万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その2135)―①-7奈良県吉野郡吉野町万葉歌碑―

 吉野といえば、桜とくる。そのような華やかな影に「哀史の里 吉野」がある。

 吉野町HP「吉野の歴史と文化」に「哀史の里 吉野」として次のように書かれている。思わず、“確かに”と考えさせられてしまう。

「花の吉野は、また豊かな歴史や伝承で彩られています。吉野という地名は、早くも記紀神武天皇御東征のなかにでてきます。宮滝などでは縄文や弥生時代の土器が発掘されており、また、応神天皇以来、幾度と無く吉野の宮への行幸の記事がでてくることから、吉野は太古の昔から文化が発達し、世に知られた土地だったのでしょう。 古代においては何と言っても、大海人皇子(後の天武天皇)が吉野に潜行され壬申の乱で兵を挙げられたことは有名です。時代が下ると源義経が兄頼朝の追捕を逃れて、愛妾静や弁慶などを伴って吉野に入りました。しばしの安らぎも束の間、吉野から逃れる際に別れざるを得なかった義経・静の悲恋の物語が残っています。さらに時代が下ると大塔宮護良親王鎌倉幕府倒幕のために、河内の楠木正成と呼応して吉野を城塞化され、兵を挙げられます。また、建武の新政の夢破れられた後醍醐天皇が、吉野に朝廷を開かれたことは太平記に詳しく記されています。南朝四帝が吉野の地を頼みとされ、京都奪回のためにこの地から全国に号令を発せられたのです。この願いは遂に実現しませんでしたが、忠僧宗信法印をはじめ当時の吉野の人々は、我が身を顧みず終始、南朝のために尽くしたのです。

歌書よりも軍書に悲し吉野山 / 各務支考

このように吉野は中央で居所を失った人々、所謂アウトサイダー達が再起を図る場所といっても良いでしょう。その都度、吉野は戦場と化し、多くの命が失われ、悲しい別れが幾度と無く繰り返されたのです。 後に、太閤秀吉が5000人の家来を引き連れて大花見を行ったという記録もありますが、吉野は、そのような晴れがましい歴史より、哀しい歴史に思いを馳せたくなるような土地柄なのです。」

 

 歴史的背景を頭に入れて、斉明天皇が造ったとされる吉野宮の跡と考えられる宮滝遺跡の地、宮滝近辺を中心に歌碑をみていこう。

 

 吉野町HP「吉野宮のイメージと国文学」のなかに「宮滝周辺の万葉歌碑」として一覧表と地図が書かれている。これをを参考にしながら追ってみよう。



吉野町宮滝 吉野歴史資料館横丘の上万葉歌碑(巻一 二七)■

吉野町宮滝 吉野歴史資料館横丘の上万葉歌碑(天武天皇) 20200924撮影

●歌をみてみよう。

 

題詞は。「天皇幸于吉野宮時御製歌」<天皇、吉野の宮に幸(いでま)す時の御製歌>である。

(注)吉野宮:吉野宮滝付近にあった離宮。(伊藤脚注)

 

◆淑人乃 良跡吉見而 好常言師 芳野吉見与 良人四来三

       (天武天皇 巻一 二七)

 

≪書き下し≫淑(よ)き人のよしとよく見てよしと言ひし吉野よく見よ良き人よく見

 

(訳)昔の淑(よ)き人がよき所だとよくぞ見て、よしと言った、この吉野をよく見よ。今の良き人よ、よく見よ。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)淑(よ)き人:立派な人。昔の貴人。ここは、天武天皇と持統皇后を寓している。(伊藤脚注)

(注)良き人:今の貴人をいう。(伊藤脚注)

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吉野歴史資料館 20200924撮影

 

 この歌ならびに歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その775)」で紹介している。

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tom101010.hatenablog.com

 

 

 二七歌の歌碑は、近鉄吉野駅前にもある。

近鉄吉野駅前広場万葉歌碑(天武天皇) 20200924撮影



 

