万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1286,1287)―島根県益田市 県立万葉公園(30,31)―万葉集 巻一 四七、四八

―その1286-

●歌は、「ま草刈る荒野にはあれど黄葉の過ぎにし君が形見とぞ来し」である。

f:id:tom101010:20211221141214j:plain

島根県益田市 県立万葉公園(30)万葉歌碑(柿本人麻呂

●歌碑は、島根県益田市 県立万葉公園(30)にある。

 

●歌をみてみよう。

 

◆真草苅 荒野者雖有 葉 過去君之 形見跡曽来師

               (柿本人麻呂 巻一 四七)

 

≪書き下し≫ま草刈る荒野(あらの)にはあれど黄葉(もみちば)の過ぎにし君が形見とぞ来(こ)し

 

(訳)廬草(いおくさ)刈る荒野ではあるけれども、黄葉(もみちば)のように過ぎ去った皇子の形見の地として、われらはここにやって来たのだ。(同上)

(注)ま草刈る:「荒野」の枕詞。(伊藤脚注)

(注)もみぢばの【紅葉の・黄葉の】分類枕詞:木の葉が色づいてやがて散るところから「移る」「過ぐ」にかかる。 ※上代では「もみちばの」。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 

 

―その1287―

●歌は、「東の野にかぎろひの立つ見えてけへり見すれば月かたぶきぬ」である。

f:id:tom101010:20211221141325j:plain

島根県益田市 県立万葉公園(31)万葉歌碑(柿本人麻呂

●歌碑は、島根県益田市 県立万葉公園(31)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆東 野炎 立所見而 反見為者 月西渡

               (柿本人麻呂 巻一 四八)

 

≪書き下し≫東(ひむがし)の野にかぎろひの立つ見えてけへり見すれば月かたぶきぬ  

 

(訳)東の野辺には曙の光がさしそめて、振り返ってみると、月は西空に傾いている。(同上)

(注)かぎろひ【陽炎】名詞:東の空に見える明け方の光。曙光(しよこう)。②「かげろふ(陽炎)」に同じ。[季語] 春。※上代語。(学研)

 

 

四七、四八歌は、題詞「軽皇子宿干安騎野時柿本朝臣人麻呂作歌」<軽皇子、安騎(あき)の野に宿ります時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌>の歌群(四五~四九歌の歌群)の二首である。

(注)軽皇子草壁皇子の子。天武・持統の孫。後の文武天皇。(伊藤脚注)

(注)安騎野:奈良家宇陀市の山野。この野への遊猟は持統六年冬。(伊藤脚注)

 

 

 大宝元年(701年)は、大宝律令が完成し、藤原不比等政権が確立した年である。そして和銅元年(708年)不比等は右大臣になり、専制体制を確立するのである。和銅元年は、文武天皇が亡くなり、その母である元明天皇が即位した時である。

 梅原 猛氏はその著「水底の歌 柿本人麿論 上」(新潮文庫)の中で「大宝元年和銅元年藤原不比等にとっても運命の急変の時であったことが分かる。・・・人麿にとって運命の下降の転回点が、ちょうど不比等にとって運命上昇の転回点となっている。・・・詩人(人麿)の運命の急変もまた、この政治的変革の結果ではないのか。勿論、天才詩人と天才政治家の間の不幸な関係を伝える積極的史料は一つもない。

 

この歌群の歌に関して、同氏は、前著の中で、「藤原不比等と君臣一体となって政治を執った元明女帝を讃える歌が人麿には一首もなく、またその子文武帝の阿騎野(あきのの)の猟に扈従(こじゅう)した歌(巻一 四五-四九幡)があるが、その中でも彼は軽皇子(かるのみこ:文武)よりむしろその死んだ父、草壁皇子をしきりに思い出して讃えているのはどういうわけであろうか。おそらく、専制体制のもとにあっての一種の抵抗だったのであろう。」と書かれ一つの証左と見ておられる。

 

 改めて、この歌群をみてみよう。

 

◆八隅知之 吾大王 高照 日之皇子 神長柄 神佐備世須等 太敷為 京乎置而 隠口乃 泊瀬山者 真木立 荒山道乎 石根 禁樹押靡 坂鳥乃 朝越座而 玉限 夕去来者 三雪落 阿騎乃大野尓 旗須為寸 四能乎押靡 草枕 多日夜取世須 古昔念而

        (柿本人麻呂 巻一 四五)

 

≪書き下し≫やすみしし 我(わ)が大君 高照らす 日の御子(みこ) 神ながら 神さびせすと 太(ふと)敷(し)かす 都を置きて こもくりの 泊瀬(はつせ)の山は 真木(まき)立つ 荒山道(あらやまみち)を 岩が根 禁樹(さへき)押しなべ 坂鳥(さかとり)の 朝越えまして 玉かぎる 夕(ゆふ)さりくれば み雪降る 安騎(あき)の大野(おほの)に 旗(はた)すすき 小竹(しの)を押しなべ 草枕 旅宿(たびやど)りせす いにしへ思ひて

 

(訳)あまねく天の下を支配せられるわれらが大君、天上高く照らしたまう日の神の皇子(みこ)は、神であられるままに神々しく振る舞われるとて、揺るぎなく治められている都さえもあとにして、隠り処(こもりく)の泊瀬の山は真木の茂り立つ荒々しい山道なのに、その山道を岩や遮(さえぎ)る木々を押し伏せて、朝方、坂鳥のように軽々とお越えになり、光かすかな夕方がやってくると、み雪降りしきる安騎の荒野(あらの)で、旗のように靡くすすきや小竹(しん)を押し伏せて、草を枕に旅寝をなさる。過ぎしいにしえのことを偲んで。(同上)

(注)やすみしし【八隅知し・安見知し】分類枕詞:国の隅々までお治めになっている意で、「わが大君」「わご大君」にかかる。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)たかてらす【高照らす】分類枕詞:空高く照るの意で、「日」にかかる。(学研)

(注)ふとしく【太敷く】他動詞:居を定めてりっぱに統治する。(宮殿を)りっぱに造営する。(柱を)しっかり立てる。(学研)

(注)こもりくの【隠り口の】分類枕詞:大和の国の初瀬(はつせ)の地は、四方から山が迫っていて隠れているように見える場所であることから、地名の「初(=泊)瀬」にかかる。(学研)

(注)さへき【禁樹】名詞:通行の妨げになる木。(学研)

(注)さかどりの【坂鳥の】分類枕詞:朝早く、山坂を飛び越える鳥のようにということから「朝越ゆ」にかかる。(学研)

(注)たまかぎる【玉かぎる】分類枕詞:玉が淡い光を放つところから、「ほのか」「夕」「日」「はろか」などにかかる。また、「磐垣淵(いはかきふち)」にかかるが、かかり方未詳。(学研)

(注)はたすすき【旗薄】名詞:長く伸びた穂が風に吹かれて旗のようになびいているすすき。(学研)

(注)いにしへ:亡き父草壁皇子の阿騎野遊猟のこと。

 

続いて四六歌である。

◆阿騎乃野尓 宿旅人 打靡 寐毛宿良目八方 古部念尓

      (柿本人麻呂 巻一 四六)

 

≪書き下し≫安騎の野に宿る旅人(たびひと)うち靡(なび)き寐(い)も寝(ね)らめやもいにしへ思ふに

 

(訳)こよい、安騎の野に宿る旅人、この旅人たちは、のびのびとくつろいで寝ることなどできようか。いにしえのことを思うにつけて。(同上)

(注)うちなびく【打ち靡く】自動詞:①草・木・髪などが、横になる。なびき伏す。②人が横になる。寝る。 ③相手の意に従う。(weblio古語辞書 三省堂大辞林第三版)

(注)いもぬらめやも【寝も寝らめやも】分類連語:寝ていられようか、いや、寝てはいられない。 ※なりたち名詞「い(寝)」+係助詞「も」+動詞「ぬ(寝)」の終止形+現在推量の助動詞「らむ」の已然形+係助詞「や」+終助詞「も」(学研)

 

 

◆日雙斯 皇子命乃 馬副而 御﨟立師斯 時者来向

               (柿本人麻呂 巻一 四九)

 

≪書き下し≫日並皇子(ひなみしみこ)の命(みこと)の馬並(な)めてみ狩(かり)立たしし時は来向(きむか)ふ

 

(訳)日並皇子(ひなみしみこ)の命、あのわれらの大君が馬を勢揃いしてみ猟(かり)に踏み立たれたその時刻は、今まさに到来した。(同上)

(注)日並皇子(ひなみしみこ):日に並ぶ皇子の意。草壁皇子に限っていう。

(注)きむかふ【来向かふ】自動詞:近づいて来る。 ※参考 こちらを主とした場合は「迎ふ」であるが、「来向かふ」は向かって来るものを主にして、その近づくのを期待する気持ちがある。(学研) 

 

 この歌群についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1064)」で紹介している。

➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 梅原 猛氏は前著で「人麻呂は文武四年、おそらくは大宝元年(701年)以後、諸国を転々として讃岐へ、そして最後に石見に行ったことになる。・・・文武四年までは、人麿は都にいて花々しい生活をしたのに対し、以後は旅をしたりして都にはいず、かなり苦しい生活をしたことは否定できないであろう。なぜなら旅は古代日本の貴族にとってはこの上なく苦痛であり、旅に出るということはそれだけで刑罰であったからである。人麿が晩年旅ばかりしていたとすれば、それはけっして晩年の彼の人生が順調であったことを物語らず、むしろ何らかの運命の急変が彼を襲ったことを示すものである。」「・・・そして「この稀代(きたい)の政治の天才(=藤原不比等)に、われわれは天才詩人(=柿本人麻呂)の追放者の嫌疑をかけなければならない。」と書かれている。

 

 さらに、鴨山五首の次の歌(追補とされる)の標題は「寧楽の宮」となっている。そして、同氏は「人麿が奈良遷都のためのスケープ・ゴートとして殺されたということは私の想像であるとしておこう。」と強調されている。

 

 

 これまでは、歌を歌としてみてきたが、万葉集は収録のならびにや前後の歌群としてみていく見方を梅原 猛氏の「水底の歌 柿本人麿論 上下」にであってそのイズムに少し感化されて来たのである。奥深い万葉集である。

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「水底の歌 柿本人麿論 上下」 梅原 猛 著 (新潮文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio古語辞書 三省堂大辞林第三版」