一 七六歌■
題詞は、「和銅元年戊申 天皇御製」<和銅元年戊申(つちのえさる) 天皇の御製である>
◆大夫之 鞆乃音為奈利 物部乃 大臣 楯立良思母
(元明天皇 巻一 七六)
≪書き下し≫ますらをの鞆(とも)の音(おと)すなり物部(もののべ)の大臣(おほまへつきみ)楯(たて)立つらしも
(訳)ますらおたちの鞆の音が聞こえてくる。物部の大臣が楯を立てているらしい。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
(注)物部の大臣:石上麻呂。石上氏はもと物部氏。即位や遷都の時、楯を立てる儀礼を担当した。(伊藤脚注)
■巻一 七七歌■
題詞は、「御名部皇女奉和御歌」<御名部皇女(みなべのひめみこ)和(こた)へ奉(まつ)る御歌>
(注)御名部皇女:元明天皇の同母姉で、長屋王の母。(伊藤脚注)
◆吾大王 物莫御念 須賣神乃 嗣而賜流 吾莫勿久尓
(御名部皇女 巻一 七七)
≪書き下し≫我(わ)が大君ものな思ほし統(す)め神(かみ)の継ぎて賜へる我がなけなくに
(訳)我が大君よ、お心づかいをなさいますな。皇祖の神が大君に添えてこの世に下し賜った、私というものがお側(そば)にいるではございませんか。(同上)
(注)継ぎて賜へる我がなけなくに:大君に添えてこの世に下した私という者がいないわけではないのに。前歌を任の重さへの不安をこめた歌と見なして和した。(伊藤脚注)
「以後王は・・・元正の霊亀二年(七一六)正月には正三位、養老二年(七一八)には大納言となる。・・・元正の意志が働いたと見るべきである。」(同著)
(注)げんしょうてんのう【元正天皇】:[680~748]第44代天皇。女帝。在位715~724。名は氷高(ひだか)。父は天武天皇の子の草壁皇子、母は元明天皇。三世一身の法の発布などの事績がある。(コトバンク デジタル大辞泉)
「ところがこれをもっとも注目していたのは、藤原氏の人びとであっただろう。すでに文武の妃として宮子(みやこ)をおくり込み、その子首(おびと)(後の聖武)に安宿媛を娶(めあわ)せていた不比等は、不吉な予感がしたかもしれない。・・・やがて神亀元年(七二四)二月、聖武が即位すると王は正二位右大臣となる。そして五年八月、大内裏警護を役とする中衛府が独立してその大将に房前が任命される。藤原氏はここでついに軍事力も手にいれることができた。神代以来の武門の棟梁(とうりょう)、大伴旅人が九州に敬遠されて赴いていったのはその前年か前々年のことであった。ところが翌九月、」「聖武と安宿媛との間に生まれた藤原待望の皇子」「基(もとい)皇子」が誕生日を迎える前に「死ぬという事件があった。」「同じころに同じく聖武の妃、県犬養広刀自(あがたのいぬかいのひろとじ)が生んだ安積(あさか)皇子は健やかに育っていた。長屋王の変が起こったのは、この藤原の暗澹(あんたん)たる危機感の中であった。・・・翌六年二月十日、・・・密告があった。即日王の家は包囲される。その軍兵を率いたのは、藤原宇合であった。・・・王はみずから首くくって果てた・・・」(同著)
「(巻三、四四一)(歌は省略)これはこのとき倉橋部女王(くらはしべのおおきみ)が王の死を悲しんだ一首である。『陛下の御命令につつしんで時ならず亡くなられたことよ』という口ぶりは何を意味するのか。むろん王の謀反など無実であった。」(同著)
四四一歌をみてみよう。
■三 四四一歌■
題詞は、「神龜六年己巳左大臣長屋王賜死之後倉橋部女王作歌一首」<神亀六年己巳(つちのとみ)に、左大臣長屋王(ながやのおほきみ)、死を賜はりし後に、倉橋部女王(くらはしべのおほきみ)が作る歌一首>である。
(注)長屋王:神亀六年(七二九)二月謀反の罪を問われて自尽。(伊藤脚注)
(注)倉橋部女王:伝未詳。長屋王の娘か。(伊藤脚注)
◆大皇之 命恐 大荒城乃 時尓波不有跡 雲隠座
(倉橋部女王 巻三 四四一)
≪書き下し≫大君(おほきみ)の命(みこと)畏(かしこ)み大殯(おほあらき)の時にはあらねど雲隠(くもがく)ります
(注)大殯(おほあらき)の時にはあらねど:まだ亡くなる時ではないのに。(伊藤脚注)
「王はこうして藤原氏の野望の前にあえなく命をおとしたのだ・・・わが万葉歌人、旅人や憶良は・・・長屋王派であった。大伴氏が皇親に結びついて、強大化する藤原氏に対抗しようとするのは、当然であろう。だから王がいま斃(たお)されたということは、大伴ら旧氏族の橋頭保(きょうとうほ)の崩壊をも意味している。旅人が長屋王の変死を耳にしたのは、妻を喪(うしな)って一年もたたない大宰府においてであった。」(同著)

「長屋王邸跡」については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その122改)」でふれている。
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(参考文献)
★「萬葉集」
★「古代史で楽しむ 万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」
★「奈良県HP」