吉野町宮滝 宮滝野外学校前万葉歌碑(巻一 三六)■

吉野町宮滝 宮滝野外学校前万葉歌碑(柿本人麻呂) 20200924撮影

●歌をみていこう。

 

題詞は、「幸于吉野宮之時、柿本朝臣人麿作歌」<吉野の宮に幸(いでま)す時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌>である

 

◆八隅知之 吾大王之 所聞食 天下尓 國者思毛 澤二雖有 山川之 清河内跡 御心乎 吉野乃國之 花散相 秋津乃野邊尓 宮柱 太敷座波 百磯城乃 大宮人者 船並弖 旦川渡 舟竟 夕河渡 此川乃 絶事奈久 此山乃 弥高良思珠 水激 瀧之宮子波 見礼跡不飽可聞

                               (柿本人麻呂 巻一 三六)

 

≪書き下し≫やすみしし 我(わ)が大王(おほきみ)の きこしめす 天(あめ)の下(した)に 国はしも さはにあれども 山川(やまかは)の 清き河内(かうち)と 御心(みこころ)を 吉野の国の 花散(ぢ)らふ 秋津(あきづ)の野辺(のへ)に 宮柱(みやはしら) 太敷(ふとし)きませば ももしきの 大宮人(おほみやひち)は 舟(ふな)並(な)めて 朝川(あさかは)渡る 舟競(ぎそ)ひ 夕川(ゆふかは)渡る この川の 絶ゆることなく この山の いや高知(たかし)らす 水(みな)激(そそ)く 滝(たき)の宮処(みやこ)は 見れど飽(あ)かぬかも

 

(訳)あまねく天の下を支配されるわれらが大君のお治めになる天の下に、国はといえばたくさんあるけれども、中でも山と川の清らかな河内として、とくに御心をお寄(よ)せになる吉野(よしの)の国の豊かに美しい秋津の野辺(のべ)に、宮柱をしっかとお建てになると、ももしきの大宮人は、船を並べて朝の川を渡る。船を漕ぎ競って夕の川を渡る。この川のように絶えることなく、この山のようにいよいよ高く君臨したまう、水流激しきこの滝の都は、見ても見ても見飽きることはない。(同上)

(注)きこしめす【聞こし召す】他動詞:お治めになる。(政治・儀式などを)なさる。 ▽「治む」「行ふ」などの尊敬語。(学研)

(注)さはに【多に】副詞:たくさん。 ※上代語。(学研)

(注)かふち【河内】名詞:川の曲がって流れている所。また、川を中心にした一帯。 ※「かはうち」の変化した語。(学研)

(注)みこころを【御心を】分類枕詞:「御心を寄す」ということから、「寄す」と同じ音を含む「吉野」にかかる。「みこころを吉野の国」(学研)

(注)ちらふ【散らふ】分類連語:散り続ける。散っている。 ※「ふ」は反復継続の助動詞。上代語。(学研) 花散らふ:枕詞で「秋津」に懸る、という説も。

(注)たかしる【高知る】他動詞:立派に治める。(学研)

 

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 この歌ならびに歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その771)」で紹介している。

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 柿本人麻呂従駕の歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1324)」で紹介している。

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吉野町喜佐谷 桜木神社万葉歌碑(巻六 九二四)■

吉野町喜佐谷 桜木神社万葉歌碑(山部赤人) 20200924撮影

 

◆三吉野乃 象山際乃 木末尓波 幾許毛散和口 鳥之聲可聞

       (山部赤人 巻六 九二四)

 

≪書き下し≫み吉野の象山(さきやま)の際(ま)の木末(こぬれ)にはここだも騒(さわ)く鳥の声かも

 

(訳)み吉野の象山の谷あいの梢(こずえ)では、ああ、こんなにもたくさんの鳥が鳴き騒いでいる。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)こぬれ【木末】名詞:木の枝の先端。こずえ。 ※「こ(木)のうれ(末)」の変化した語。 上代語。(学研)

(注)ここだ 幾許】副詞:①こんなにもたくさん。こうも甚だしく。▽数・量の多いようす。②たいへんに。たいそう。▽程度の甚だしいようす。 ※上代語。(学研)

 

 この歌は、題詞「山部宿祢赤人作歌二首幷短歌」のなかの前群の反歌二首のうちの一首である。前群は吉野の宮を讃える長歌反歌二首であり、後群は天皇を讃える長歌反歌一首という構成をなしている。

 

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 この歌ならびに歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その776)」で紹介している。

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 九二三(長歌)・九二四、九二五(反歌二首)と九二六(長歌)・九二七(反歌)については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その125改)」で紹介している。

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吉野町喜佐谷 喜佐谷公民館駐車場万葉歌碑(巻六 九二二)■

吉野町喜佐谷 喜佐谷公民館駐車場万葉歌碑(笠金村) 20200924撮影

●歌をみていこう。

 

◆人皆乃 壽毛吾母 三吉野乃 多吉能床磐乃 常有沼鴨

        (笠金村 巻六 九二二)

 

≪書き下し≫皆人(みなひと)の命(いのち)も我(わ)がもみ吉野の滝の常磐(ときは)の常(つね)ならぬかも

 

(訳)皆々方の命も、われらの命も、ここみ吉野の滝の常磐(ときわ)のように永久不変であってくれないものか。(同上)

(注)ときは【常磐・常盤】名詞:永遠に変わることのない(神秘な)岩。 ※参考「とこいは」の変化した語。巨大な岩のもつ神秘性に対する信仰から、永遠に不変である意を生じたもの。(学研)

(注)ぬかも分類連語:〔多く「…も…ぬかも」の形で〕…てほしいなあ。…てくれないかなあ。▽他に対する願望を表す。 ※上代語。 なりたち⇒打消の助動詞「ず」の連体形+疑問の係助詞「か」+詠嘆の終助詞「も」(学研)

 

九二〇から九二二歌の歌群の題詞は、「神龜二年乙丑夏五月幸于芳野離宮時笠朝臣金村作歌一首幷短歌」<神亀(じんき)二年乙丑(きのとうし)の夏の五月に、吉野の離宮(とつみや)に幸(いでま)す時に、笠朝臣金村が作る歌一首并せて短歌>である。

 

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九二〇から九二二歌ならびに歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その778)」で紹介している。

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 <その他の吉野町の万葉歌碑>

■吉野郡大淀町下渕 鈴ヶ森行者堂万葉歌碑(巻七 一一〇三)■

吉野郡大淀町下渕 鈴ヶ森行者堂万葉歌碑(作者未詳) 20200924撮影

●歌をみていこう。

 

◆今敷者 見目屋跡念之 三芳野之 大川余杼乎 今日見鶴鴨

        (作者未詳 巻七 一一〇三)

 

≪書き下し≫今しくは見めやと思ひしみ吉野(よしの)の大川淀(おほかわよど)を今日(けふ)見つるかも

 

(訳)当分は見られないと思っていたみ吉野の大川淀、その淀を、幸い今日はっきりとこの目に納めることができた。(同上)

(注)今しく:当分は。「今しく」は形容詞「今し」の名詞形。(伊藤脚注)

(注)大川淀:吉野川六田の淀。(伊藤脚注)

 

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 この歌ならびに歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その767)」で紹介している。

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吉野の万葉の世界を満喫し、帰路に就く。途中吉野郡下市町下市中央公園内にある拓美の園に寄る。ここには現在16基(23面)の句碑歌碑が立ち並んでおり、手続きすれば拓本をとることができるようになっている。このうち万葉歌碑は3基である。

 

■吉野郡下市町下市中央公園内 拓美の園万葉歌碑■


 巻一 二七歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その779)」で、巻十一 二四五三歌については、「同(その780)」、巻九 一七二一歌は「同(その781)」で紹介している。

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 吉野町のすべての万葉歌碑を紹介しきれていないが、本稿をまとめていると、吉野町の歴史、風土が歌碑の魅力の根底にあることがひしひしと感じさせられる。

 機会があれば是非もう一度行ってみたいところである。

 

淑(よ)き人のよしとよく見てよしと言ひし吉野よく見よ良き人よく見

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「吉野町HP」