万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉集の世界に飛び込もう―万葉歌碑を訪ねて(その2398)―

■こうぞ■

「万葉植物園 植物ガイド105」(袖ケ浦市郷土博物館発行)より引用させていただきました。

●歌は、「春過ぎて夏来るらし白栲の衣干したり天の香具山」である。

千葉県袖ケ浦市下新田 袖ヶ浦公園万葉植物園万葉歌碑(プレート)(持統天皇) 20230926撮影

●歌碑(プレート)は、千葉県袖ケ浦市下新田 袖ヶ浦公園万葉植物園にある。

 

●歌をみていこう。

 

標題は、「藤原宮御宇天皇代 高天原廣野姫天皇 元年丁亥十一年譲位軽太子 尊号太上天皇」<藤原(ふぢはら)の宮(みや)に天の下知らしめす天皇の代 高天原広野姫天皇(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)、元年丁亥(ひのとゐ)十一年に位(みくらゐ)を軽太子(かるのひつぎのみこ)に譲りたまふ。尊号を太上天皇(おほきすめらみこと)といふ>である。

(注)藤原宮:持統・文武両天皇の皇居。香具山の西方、橿原市高殿町付近。(伊藤脚注)

(注)高天原広野姫天皇:四一代持統天皇。(伊藤脚注)

(注)軽太子(かるのひつぎのみこ):草壁皇子の第二子。697年持統天皇の譲位を受けて文武天皇となった。707年25歳で崩御

(注)おほきすめらみこと【太上天皇】〘名〙:退位した天皇をいう尊称。文武天皇元年(六九七)に譲位した持統天皇に対して用いたのに始まる。だいじょうてんのう。だじょうてんのう。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典

 

題詞は、「天皇御製歌」<天皇の御製歌>である。

 

◆春過而 夏来良之 白妙能 衣乾有 天之香来山

    (持統天皇 巻一 二八)

 

≪書き下し≫春過ぎて夏来(きた)るらし白栲(しろたへ)の衣干したり天の香具山

 

(訳)今や、春が過ぎて夏がやってきたらしい。あの香具山にまっ白い衣が干してあるのを見ると。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)ここは、まっ白いの意。「栲」は楮の樹皮で作った白い布。(伊藤脚注)

(注の注)しろたへ【白栲・白妙】名詞:①こうぞ類の樹皮からとった繊維(=栲)で織った、白い布。また、それで作った衣服。②白いこと。白い色。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 (注)衣:白い布を斎衣と見たものか。(伊藤脚注)。

(注)ここは、まっ白いの意。「栲」は楮の樹皮で作った白い布。(伊藤脚注)

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その474)」で、小倉百人一首のこの歌との比較などにもふれて紹介している。

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感想(1件)

 

 

 持統天皇の歌は万葉集には十一首収録されているが、これについては、奈良県橿原市醍醐町 醍醐池東畔万葉歌碑と共に、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その117改)」で紹介している。

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奈良県橿原市醍醐町 醍醐池東畔万葉歌碑(持統天皇) 20190604撮影



 持統天皇は、在位中に吉野に31回もの行幸を行っているが、吉野と王権のつながりの深さについては、「万葉神事語辞典(國學院大學デジタルミュージアム)」の「よしの」の項に次のように書かれている。

「現在の奈良県吉野郡。吉野町役場から東へ5キロほどの所に、宮滝遺跡があり、その付近が万葉時代に吉野宮が存在した場所と見られる。記紀には神武天皇の東征時における吉野の国つ神の奉仕が記されており、神話的歴史において吉野の聖性が形成されていたことをうかがわせる。『延喜式』には天皇の即位に際して行われる大嘗祭において、吉野の国栖が歌舞を奏上し、物産を献上した記事が見られ、平安時代まで吉野が天皇の王権を保証する観念を役割を担っていたことが確認できる。万葉集での初出は、天武天皇御製(1-25)で、大海人皇子(天武)が天智天皇と決別して近江大津宮を出て吉野に隠棲する折を回想する歌である。大海人皇子と吉野の関係については、大海人皇子道教の呪術に秀でていたこと(紀)と、道教の秘術に関わる水銀が吉野で産出したこととの関連も指摘されている。天智天皇崩御した後、大海人皇子は672年に吉野を基点として兵を挙げ、近江朝廷を討ち滅ぼして、天武天皇として即位した(壬申の乱)。万葉集には、柿本人麻呂(1-36~39)に始まり、笠金村(6-920~922)、山部赤人(6-923~927)、大伴旅人(3-315~316)、大伴家持(18-4098~4100)へと続く吉野讃歌の系譜を確認することができる。それらの歌では、吉野の情景の美しさと吉野宮のすばらしさを讃美することによって、そこを営む天皇を讃美するという論理がうかがわれ、吉野が万葉時代の王権にとって重要な場所であったことがうかがわれる。柿本人麻呂の吉野讃歌では、山川の美しさとともに山の神、川の神が持統天皇に奉仕する様子が歌われ、吉野の神聖性を最もよく示している。持統天皇は在位11年の間に31回の吉野行幸を行ったが、それは吉野がカリスマ的天皇であった夫天武天皇壬申の乱に勝利をおさめ、679年には、天武天皇の皇子、天智天皇の皇子を集めて不逆の盟約を交わした地であったためであろう。中継ぎ的な天皇であった持統天皇は、カリスマ的天皇であった夫天武天皇の威光を借りることで、天下を維持しようとしたのである。山部赤人の吉野讃歌では、清透な吉野の情景が讃美されるが、それは聖武天皇の治世の安寧を、自然の秩序の安定によって示すものである。大伴旅人大伴家持の吉野讃歌は、天皇の前で奏上されることのなかったものだが、彼らが天皇讃美のために予め吉野讃歌を作ったことは、吉野と王権とのつながりの深さを物語っている。」 

柿本人麻呂の吉野讃歌は、持統天皇行幸にあって詠まれたものである。これについては、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1324)」で紹介している。

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(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より

★「万葉植物園 植物ガイド105」(袖ケ浦市郷土博物館発行)

★「万葉神事語辞典」 (國學院大學デジタルミュージアム

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク 精選版 日本国語大辞典