万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉集の世界に飛び込もう(その2564)―書籍掲載歌を中軸に―

●歌は、「我が里に 大雪降れり 大原の古りにし里に 降らまくは後(天武天皇 2-103)」ならびに「我が岡の 龗に言ひて 降らしめし雪の摧けし そこに散りけむ(藤原夫人 2-104)」である。

奈良県明日香村大原神社万葉歌碑(天武天皇・藤原夫人) 20190705撮影

●歌碑は、奈良県明日香村大原神社にある。

 

もう一首は、「淑き人のよしとよく見てよしと言ひし吉野よく見よ良き人よく見(天武天皇 1-27)」である。

奈良県吉野町宮滝 吉野歴史資料館万葉歌碑(天武天皇) 20200924撮影

●歌碑は、奈良県吉野町宮滝 吉野歴史資料館にある。

 

●それぞれ歌をみていこう。

 

■一〇三・一〇四歌■

 標題は、「明日香清御原宮御宇天皇代 天渟中原瀛真人天皇天武天皇」<明日香(あすか)の清御原(きよみはら)の宮(みや)に天の下知らしめす天皇の代 天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)謚(おくりな)して天武天皇(てんむてんのう)といふ>

(注)明日香清御原宮:四〇代天武天皇の皇居。奈良県明日香村。(伊藤脚注)

 

 題詞は、「天皇賜藤原夫人御歌一首」<天皇、藤原夫人(ふぢはらのぶにん)に賜ふ御歌一首>である。

(注)藤原夫人:藤原鎌足の女(むすめ)、五百重娘(いおえのいらつめ)。(伊藤脚注)

(注の注)ふじん【夫人】名詞:天皇の配偶者で、皇后・妃に次ぐ位の女性。「ぶにん」とも。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

◆吾里尓 大雪落有 大原乃 古尓之郷尓 落巻者後

       (天武天皇 巻二 一〇三)

 

≪書き下し≫我(わ)が里に大雪(おほゆき)降(ふ)れり大原(おほはら)の古(ふ)りにし里に降(ふ)らまくは後(のち)

 

(訳)わがこの里に大雪が降ったぞ。そなたが住む大原の古ぼけた里に降るのは、ずっとのちのことでござろう。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)我が里:浄御原の宮一帯。今の明日香小学校あたりという。(伊藤脚注)

(注)大雪:天武紀六年十二月と十五年三月に大雪の記事がある。(伊藤脚注)

(注)降らまくは:降るのは。マクはムのク語法。(伊藤脚注)

 

 次に、藤原夫人の歌をみてみよう。

 

 題詞は、「藤原夫人奉和歌一首」<藤原夫人、和(こた)へ奉(まつ)る歌一首>である。

 

◆吾岡之 於可美尓言而 令落 雪之摧之 彼所尓塵家武

       (藤原夫人 巻二 一〇四)

 

≪書き下し≫我が岡のおかみに言ひて降らしめし雪のくだけしそこに散りけむ

 

(訳)私が住むこの岡の水神に言いつけて降らせた雪の、そのかけらがそちらの里に散ったのでございましょう。(同上)

(注)おかみ:水を司る龍神。(伊藤脚注)

(注)雪のくだけし:雪のくだけたものが。シは過去の助動詞キの連体形。(伊藤脚注)

 

 犬養孝氏は、その著「万葉の大和路」(旺文社文庫)のなかで、「珍しい雪の降ったとき、天武天皇は、(一〇三歌を詠って)大原の里に帰っていた藤原夫人にこの歌を贈った。めったに降らない雪だから『大雪』といって喜びをあらわし、ユーモアたっぷりとエバってみせたのであろう」これに対して、夫人は、(一〇四歌を)返したのである。「『わたしの岡のその神様が、降らさせた雪のトバッチリが、そこに散らばっただけじゃないの』とは、なんと親しい女性らしく、ユーモアたっぷりに、こきざみにつねって来ているではないか。古代宮廷における夫婦間の愛情のやりとりではなかろうか。まことに心たのしい雪の日の問答である」と書いておられる。

 

 歌碑も仲睦まじく一つに収まっており、ほほえましく思えるのである。

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その158改)」で紹介している。

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■二七歌■

題詞は。「天皇幸于吉野宮時御製歌」<天皇、吉野の宮に幸(いでま)す時の御製歌>である。

(注)吉野宮:吉野宮滝付近にあった離宮。(伊藤脚注)

 

◆淑人乃 良跡吉見而 好常言師 芳野吉見与 良人四来三

       (天武天皇 巻一 二七)

 

