万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉集の世界に飛び込もう(その2668)―書籍掲載歌を中軸に(Ⅱ)―

●歌は、「み吉野の 耳我の嶺に 時なくぞ 雪は降りける 間無くぞ 雨は振りける その雪の 時なきがごと その雨の 間なきがごと 隈もおちず 思ひつつぞ来し その山道を(天武天皇 1-25)」である。

 

【吉野行】

 「天武天皇(巻一‐二五)(歌は省略) この歌の『耳我の嶺』は、こんにち吉野の中のどこか、はっきりわからない。この歌の類歌(巻十三‐三二九三)に『御金高(みかねのたけ)』とあるので、誤字説によってこれも『みかねのたけ』とよみ、吉野山の金(かね)の御嶽(みたけ)(金峯山)とする説が古くから」ある。「・・・『隈もおちず』は道の曲り角を一つものこさずの意である。『思ひつ』の『思ひ』についても、自然の景によせる思い、恋の心、壬申の乱にまつわる思いなど、いろいろの説があり、作歌の年時についても、『念乍叙来(おもひつつぞくる)とよんで、天武即位以前、大海人皇子時代の天智一〇年(六七一)の吉野入の時と見るもn、即位後、天武八年(六七九)五月の吉野行幸の時と見るもの、また在位中のある日と見るものなどがある。もともと作歌事情の記載が何もないから、いずれも推測の域をでない。わたくしは、やはり壬申の乱にまつわるもので、在位中のある時、当時の苦悩を回想したものと考えている。

 天智一〇年一〇月一七日、病床の兄、天智天皇から譲位の話のあったのを固辞して、にわかに僧となって一九日に近江大津宮を出発し二〇日には吉野に入った。この歌は、そのおり飛鳥の地方から山越して吉野におもむく途中、耳我の嶺に絶え間なく雪降り雨降る実景の中で、来し方行く末の思いが絶え間なく身を苦しめた日のつづらおりの山道を、後の日に回想したものではなかろうか。対句を二回くりかえして実景から譬喩へとはこぶ単純な律動のなかにも、かえって身をしめつけられるような苦悩がしのばれるようである。もっともこの歌には異伝ないし類歌と思われるものがあり(巻一‐二六、巻十三‐三二六〇・三二九三)、その先後関係にもいろいろ問題があるが、表現の上から明らかに古歌謡をふまえながらも、そこにみずからの苦衷をうち出していると見られる。吉野入の翌年(六七二)六月、ついに壬申の動乱がおこって、ひと月で近江は廃墟となり、天武の治世を見るのである。・・・万葉の時代のたびたびの吉野行幸がどのコースを通ったか明らかにしがたいが、・・・こんにちは誰ひとり越えるものはなく、草ぼうぼうで道を見失いがちであり、廃道に帰している実情である。・・・吉野で考える飛鳥というものの実相も、峠を越え、山の全容を展望してみてはじめて生きた姿によみがえってくる。」(「万葉の旅 上 大和」 犬養 孝 著 平凡社ライブラリーより)

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 巻一 二五歌をみていこう。

■巻一 二五歌■

題詞は、「天皇御製歌」<天皇(すめらみこと)の御製歌>である。

(注)壬申の乱直前の天智十年(671年)冬十月の吉野入りを回想した天武天皇の歌。(伊藤脚注)

 

◆三吉野之 耳我嶺尓 時無曽 雪者落家留 間無曽 雨者零計類 其雪乃 時無如 其雨乃 間無如 隈毛不落 念乍叙来 其山道乎

       (天武天皇 巻一 二五)

 

≪書き下し≫み吉野の 耳我(みみが)の嶺(みね)に 時なくぞ 雪は降りける 間(ま)無くぞ 雨は振りける その雪の 時なきがごと その雨の 間(ま)なきがごと 隈(くま)もおちず 思ひつつぞ来(こ)し その山道(やまみち)を

 

