―その771―
●歌は、「やすみしし 我が大君の きこしめす 天の下に 国はしも さはにあれども 山川の 清き河内と 御心を 吉野の国の 花散らふ 秋津の野辺に 宮柱 太敷きませば ももしきの 大宮人は舟並めて 朝川渡る 舟競ひ 夕川渡る この川の 絶ゆることなく この山の いや高知らす 水激く 滝の宮処は 見れど飽かぬかも」ならびに「見れど飽かぬ吉野の川の常滑の絶ゆることなくまたかへり見む」である。
●歌碑は、吉野町宮滝 宮滝野外学校前にある。
●歌をみていこう。
題詞は、「幸于吉野宮之時、柿本朝臣人麿作歌」<吉野の宮に幸(いでま)す時に、柿本朝臣人麿が作る歌>である
◆八隅知之 吾大王之 所聞食 天下尓 國者思毛 澤二雖有 山川之 清河内跡 御心乎 吉野乃國之 花散相 秋津乃野邊尓 宮柱 太敷座波 百磯城乃 大宮人者 船並弖 旦川渡 舟竟 夕河渡 此川乃 絶事奈久 此山乃 弥高良思珠 水激 瀧之宮子波 見礼跡不飽可聞
(柿本人麻呂 巻一 三六)
≪書き下し≫やすみしし 我(わ)が大王(おほきみ)の きこしめす 天(あめ)の下(した)に 国はしも さはにあれども 山川(やまかは)の 清き河内(かうち)と 御心(みこころ)を 吉野の国の 花散(ぢ)らふ 秋津(あきづ)の野辺(のへ)に 宮柱(みやはしら) 太敷(ふとし)きませば ももしきの 大宮人(おほみやひち)は 舟(ふな)並(な)めて 朝川(あさかは)渡る 舟競(ぎそ)ひ 夕川(ゆふかは)渡る この川の 絶ゆることなく この山の いや高知(たかし)らす 水(みな)激(そそ)く 滝(たき)の宮処(みやこ)は 見れど飽(あ)かぬかも
(訳)あまねく天の下を支配されるわれらが大君のお治めになる天の下に、国はといえばたくさんあるけれども、中でも山と川の清らかな河内として、とくに御心をお寄(よ)せになる吉野(よしの)の国の豊かに美しい秋津の野辺(のべ)に、宮柱をしっかとお建てになると、ももしきの大宮人は、船を並べて朝の川を渡る。船を漕ぎ競って夕の川を渡る。この川のように絶えることなく、この山のようにいよいよ高く君臨したまう、水流激しきこの滝の都は、見ても見ても見飽きることはない。
(注)きこしめす【聞こし召す】他動詞:お治めになる。(政治・儀式などを)なさる。 ▽「治む」「行ふ」などの尊敬語。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
(注)さはに【多に】副詞:たくさん。 ※上代語。(学研)
(注)かふち【河内】名詞:川の曲がって流れている所。また、川を中心にした一帯。 ※「かはうち」の変化した語。
(注)みこころを【御心を】分類枕詞:「御心を寄す」ということから、「寄す」と同じ音を含む「吉野」にかかる。「みこころを吉野の国」(学研)
(注)ちらふ【散らふ】分類連語:散り続ける。散っている。 ※「ふ」は反復継続の助動詞。上代語。(学研) 花散らふ:枕詞で「秋津」に懸る、という説も。
(注)たかしる【高知る】他動詞:立派に治める。(学研)
反歌をみていこう。
◆雖見飽奴 吉野乃河之 常滑乃 絶事無久 復還見牟
(柿本人麻呂 巻一 三七)
≪書き下し≫見れど飽かぬ吉野の河の常滑の絶ゆることなくまた還り見む
(訳)見ても見ても見飽きることのない吉野の川、その川の常滑のように、絶えることなくまたやって来てこの滝の都を見よう。(同上)
(注)とこなめ【常滑】名詞:苔(こけ)がついて滑らかな、川底の石。一説に、その石についている苔(こけ)とも。(学研)
吉野町HP「宮滝遺跡とは」に、「吉野宮」について次のような説明がなされている。「飛鳥時代の天皇、斉明天皇が吉野にお造りになられた離宮です。以来、大海人皇子(後に天武天皇)、持統天皇、文武天皇、元正天皇、聖武天皇などの行幸がありました。特に、大海人皇子が吉野宮に来られた時には、壬申の乱という大きな内乱の起点となり、古代史上、大きな役割を果たしました。また、天皇の行幸と共に、万葉集などの歌が詠まれました。」さらに、「宮滝遺跡」について「飛鳥時代から奈良時代にかけてあったとされる吉野宮の跡と考えられています。宮滝の集落のほぼ全域から、飛鳥時代~奈良時代の遺物が確認されており、大型の掘立柱建物跡や池状遺構などが確認されています。」と書かれている。
歌碑のある「吉野宮滝野外学校」は、平成19年3月に閉校した吉野町立中荘小学校を改修し、平成22年4月29日、一般財団法人大阪府青少年活動財団の協力で吉野宮滝野外学校として生まれ変わったそうである。
吉野歴史資料館に行く予定であったが、左折ポイントを曲がり損ねて、Uターンすべく、回りこんできた先の橋が工事で通行止めであった。橋の手前の右手が「吉野宮滝野外学校」で、左手が「河川交流センター」であった。
ちなみに工事中の橋は、奈良県HPによると「奈良県景観資産―吉野川が眺望できる宮滝・柴橋―」と紹介されている。
次の目的地は「河川交流センター」である。難なく二か所の万葉歌碑に巡り逢うことができたのである。
―その772―
●歌は「見れど飽かぬ吉野の川の常滑の絶ゆることなくまたかへり見む」である。
●歌碑は、吉野町宮滝 河川交流センターにある。
●歌は、「その771」で紹介した、柿本人麻呂の「巻一 三七」である。
河川交流センターの次は、吉野歴史資料館である。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」
★「吉野町HP」
★「奈良県HP」