■奈良県橿原市中曽司町 磐余神社万葉歌碑(巻十二 三〇八七)■
●歌をみていこう。
◆真菅吉 宗我乃河原尓 鳴千鳥 間無吾背子 吾戀者
(作者未詳 巻十二 三〇八七)
≪書き下し≫ま菅よし宗我(そが)の川原に鳴く千鳥(ちどり)間(ま)なし我(わ)が背子(せこ)我(あ)が恋ふらくは
(訳)ま菅の名の宗我の川原に鳴きしきる千鳥、その声のようにのべつまくなしです、あなた。私の恋心は。(伊藤 博 著 「万葉集 三」角川ソフィア文庫より)
(注)まそがよし【真菅よし】[枕]:類音の「そが」にかかる。ますがよし。ますげよし。(コトバンク デジタル大辞泉)
(注)上三句は序。「間なし」を起す。(伊藤脚注)
(注)宗我川:曽我川(そががわ)は、奈良県中西部を流れる大和川水系の一級河川。奈良盆地西部を多く北流する大和川の支流の一つで、中流域では最大の支流である。古代には宗我川と綴った。また重阪川(上流渓谷部)、百済川などの異称もある。(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
私の恋心は、千鳥の声のようにのべつまくなしですよ。あなた、と、いう強い気持ちは、、そが、わが、あがと強いリズムに裏打ちされているように感じる。
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この歌ならびに歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その130改)」で紹介している。
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●歌をみていこう。
◆秋山之 黄葉乎茂 迷流 妹乎将求 山道不知母 一云路不知而
(柿本人麻呂 巻二 二〇八)
≪書き下し≫秋山の黄葉(もみぢ)を茂み迷(まと)ひぬる妹(いも)を求めむ山道(やまぢ)知らずも 一には「道知らずして」という
(訳)秋山いっぱいに色づいた草木が茂っているので中に迷い込んでしまったいとしい子、あの子を探し求めようにもその山道さえもわからない。<その道がわからなくて>(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
(注)上二句、妻の死を認めまいとする表現。第三、五句にかかる。(伊藤脚注)
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この歌ならびに歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その115改)」で紹介している。
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●歌をみていこう。
標題は、「藤原宮御宇天皇代 高天原廣野姫天皇 元年丁亥十一年譲位軽太子 尊号太上天皇」<藤原(ふぢはら)の宮(みや)に天の下知らしめす天皇の代 高天原広野姫天皇(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)、元年丁亥(ひのとゐ)十一年に位(みくらゐ)を軽太子(かるのひつぎのみこ)に譲りたまふ。尊号を太上天皇(おほきすめらみこと)といふ>である。
(注)藤原宮:持統・文武両天皇の皇居。香具山の西方、橿原市高殿町付近。(伊藤脚注)
(注)軽太子(かるのひつぎのみこ):草壁皇子の第二子。697年持統天皇の譲位を受けて文武天皇となった。707年25歳で崩御。
(注)おほきすめらみこと【太上天皇】〘名〙:退位した天皇をいう尊称。文武天皇元年(六九七)に譲位した持統天皇に対して用いたのに始まる。だいじょうてんのう。だじょうてんのう。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典)
◆春過而 夏来良之 白妙能 衣乾有 天之香来山
(持統天皇 巻一 二八)
≪書き下し≫春過ぎて夏来(きた)るらし白栲(しろたへ)の衣干したり天の香具山
(訳)今や、春が過ぎて夏がやってきたらしい。あの香具山にまっ白い衣が干してあるのを見ると。(同上)
(注)しろたへ【白栲・白妙】名詞:①こうぞ類の樹皮からとった繊維(=栲)で織った、白い布。また、それで作った衣服。②白いこと。白い色。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
(注の注)ここは、まっ白いの意。「栲」は楮の樹皮で作った白い布。(伊藤脚注)
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この歌ならびに歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その117改)」で紹介している。117改では、持統天皇の歌六首を紹介している。
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醍醐池の南には、藤原宮跡が広がっている。
●歌をみていこう。
この歌は、一九九から二〇一歌の歌群の題詞「高市皇子尊城上殯宮之時柿本朝臣人麻呂作歌一首 幷短歌」<高市皇子尊(たけちのみこのみこと)の城上(きのへ)の殯宮(あらきのみや)の時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌一首 幷(あは)せて短歌>の「或書の反歌一首」のである。
■二〇二歌■
◆哭澤之 神社尓三輪須恵 雖祷祈 我王者 高日所知奴
(檜隈女王 巻二 二〇二)
≪書き下し≫哭沢(なきさわ)の神社(もり)に御瓶(みわ)据(す)ゑ祈れども我(わ)が大君は高日(たかひ)知らしぬ
(訳)哭沢(なきさわ)の神社(やしろ)に御酒(みき)を据え参らせて無事をお祈りしたけれども、我が大君は、空高く昇って天上を治めておられる。(同上)
(注)哭沢(なきさわ)の神社(もり):香具山西麓の神社。(伊藤脚注)
(注)たかひしる【高日知る】分類連語:死んで神として天上を治める。または、天皇・皇子が死ぬことを婉曲的にいう。(学研)
左注は、「右一首類聚歌林曰 檜隈女王怨泣澤神社之歌也 案日本紀云十年丙申秋七月辛丑朔庚戌後皇子尊薨」<右の一首は、類聚歌林(るいじうかりん)には、「檜隈女王(ひのくまのおほきみ)、哭沢(なきさわ)の神社(もり)を怨(うら)むる歌なり」といふ。日本紀(にほんぎ)を案(かむが)ひるに、日(い)はく、「十年丙申(ひのえさる)の秋の七月辛丑(かのとうし)の朔(つきたち)の庚戌(かのえいぬ)に、後皇子尊(のちのみこのみこと)薨(こう)ず」といふ>である。
(注)檜隈女王( ひのくまのおほきみ):「?-? 奈良時代の歌人。『万葉集』の高市(たけちの)皇子への挽歌(ばんか)の中に泣沢(なきさわ)神社をうらんだ反歌1首がみえる。高市皇子の縁者とおもわれる。天平(てんぴょう)9年(737)には従四位上をさずけられている。」(コトバンク 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus)
(注)後皇子尊:高市皇子。草壁皇子尊に対して「後皇子尊」という。(伊藤脚注)
この歌ならびに歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1787)」で紹介している。
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■奈良県橿原市四分町鷺栖神社万葉歌碑(万葉集 巻二 二〇〇)■
この歌ならびに歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その138改)」で紹介している。
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(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」
★「コトバンク 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus」