万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉集の世界に飛び込もう(その2669)―書籍掲載歌を中軸に(Ⅱ)―

●歌は、「山川も依りて仕ふる神ながらたぎつ河内に舟出せすかも(柿本人麻呂 1-39)」である。

 

【宮滝】

 「柿本人麻呂(巻一‐三九)(歌は省略) 吉野離宮地と伝える宮滝は、・・・吉野川が東北から南・西・北へと曲流するところである。・・・離宮址は河畔の小学校<平成19年に廃校となり、今は「吉野宮滝野外学校」となっている(小生追記)>の裏手のあたりと伝えている。柴橋付近は先年の伊勢湾台風で大被害をうけ、その後、護岸工事ができあがって、以前とはだいぶ形をかえている。・・・こんにちは・・・ダムなどで、ふだんの水量はたいへん減っているが、往時は水量はるかに多く、岩盤のところで奔湍激流をなしてまさに『激つ河内』を現出し、この離宮地も『たぎのみやこ』ともいわれていた。壬申の乱を勝ちとった天武の皇后である持統天皇に供奉した人麻呂には、時代の宮廷気運をそのまま反映して、山の神も川の神もすべてが奉仕する現人神(あらひとがみ)の出遊として感じられたのだ。この地での天皇讃歌・宮ぼめの歌はほかにも多い。」(「万葉の旅 上 大和」 犬養 孝 著 平凡社ライブラリーより)

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 巻一 三八・三九歌をみていこう。

■■巻一 三八・三九歌■■

■巻一 三八歌■

◆安見知之 吾大王 神長柄 神佐備世須登 芳野川 多藝津河内尓 高殿乎 高知座而 上立 國見乎為勢婆 疊有 青垣山 ゝ神乃 奉御調等 春部者 花挿頭持 秋立者 黄葉頭刺理 <一云 黄葉加射之> 逝副 川之神母 大御食尓 仕奉等 上瀬尓 鵜川乎立 下瀬尓 小網刺渡 山川母 依弖奉流 神乃御代鴨

       (柿本人麻呂 巻一 三八)

 

≪書き下し≫やすみしし 我(わ)が大君 神(かむ)ながら 神(かむ)さびせすと 吉野川 たぎつ河内(かふち)に 高殿(たかとの)を 高知(たかし)りまして 登り立ち 国見をせせば たたなはる 青垣山(あをかきやま) 山神(やまつみ)の 奉(まつ)る御調(みつき)と 春へは 花かざし持ち 秋立てば 黄葉(もみち)かざせり <一には「黄葉かざし」といふ> 行き沿(そ)ふ 川の神も 大御食(おほみけ)に 仕(つか)へ奉(まつ)ると 上(かみ)つ瀬に 鵜川(うかは)を立ち 下(しも)つ瀬に 小網(さで)さし渡す 山川(やまかは)も 依(よ)りて仕(つか)ふる 神の御代(みよ)かも

 

(訳)安らかに天の下を支配されるわれらが大君、大君が神であるままに神らしくなさるとて、吉野川の激流渦巻く河内に、高殿を高々とお造りのなり、そこに登り立って国見をなさると、幾重にも重なる青垣のような山々の、その山の神が大君に捧(ささ)げ奉る貢物(みつぎもの)として、春の頃おいには花を髪にかざし、秋たけなわの時ともなるとになると色づいをかざしている<色づいた葉をかざし>、高殿に行き沿うて流れる川、その川の神も、大君のお食事にお仕え申そうと、上の瀬に鵜川(うかわ)を設け、下の瀬にすくい網を張り渡している。ああ、われらが大君の代は山や川の神までも心服して仕える神の御代であるよ。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)「神ながら 神さびせすと」:神のままに神らしくなさるとて。(伊藤脚注)

(注)せす【為す】分類連語:なさる。あそばす。 ※上代語。 ⇒なりたち サ変動詞「す」の未然形+上代の尊敬の助動詞「す」(学研)

(注)たたなはる【畳なはる】自動詞:①畳み重ねたような形になる。重なり合って連なる。②寄り合って重なる。 ⇒参考 ①の用例の「たたなはる」は、「青垣山」にかかる枕詞(まくらことば)とする説もある。(学研)ここでは①の意

(注)かざす【挿頭す】[動]《「かみ(髪)さ(挿)す」の音変化という》:① 草木の花や枝葉、造花などを髪や冠にさす。② 物の上に飾りつける。(weblio辞書 デジタル大辞泉

(注)おほみけ【大御食】名詞:召し上がり物。▽神・天皇が食べる食べ物の尊敬語。 ※「おほみ」は接頭語(学研)

(注)うかは【鵜川】名詞:鵜(う)の習性を利用して魚(多く鮎(あゆ))をとること。鵜飼い。また、その川。(学研)

(注)さで【叉手・小網】名詞:魚をすくい取る網。さであみ。(学研)

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1324)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 

 

 三六・三七歌と三八・三九歌の二群から構成されており、「第一群は持統三年一月、第二群は持統四年二月あたりに詠まれ、その後も二群一連として幾度も機能したらしい。」(伊藤脚注)

 

三六・三七歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その771)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 

 

吉野町宮滝 宮滝野外学校前万葉歌碑(柿本人麻呂 1-36・37) 20200924撮影



 

 

 

 

 

■巻一 三九歌■

反歌

 

◆山川毛 因而奉流 神長柄 多藝津河内尓 船出為加母

       (柿本人麻呂 巻一 三九)

 

≪書き下し≫山川も依りて仕ふる神(かむ)ながらたぎつ河内(かふち)に舟出(ふなで)せすかも

 

(訳)山の神や川の神までも心服してお仕えする尊い神であられるままに、われらが大君は吉野川の、この激流渦巻く河内に船を漕ぎ出される。(同上)

 

左注は、「右日本紀曰 三年己丑正月天皇幸吉野宮 八月幸吉野宮 四年庚寅二月幸吉野宮 五月幸吉野宮 五年辛卯正月幸吉野宮 四月幸吉野宮者 未詳知何月従駕作歌」<右は、日本紀には「三年 己丑(つちのとうし)の正月に、天皇吉野の宮に幸(いでま)す。 八月に、吉野の宮に幸(いでま)す。 四年庚寅(かのえとら)の二月に、吉野の宮に幸す。 五月に、吉野の宮に幸す。 五年辛卯(かのとう)の正月に、吉野の宮に幸す。 四月に、吉野の宮に幸す」といふ。いまだ詳(つばひ)らかにいづれの月の従駕(おほみとも)にして作る歌なるかを知らず>である。

(注)三年:持統天皇の吉野行幸は在位中三一回。以下、そのうち始めの五年までを記す。(伊藤脚注)

 

 

 

 

 宮滝遺跡周辺の地図については下記を参照してください。

グーグルマップより作成させていただきました。

 

 



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉の旅 上 大和」 犬養 孝 著 (平凡社ライブラリー

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 デジタル大辞泉

★「グーグルマップ」