(訳)ここみ吉野の耳我の嶺に時を定めず雪は降っていた。絶え間なく雨は降っていた。その雪の定めもないように、その雨の絶え間もないように、長の道中ずっと物思いに沈みながらやって来たのであった。ああ、その山道を。(同上)

(注)み吉野:ほめ言葉ミを冠する地名は、上代では、吉野・熊野・の越の三つのみ。(伊藤脚注)

(注の注)み【美】接頭語:名詞に付いて、美しい、りっぱな、などの意を添えたり、語調を整えたりするときに用いる。「み冬」「み山」「み雪」「み吉野」。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典) 

(注)耳我の嶺:所在未詳。(伊藤脚注)

(注)隈もおちず:道の曲がり角ひとつ残さずずっと。(伊藤脚注)

(注の注)くま【隈】名詞:曲がり角。曲がり目。(学研)

(注)思ひ:兄天智方と争わねばならぬ運命への深刻な思い。(伊藤脚注)

(注)この歌、「地名の提示+景の叙述→尻取り+本旨」の型を持つ。これは物を語り物をほめる基本形式。(伊藤脚注)

 

 この歌については、類歌(巻一 二六)とともに、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その775)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その775)」の歌碑は、天武天皇の二七歌「淑(よ)き人のよしとよく見てよしと言ひし吉野よく見よ良き人よく見」である。

 

吉野歴史資料館万葉歌碑(天武天皇 1-27) 20200924撮影



奈良県吉野郡吉野町宮滝 吉野歴史資料館 20200924撮影



 

 

 

 三二九三歌ならびに三二六〇歌をみてみよう。

■巻十三 三二九三歌

◆三吉野之 御金高尓 間無序 雨者落云 不時曽 雪者落云 其雨 無間如 彼雪 不時如 間不落 吾者曽戀 妹之正香尓

       (作者未詳 巻十三 三二九三)

 

≪書き下し≫み吉野の 御金(みかね)が岳(たけ)に 間(ま)なくぞ 雨は降るといふ 時じくぞ 雪は降るといふ その雨の 間(ま)なきがごと その雪の 時じきがごと 間(ま)もおちず 我(あ)れはぞ恋ふる 妹(いも)が直香(ただか)に

 

(訳)み吉野の御金が岳に、絶え間なく雨は降るという。休みなく雪は降るという。その雨の絶え間がないように、その雪の休みがないように、あいだもおかずに私は恋い焦がれてばかりいる。いとしいあの子その人に。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

(注)御金が岳:金峰(きんぷ)神社の東の峰か。(伊藤脚注)

(注)直香に:じかに感じられる雰囲気。(伊藤脚注)

 

 

 

 

■巻 三二六〇歌■

◆小治田之 年魚道之水乎 問無曽 人者挹云 時自久曽 人者飲云 挹人之 無間之如 飲人之 不時之如 吾妹子尓 吾戀良久波 已時毛無

       (巻十三 三二六〇)

 

≪書き下し≫小治田(をはりだ)の 年魚道(あゆぢ)の水を 間(ま)なくぞ 人は汲(く)むといふ 時(とき)じくぞ 人は飲むといふ 汲む人の 間(ま)なきがごと 飲む人の 時じきがごと 我妹子(わぎもこ)に 我(あ)が恋ふらくは やむ時もなし

 

(訳)小治田(おはりだ)の 年魚(あゆ)道の湧き水、その水を、絶え間なく人は汲むという。時となく人は飲むという。汲む人の絶え間がないように、飲む人の休みもないように、いとしいあの子に私が恋い焦がれる苦しみは、とだえる時とてない。(同上)

(注)小治田:奈良県明日香村飛鳥川沿いの地。(伊藤脚注)

(注)年魚道:年魚への道。「年魚」は、明日香村の東の八釣、山田付近か。(伊藤脚注)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉の旅 上 大和」 犬養 孝 著 (平凡社ライブラリー

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」