≪書き下し≫淑(よ)き人のよしとよく見てよしと言ひし吉野よく見よ良き人よく見

 

(訳)昔の淑(よ)き人がよき所だとよくぞ見て、よしと言った、この吉野をよく見よ。今の良き人よ、よく見よ。(同上)

(注)淑(よ)き人:立派な人。昔の貴人。ここは、天武天皇と持統皇后を寓している。(伊藤脚注)

(注)良き人:今の貴人をいう。(伊藤脚注)

 

左注は、「紀曰 八年己卯五月庚辰朔甲申幸于吉野宮」<紀には、「八年己卯(つちのとう)の五月庚辰(かのえたつ)の朔の甲申(きのえさる)に、吉野の宮に幸(いでま)す」といふ>である。

(注)甲申:天武八年五月五日。(伊藤脚注)

(注)幸す:この折、草壁以下六皇子に千載の結束を盟約させた。歌の「良き人」はこの六皇子をいう。(伊藤脚注)

 

日本書紀』には、天武八年五月五日に吉野宮へ行幸したこと、翌六日に、草壁(くさかべ)皇子・大津(おおつ)皇子・高市(たけち)皇子・忍壁(おさかべ)皇子四皇子と天智天皇の遺児である川島(かわしま)皇子・志貴(しき)皇子の二皇子ら六皇子に争いをせずお互いに助け合うと盟約させたこと、が記されている。

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その775)」で奈良県吉野町宮滝 吉野歴史資料館の歌碑とともに紹介している。

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 「古代史で楽しむ 万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫)によると、西暦六七二年「九月八日、大海人はしばらくの不破滞在のうちに戦後の処理をおえて飛鳥に帰って来た。新都が造営され、翌年(六七三)二月、大海人は即位する。すなわち天武天皇であり、浄御原宮(きよみはらのみや)と呼ばれるのがこの新都である。・・・また天武朝の一大事業として修史事業が開始された。天武十年三月、川島皇子・忍壁(おさかべ)皇子ら十二人に命じて天皇の系譜ならびに上代の伝承万般を記録させる詔(みことのり)を発した。これが後に『日本書紀』として完成するものだが、一方『古事記』も天武が稗田阿礼(ひえだのあれ)をして古事を誦(よ)み習わせたとあり、ふた通りの古代史の記定がはじめられたことになる。これらの事業は天皇家の由緒の正しさをしめし、王権を絶対的なものとしようとするものだった。伊勢の日の神によって勝利できたという信念は、この日の神の裔(すえ)である天皇の地位を臣下に確信させ、修史事業と一体となって天皇の絶対観を強調していったのである。この壬申の乱後に登場する『大君は神にしませば』思想は、官人へのそれの徹底にほかならない。・・・壬申の乱は、少数の側近舎人の力を原動力としてかちとられたものであった。舎人の力さえあれば大豪族の力など・・・不要であろう。・・・天武は・・・近江朝に始められたばかりの官制を廃して、後の舎人王を納言とした以外はいっさい強大な豪族の首長を首脳部に入れようとしなかった。すべて天皇親政の立場をとって、天皇を中心とする絶対的集権体制を推し進めたのである。・・・天皇中心の官僚機構における軍備を強化、豪族の力の削減をならった。舎人採用の制・・・八色の姓(やくさのかばね)の制・・・それらを貫く大がかりな律令も作られようとしていた。・・・世に浄御原令(きよみはらりよう)と呼ばれる律令は、終始天武の政治をたすけた皇后持統によってのちに完成された。」と書かれている。

 「こうして天武は乱後の政治に長年の理念をかけて邁進した。もちろんその起居には、巻二、一〇三・一〇四歌(歌は省略)と、藤原夫人と諧謔の贈答をするような閑暇もあったが、そのなかでも新都を誇示する気持ちを忘れていない。」(同著)

「また、人びとは天武にかけて、長く壬申の乱を記憶しようとした。万葉集では天武の御製として、その吉野入りの苦難の道行きを伝えている(巻一、二六)。この歌はほちんど同一の歌が巻十三(三二九三)にあり、民謡ふうのものだったがいつか宮廷の儀礼歌となり、

天武の吉野道行きの歌だという伝承をもって伝えられるようになった。さらに吉野における(巻一、二七)(歌は省略)という機知に富んだ歌も天武の作として伝承した。・・・『よき人』の歌もりっぱな人の賛美を絶対として、吉野を尊厳化しようとする一首である。」(同著)

 

 同著に上げられている、巻一、二六歌・巻十三、三二九三歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その775)」で二七歌とともに紹介している。

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(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「古代史で楽しむ 万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉の大和路」 犬養孝 著 (旺文社文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」