万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1324)<柿本人麻呂行幸従駕の歌>―島根県益田市 県立万葉植物園(P35)―万葉集 巻二 二四一

●歌は、「大君は神にしませば真木の立つ荒山中に海をなすかも」である。

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島根県益田市 県立万葉植物園(P35)万葉歌碑<プレート>(柿本人麻呂

●歌碑(プレート)は、島根県益田市 県立万葉植物園(P35)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆皇者 神尓之坐者 真木乃立 荒山中尓 海成可聞

      (柿本人麻呂 巻二 二四一)

 

≪書き下し≫大君は神にしませば真木(まき)の立つ荒山中(あらやまなか)に海を成すかも

 

(訳)わが大君は神であらせられるので、杉や檜の茂り立つ人気のない山中に海をお作りになっている。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

 (注)まき【真木・槇】:杉や檜(ひのき)などの常緑の針葉樹の総称。多く、檜にいう。 ※「ま」は接頭語(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)あらやま【荒山】:人けのない、さびしい山。(学研)

(注)海:猟路の池を、皇子の力によってできた海とみてこう言った。(伊藤脚注)

 

 二三九、二四〇歌の題詞は、「長皇子遊獦路池之時柿本朝臣人麻呂作歌一首幷短歌」<長皇子(ながのみこ)、猟路(かりぢ)の池に遊(いでま)す時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌一首 幷(あは)せて短歌>である。

(注)かりぢのいけ【猟路池】:奈良県桜井市鹿路(ろくろ)付近にあった池。猟道池。(コトバンク  精選版 日本国語大辞典

 

 二四一歌ならびに二三九、二四〇歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その111改)」で紹介している。

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 二三九歌を改めてみてみよう。

 

◆八隅知之 吾大王 高光 吾日乃皇子乃 馬並而 三獦立流 弱薦乎 獦路乃小野尓 十六社者 伊波比拜目 鶉己曽 伊波比廻礼 四時自物 伊波比拜 鶉成 伊波比毛等保理 恐等 仕奉而 久堅乃 天見如久 真十鏡 仰而雖見 春草之 益目頬四寸 吾於富吉美可聞

     (柿本人麻呂 巻二 二三九)

 

≪書き下し≫やすみしし 我が大君(おほきみ) 高光(たかひか)る 我が日の御子(みこ)の 馬並(うまな)めて 御狩(みかり)立たせる 若薦(わかこも)を 猟路(かりぢ)の小野(おの)に 鹿(しし)こそば い匐(は)ひ拝(をろが)め 鶉(うづら)こそ い匐(は)ひ廻(もとほ)れ 鹿(しし)じもの い匐(は)ひ拝(をろが)み 鶉(うづら)なす い匐(は)ひ廻(もとほ)り 畏(かしこ)みと 仕(つか)へまつりて にさかたの 天(あめ)見るごとく まそ鏡 仰(あふ)ぎて見れど 春草(はるくさ)の いやめづらしき 我が大君かも

 

(訳)あまねく天下を支配せられるわが主君、高々と天上に光ろ輝く日の神の皇子、このわが皇子が、馬を勢揃いして御狩りに立っておられる猟路野(かりじの)の御猟場では、鹿は膝を折って匍(は)うようにしてお辞儀をし、鶉はうろうろとおそばを匍(は)いまわっているが、われらも、その鹿のように匍(は)って皇子をうやまい、その鶉のように匍(は)いまわって皇子のおそばを離れず、恐れ多いことだと思いながらお仕え申し上げ、はるか天空を仰ぐように皇子を仰ぎ見るけれども、春草のようにいよいよお慕わしく心ひかれるわが大君でいらっしゃいます。(同上)

(注)やすみしし【八隅知し・安見知し】分類枕詞:国の隅々までお治めになっている意で、「わが大君」「わご大君」にかかる。(学研)

(注)たかひかる【高光る】分類枕詞:空高く光り輝くの意で、「日」にかかる。   (学研)                    

(注)わかごもを【若菰を】分類枕詞:若菰を刈る意から同音を含む地名「猟路(かりぢ)」にかかる。(学研)

