●歌碑めぐりの歌碑の紹介は、奈良県橿原市南浦町万葉の森万葉歌碑(笠金村)である。番外編として、平城宮跡東院庭園めぐりと長屋王邸跡説明板の撮影に1万歩超えの歴史ウォーキング。
●歌は、「高円の野辺の秋萩いたづらに咲きか散るらむ見る人なしに」である。
●歌をみてみよう。
◆高圓之 野邊秋芽子 徒 開香将散 見人無尓
(笠金村 巻二 二三一)
≪書き下し≫高円の野辺の秋萩いたづらに咲きか散るらむ見る人なしに
(訳)高円の野辺の秋萩は、今はかいもなくは咲いて散っていることであろうか。見る人もいなくて。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
(注)いたずらに:無駄に。成果を伴わないさま。
題詞は、「霊龜元年歳次乙卯秋九月志貴親王薨時作歌一首幷短歌」<霊龜元年歳次(さいし)乙卯(きのとう)の秋の九月に、志貴皇子(しきのみこ)の薨ぜし時に作る歌一首幷(あは)でて短歌>である。この歌は、短歌二首の一首である。
なお、この歌については、ブログ拙稿「万葉の歌碑を訪ねて―その19―」で取り上げているので、そちらを参考にしていただければと思います
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)
★「かしはら探訪ナビ」(橿原市HP)
「番外編」
●平城宮東院庭園と長屋王邸跡
平城京跡もいろいろと整備が進んできている。
奈良県HPによると、隣接する国営公園部分を含む「朱雀門ひろば」等の整備が進んだことから、平成30年3月24日に、「平城宮跡歴史公園」をオープンさせたとある。
平城宮ひろばには5つの舘がある。「平城宮いざない館」、「天平 みつき館」、「天平うまし館」、「天平みはらし館」、「天平つどい館 」である。そして 、復原遣唐使船などがある広大な公園である。
6月26日は朝から上天気。以前から、行きたいと思っていた、平城宮跡の東側に位置する「東院庭園」を訪ねてみることにした。
西大寺から平城京跡を横断する形で歴史を感じながらのウォーキングである。「平城宮跡資料館」正面から左手に大極殿を右手に朱雀門を見る形で東に向かう。
大極殿と朱雀門のほぼ真ん中あたりに建造中の建物があり、これもみたいと思っていた。近づいてみると、「第一次大極殿院南門復原」と工事の覆いに書かれており、完成予想図が等寸大で描かれていた。
時折工事車両と行き交う。
歌姫街道に通じるみやと通りを越え、さらに東南方向に進む。やがて東院庭園駐車場が見えて来る。その先に庭園出入口のある「西建物」が正面に現れる。
その手前「東院南門」から、今の「ミ・ナーラ」(旧そごう、旧イトーヨーカ堂)の建物が見える。長屋王邸跡である。
入口をはいると、発掘された瓦などが展示されている。中でも目をひくのが、「隅楼」と呼ばれる建物の柱で、正八角形をしている。しかも、柱の底部には石や木の礎板を据えている。また、底面から30cmほどの位置に貫を通して腕木とし、その下に枕木といった複雑な構造をしており、それがそのまま地下部で発掘されたという。何という建築技術なのだろう。
庭園には池が復原されており当時の面影を偲ばせている。
お約束の「島」もある。
東院庭園を後にし、「ミ・ナーラ」に向かう。
長屋王邸の遺跡が発掘されたため、「そごう」はデパートでありながら、地下の階がない、食料品関係の売り場が1階にあるという変則デパートであった。
中央北側入り口を入ったところに、遺跡の一部を見せるゾーンがあったが、今はそれもなく、ただ、大宮通りに面した正面入り口に「長屋王邸跡」の説明看板の藻が歴史の証言をはたしているにすぎない状況である。
大宮通を歩いて朱雀門の方に向かう。
復原遣唐使船と生駒山を撮影、大阪湾から生駒山を眺めた遣唐使達の思いに馳せた。
久しぶりに平城京跡を横切る近鉄線の踏切を渡った。踏切手前で、レトロ塗装をした電車が通過した。これも歴史を感じさせる。踏切待ちの時は特急車両とずいぶん楽しませてもらった。
10,000歩超えの歴史ウォーキングであった。
※20230415朝食関連記事削除、一部改訂