(注)まそかがみ【真澄鏡】名詞:「ますかがみ」に同じ。 ※「まそみかがみ」の変化した語。 上代語。 

(注の注)ますかがみ【真澄鏡】名詞:よく澄んで、くもりのない鏡。 ※「ますみのかがみ」の変化した語。中古以後の語で、古くは「まそかがみ」。(学研)

(注)まそかがみ【真澄鏡】分類枕詞:鏡の性質・使い方などから、「見る」「清し」「照る」「磨(と)ぐ」「掛く」「向かふ」「蓋(ふた)」「床(とこ)」「面影(おもかげ)」「影」などに、「見る」ことから「み」を含む地名「敏馬(みぬめ)」「南淵山(みなぶちやま)」にかかる。(学研)

 

 長皇子が「猟路(かりぢ)の池に遊(いでま)す時」に柿本人麻呂が、皇子を讃えて作った歌である。

 

 柿本人麻呂の讃歌には、軽皇子、新田部皇子に対する歌がある。これもみてみよう。

 

 題詞は、「軽皇子宿干安騎野時柿本朝臣人麻呂作歌」<軽皇子、安騎(あき)の野に宿ります時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌>である。

 

◆八隅知之 吾大王 高照 日之皇子 神長柄 神佐備世須等 太敷為 京乎置而 隠口乃 泊瀬山者 真木立 荒山道乎 石根 禁樹押靡 坂鳥乃 朝越座而 玉限 夕去来者 三雪落 阿騎乃大野尓 旗須為寸 四能乎押靡 草枕 多日夜取世須 古昔念而

                (柿本人麻呂 巻一 四五)

 

≪書き下し≫やすみしし 我(わ)が大君 高照らす 日の御子(みこ) 神ながら 神さびせすと 太(ふと)敷(し)かす 都を置きて こもくりの 泊瀬(はつせ)の山は 真木(まき)立つ 荒山道(あらやまみち)を 岩が根 禁樹(さへき)押しなべ 坂鳥(さかとり)の 朝越えまして 玉かぎる 夕(ゆふ)さりくれば み雪降る 安騎(あき)の大野(おほの)に 旗(はた)すすき 小竹(しの)を押しなべ 草枕 旅宿(たびやど)りせす いにしへ思ひて

 

(訳)あまねく天の下を支配せられるわれらが大君、天上高く照らしたまう日の神の皇子(みこ)は、神であられるままに神々しく振る舞われるとて、揺るぎなく治められている都さえもあとにして、隠り処(こもりく)の泊瀬の山は真木の茂り立つ荒々しい山道なのに、その山道を岩や遮(さえぎ)る木々を押し伏せて、朝方、坂鳥のように軽々とお越えになり、光かすかな夕方がやってくると、み雪降りしきる安騎の荒野(あらの)で、旗のように靡くすすきや小竹(しん)を押し伏せて、草を枕に旅寝をなさる。過ぎしいにしえのことを偲んで。(同上)

(注)やすみしし【八隅知し・安見知し】分類枕詞:国の隅々までお治めになっている意で、「わが大君」「わご大君」にかかる。(学研)

(注)たかてらす【高照らす】分類枕詞:空高く照るの意で、「日」にかかる。(学研)

(注)ふとしく【太敷く】他動詞:居を定めてりっぱに統治する。(宮殿を)りっぱに造営する。(柱を)しっかり立てる。(学研)

(注)こもりくの【隠り口の】分類枕詞:大和の国の初瀬(はつせ)の地は、四方から山が迫っていて隠れているように見える場所であることから、地名の「初(=泊)瀬」にかかる。(学研)

(注)さへき【禁樹】名詞:通行の妨げになる木。(学研)

(注)さかどりの【坂鳥の】分類枕詞:朝早く、山坂を飛び越える鳥のようにということから「朝越ゆ」にかかる。(学研)

(注)たまかぎる【玉かぎる】分類枕詞:玉が淡い光を放つところから、「ほのか」「夕」「日」「はろか」などにかかる。また、「磐垣淵(いはかきふち)」にかかるが、かかり方未詳。(学研)

(注)はたすすき【旗薄】名詞:長く伸びた穂が風に吹かれて旗のようになびいているすすき。(学研)

(注)いにしへ:亡き父草壁皇子の阿騎野遊猟のこと。

 

 四五から四九歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1064)」で紹介している。

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 次は、新田部皇子への讃歌である。この歌は、人麻呂の長歌の中では最小である。

 

題詞は、「柿本朝臣人麻呂獻新田部皇子歌一首 幷短歌」<柿本朝臣人麻呂、新田部皇子(にひたべのみこ)に献(たてまつ)る歌一首 幷せて短歌>である。

 

◆八隅知之 吾大王 高輝 日之皇子 茂座 大殿於 久方 天傳来 白雪仕物 徃来乍 益及常世

       (柿本人麻呂 巻三 二六一)

 

≪書き下し≫やすみしし 我(わ)が大君(おほきみ) 高光(たかひか)る 日(ひ)の御子(みこ) 敷きいます 大殿(おほとの)の上(うへ)に ひさかたの 天伝(あまづた)ひ来(く)る 雪じもの 行き通(かよ)ひつつ いや常世(とこよ)まで

 

(訳)あまねく天下を支配せられる我が主君、天上高く光給う日の神の御子、この我らの皇子が統(す)べていらっしゃる大殿の上に、天空から降りしきる白雪(しらゆき)、その白雪のように行き通い続けて奉仕しよう、いついつまでも永遠に。(同上)

(注)敷きいます:主人として住んでおられる。(伊藤脚注)

(注)ゆきじもの【雪じもの】副詞:雪のように。雪めいて。 ※一説に「ゆき」にかかる枕詞(まくらことば)とも。「じもの」は接尾語。(学研)

(注の注)-じもの 接尾語:名詞に付いて、「…のようなもの」「…のように」の意を表す。※上代語。(学研)

 

 皇子への讃歌は「八隅知之 吾大王 高光 吾日乃皇子乃」(長皇子:二三九歌)、「八隅知之 吾大王 高照 日之皇子」(軽皇子;四五歌)、「八隅知之 吾大王 高輝 日之皇子」(新田部皇子;二六一歌)とほぼ同様の詠い出しになっている。

 

 四五歌の場合は、結句が「いにしへ思ひて」とあり、短歌も「いにしへ思ふに」とか「日並皇子」と軽皇子の父草壁皇子を相当に意識した歌となっており、単純に軽皇子の讃歌であるとは言い難い歌になっている。

二三九歌では、「鹿(しし)じもの い匐(は)ひ拝(をろが)み 鶉(うづら)なす い匐(は)ひ廻(もとほ)り 畏(かしこ)みと 仕(つか)へまつり」と、二六一歌でも。「ひさかたの 天伝(あまづた)ひ来(く)る 雪じもの 行き通(かよ)ひつつ」と「・・・じもの」(・・・のように)と奉仕する姿に言及し皇子への讃歌としている。

 高市皇子の挽歌(一九九歌)においても、「あかねさす 日のことごと 鹿(しし)じもの い匍(は)ひ伏しつつ ぬばたまの 夕(ゆうへ)になれば 大殿(おほとの)を 振り放(さ)け見つつ 鶉(うづら)なす い匍(は)ひ廻(もとほ)り 侍(さもら)へど」と奉仕する姿を詠っている。

 「・・・じもの」と、雪や動物・鳥の姿を譬えにつかった人麻呂の創造性が見られるのである。

 

 

 柿本人麻呂は、持統天皇の吉野行幸に従駕し持統天皇の讃歌を作っている。

 

題詞は、「幸于吉野宮之時、柿本朝臣人麿作歌」<吉野の宮に幸(いでま)す時に、柿本朝臣人麿が作る歌>である

 

◆八隅知之 吾大王之 所聞食 天下尓 國者思毛 澤二雖有 山川之 清河内跡 御心乎 吉野乃國之 花散相 秋津乃野邊尓 宮柱 太敷座波 百磯城乃 大宮人者 船並弖 旦川渡 舟竟 夕河渡 此川乃 絶事奈久 此山乃 弥高良思珠 水激 瀧之宮子波 見礼跡不飽可聞

                             (柿本人麻呂 巻一 三六)

 

≪書き下し≫やすみしし 我(わ)が大王(おほきみ)の きこしめす 天(あめ)の下(した)に 国はしも さはにあれども 山川(やまかは)の 清き河内(かうち)と 御心(みこころ)を 吉野の国の 花散(ぢ)らふ 秋津(あきづ)の野辺(のへ)に 宮柱(みやはしら) 太敷(ふとし)きませば ももしきの 大宮人(おほみやひち)は 舟(ふな)並(な)めて 朝川(あさかは)渡る 舟競(ぎそ)ひ 夕川(ゆふかは)渡る この川の 絶ゆることなく この山の いや高知(たかし)らす 水(みな)激(そそ)く 滝(たき)の宮処(みやこ)は 見れど飽(あ)かぬかも

 

(訳)あまねく天の下を支配されるわれらが大君のお治めになる天の下に、国はといえばたくさんあるけれども、中でも山と川の清らかな河内として、とくに御心をお寄(よ)せになる吉野(よしの)の国の豊かに美しい秋津の野辺(のべ)に、宮柱をしっかとお建てになると、ももしきの大宮人は、船を並べて朝の川を渡る。船を漕ぎ競って夕の川を渡る。この川のように絶えることなく、この山のようにいよいよ高く君臨したまう、水流激しきこの滝の都は、見ても見ても見飽きることはない。

(注)きこしめす【聞こし召す】他動詞:お治めになる。(政治・儀式などを)なさる。 ▽「治む」「行ふ」などの尊敬語。(学研)

(注)さはに【多に】副詞:たくさん。 ※上代語。(学研)

(注)かふち【河内】名詞:川の曲がって流れている所。また、川を中心にした一帯。 ※「かはうち」の変化した語。

(注)みこころを【御心を】分類枕詞:「御心を寄す」ということから、「寄す」と同じ音を含む「吉野」にかかる。「みこころを吉野の国」(学研)

(注)ちらふ【散らふ】分類連語:散り続ける。散っている。 ※「ふ」は反復継続の助動詞。上代語。(学研) 花散らふ:枕詞で「秋津」に懸る、という説も。

(注)たかしる【高知る】他動詞:立派に治める。(学研)

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その771)」で紹介している。

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◆安見知之 吾大王 神長柄 神佐備世須登 芳野川 多藝津河内尓 高殿乎 高知座而 上立 國見乎為勢婆 疊有 青垣山 ゝ神乃 奉御調等 春部者 花挿頭持 秋立者 黄葉頭刺理 <一云 黄葉加射之> 逝副 川之神母 大御食尓 仕奉等 上瀬尓 鵜川乎立 下瀬尓 小網刺渡 山川母 依弖奉流 神乃御代鴨

       (柿本人麻呂 巻一 三八)

 

≪書き下し≫やすみしし 我(わ)が大君 神(かむ)ながら 神(かむ)さびせすと 吉野川 たぎつ河内(かふち)に 高殿(たかとの)を 高知(たかし)りまして 登り立ち 国見をせせば たたなはる 青垣山(あをかきやま) 山神(やまつみ)の 奉(まつ)る御調(みつき)と 春へは 花かざし持ち 秋立てば 黄葉(もみち)かざせり <一には「黄葉かざし」といふ> 行き沿(そ)ふ 川の神も 大御食(おほみけ)に 仕(つか)へ奉(まつ)ると 上(かみ)つ瀬に 鵜川(うかは)を立ち 下(しも)つ瀬に 小網(さで)さし渡す 山川(やまかは)も 依(よ)りて仕(つか)ふる 神の御代(みよ)かも

 

(訳)安らかに天の下を支配されるわれらが大君、大君が神であるままに神らしくなさるとて、吉野川の激流渦巻く河内に、高殿を高々とお造りのなり、そこに登り立って国見をなさると、幾重にも重なる青垣のような山々の、その山の神が大君に捧(ささ)げ奉る貢物(みつぎもの)として、春の頃おいには花を髪にかざし、秋たけなわの時ともなるとになると色づいをかざしている<色づいた葉をかざし>、高殿に行き沿うて流れる川、その川の神も、大君のお食事にお仕え申そうと、上の瀬に鵜川(うかわ)を設け、下の瀬にすくい網を張り渡している。ああ、われらが大君の代は山や川の神までも心服して仕える神の御代であるよ。(同上)

(注)「神ながら 神さびせすと」:神のままに神らしくなさるとて。(伊藤脚注)

(注)せす【為す】分類連語:なさる。あそばす。 ※上代語。 ⇒なりたち サ変動詞「す」の未然形+上代の尊敬の助動詞「す」(学研)

(注)たたなはる【畳なはる】自動詞:①畳み重ねたような形になる。重なり合って連なる。②寄り合って重なる。 ⇒参考 ①の用例の「たたなはる」は、「青垣山」にかかる枕詞(まくらことば)とする説もある。(学研)ここでは①の意

(注)かざす【挿頭す】[動]《「かみ(髪)さ(挿)す」の音変化という》:① 草木の花や枝葉、造花などを髪や冠にさす。② 物の上に飾りつける。(weblio辞書 デジタル大辞泉

(注)おほみけ【大御食】名詞:召し上がり物。▽神・天皇が食べる食べ物の尊敬語。 ※「おほみ」は接頭語(学研)

(注)うかは【鵜川】名詞:鵜(う)の習性を利用して魚(多く鮎(あゆ))をとること。鵜飼い。また、その川。(学研)

(注)さで【叉手・小網】名詞:魚をすくい取る網。さであみ。(学研)

 

左注は、「右日本紀曰 三年己丑正月天皇幸吉野宮 八月幸吉野宮 四年庚寅二月幸吉野宮 五月幸吉野宮 五年辛卯正月幸吉野宮 四月幸吉野宮者 未詳知何月従駕作歌」<右は、日本紀には「三年 己丑(つちのとうし)の正月に、天皇吉野の宮に幸(いでま)す。 八月に、吉野の宮に幸(いでま)す。 四年庚寅(かのえとら)の二月に、吉野の宮に幸す。 五月に、吉野の宮に幸す。 五年辛卯(かのとう)の正月に、吉野の宮に幸す。 四月に、吉野の宮に幸す」といふ。いまだ詳(つばひ)らかにいづれの月の従駕(おほみとも)にして作る歌なるかを知らず>である。

(注)持統天皇の吉野行幸は在位中三一回。そのうち初めの五年までが記されている。

 

 「やすみしし 我(わ)が大君 神(かむ)ながら 神(かむ)さびせすと」と詠い出し、「山川(やまかは)も 依(よ)りて仕(つか)ふる 神の御代(みよ)かも」と結んでいる。

 山の神も川の神も天皇に仕えるという柿本人麻呂天皇絶対礼賛の心が込められている。

 

 これほどまでに持統天皇を讃えた人麻呂であるが、持統天皇の挽歌を詠っていない。さらには、持統天皇を讃えるも、影で着々と権力を手中に収めつつあった藤原不比等との間には微妙な距離感があったようである。

 

梅原 猛氏の考え方によれば、ここらあたりからの乖離が人麻呂の悲劇につながる伏線になっているというのである。

 万葉集自体が反藤原氏的グループによる編纂と考えていくと柿本人麻呂をめぐる悲劇も真実性をおびてくる。

 万葉集の歌に魅せられ、万葉歌碑を巡るようになり、歌を楽しんできたが、当時の時代的背景を踏まえ、万葉集をみて行くことになるとは微塵も思っていなかった。しかし、そこに万葉集万葉集としての歌の面白さが見えてくるのであり、これからはもっといろいろな角度からじっくりと万葉集を眺めて行きたいものである。

 ますます遠く、深く、姿も変える万葉集

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「古代史で楽しむ万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫

★「水底の歌 柿本人麿論 上下」 梅原 猛 著 (新潮文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク  精選版 日本国語大辞典