万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉集の世界に飛び込もう(その2575)―書籍掲載歌を中軸に―

●歌は、「玉だすき畝傍の山の橿原のひじりの御代ゆ生れましし神のことごとつがの木のいやつぎつぎに天の下知らしめししを天にみつ大和を置きてあをによし奈良山を越えいかさまに思ほしめせかあまざかる鄙にはあれどいはばしる近江の国の楽浪の大津の宮の天の下知らしめしけむ天皇の神の尊の大宮はここと聞けども大殿はここと言へども春草の茂く生ひたる霞立ち春日の霧れるももしきの大宮ところ見れば悲しも(柿本人麻呂 1-29)」ならびに「大君は 神にしませば 赤駒の腹這ふ田居を 都と成しつ(大伴御行 19-4260)」である。

滋賀県大津市 錦織 近江大津京跡錦織遺跡万葉歌碑(柿本人麻呂) 20191016撮影

奈良県明日香村 飛鳥坐神社万葉歌碑(大伴御行) 20190630撮影

●歌碑は、柿本人麻呂の1-29は、滋賀県大津市 錦織 近江大津京跡錦織遺跡に、大伴御行の19-4260は、奈良県明日香村 飛鳥坐神社にある。

 

●それぞれ歌をみていこう。

 

柿本人麻呂の1-29■

題詞は、「過近江荒都時柿本朝臣人麻呂作歌」<近江(あふみ)の荒れたる都(みやこ)を過ぐる時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌>である。

(注)近江の荒れたる都:天智天皇近江大津の宮の廃墟。(伊藤脚注)

(注)都を過ぐる時:立ち寄って通り過ぎる時に宮跡を見て、の意。(伊藤脚注)

 

◆玉手次 畝火之山乃 橿原乃 日知之御世従<或云自宮> 阿礼座師 神之盡樛木乃 弥継嗣尓 天下 所知食之乎<或云食来> 天尓満 倭乎置而 青丹吉 平山乎越<或云虚見倭乎置青丹吉平山越而> 何方 御念食可<或云所念計米可> 天離 夷者雖有 石走 淡海國乃 樂浪乃 大津宮尓 天下 所知食兼 天皇之 神之御言能 大宮者 此間等雖聞 大殿者 此間等雖云 春草之 茂生有 霞立 春日之霧流<或云霞立春日香霧流夏草香繁成奴留> 百磯城之 大宮處 見者悲毛<或云見者左夫思母>

       (柿本人麻呂 巻一 二九)

 

≪書き下し≫玉たすき 畝傍(うねび)の山の 橿原(かしはら)の ひじりの御世(みよ)ゆ<或いは「宮ゆ」といふ> 生(あ)れましし 神のことごと 栂(つが)の木の いや継(つ)ぎ継ぎに 天(あめ)の下(した) 知らしめししを<或いは「めしける」といふ> そらにみつ 大和(やまと)を置きて あをによし 奈良山を越え<或いは「そらみつ 大和を置きて あをによし 奈良山越えて」といふ> いかさまに 思ほしめせか<或いは「思ほしけめか」といふ> 天離(あまざか)る 鄙(ひな)にはあれど 石走(いはばし)る 近江(あふみ)の国の 楽浪(ささなみ)の 大津の宮に 天つ下 知らしめけむ 天皇(すめろき)の 神の命(みこと)の 大宮は ここと聞けども 大殿(おほとの)は ここと言へども 春草の 茂(しげ)く生(お)ひたる 霞立つ 春日(はるひ)の霧(き)れる<或いは「霞立つ 春日か霧れる 夏草か 茂くなりぬる」といふ> ももしきの 大宮(おほみや)ところ 見れば悲しも<或いは「見れば寂しも」といふ>

 

(訳)神々しい畝傍の山、その山のふもとの橿原の日の御子の御代(みよ)以来<日の御子の宮以来>、神としてこの世に姿を現された日の御子の悉(ことごと)が、つがの木のようにつぎつぎに相継いで、大和にて天の下を治められたのに<治められて来た>、その充ち充ちた大和を打ち捨てて、青土香る奈良の山を越え<その充ち充ちた大和を捨て置き、青土香る奈良の山を越えて>、いったいどう思しめされてか<どうお思いになったのか>畿内を遠く離れた田舎ではあるけれど、そんな田舎の 石走(いわばし)る近江の国の 楽浪(ささなみ)の大津の宮で、天の下をお治めになったのであろう、治められたその天皇(すめろき)の神の命(みこと)の大宮はここであったと聞くけれど、大殿はここであったというけれど、春草の茂々と生(お)いはびこっている、霞(かすみ)立つ春の日のかすんでいる<霞立つ春の日がほの曇っているのか、夏の草が生い茂っているのか、何もかも霞んで見える>、ももしきの 大宮のこのあとどころを見ると悲しい<見ると、寂しい>。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)                    

(注)たまだすき【玉襷】分類枕詞:たすきは掛けるものであることから「掛く」に、また、「頸(うな)ぐ(=首に掛ける)」ものであることから、「うなぐ」に似た音を含む地名「畝火(うねび)」にかかる。(学研)

(注の注)たまだすき【玉襷】名詞:たすきの美称。たすきは、神事にも用いた。 ※「たま」は接頭語。(学研)

(注)ひじり:支配者。ここは初代神武天皇。(伊藤脚注)

(注)つがのきの【栂の木の】分類枕詞:「つが」の音との類似から「つぎつぎ」にかかる。

(注)そらにみつ>そらみつ 分類枕詞:国名の「大和」にかかる。語義・かかる理由未詳。「そらにみつ」とも。「そらみつ大和の国」(学研)

(注)いかさまなり【如何様なり】形容動詞ナ:どのようだ。どんな具合だ。(学研)

(注)いかさまに思ほしめせか:痛恨の気持から出た表現。挽歌の常套句。(伊藤脚注)

(注)石走る:「近江」の枕詞。以下六句、山の地大和に対し水の地近江を選んだのか、の意がこもる。(伊藤脚注)

(注)ささなみの【細波の・楽浪の】分類枕詞:①琵琶(びわ)湖南西沿岸一帯を楽浪(ささなみ)といったことから、地名「大津」「志賀(しが)」「長等(ながら)」「比良(ひら)」などにかかる。「ささなみの長等」。②波は寄るところから「寄る」や同音の「夜」にかかる。「ささなみの寄り来る」 ⇒参考:『万葉集』には、①と同様の「ささなみの大津」「ささなみの志賀」「ささなみの比良」などの形が見えるが、これらは地名の限定に用いたものであって、枕詞(まくらことば)にはまだ固定していなかったともいわれる。「さざなみの」とも。(学研)

(注)天皇の神の命:天智天皇への神名的呼称。(伊藤脚注)

(注)かすみたつ【霞立つ】分類枕詞:「かす」という同音の繰り返しから、地名の「春日(かすが)」にかかる。「かすみたつ春日の里」(学研)

(注)きる【霧る】自動詞:①霧や霞(かすみ)が立ちこめる。かすむ。②目が涙でかすんでよく見えない。(学研)ここでは①の意

(注)ももしきの【百敷の・百石城の】分類枕詞:「ももしき」は「ももいしき(百石木)」の変化した語。多くの石や木で造ってあるの意から「大宮」にかかる。(学研)

 

 この二九歌、ならびに反歌二首(三〇歌、三一歌)は、近江荒都歌と呼ばれている。

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その247)」で、反歌二首とともに紹介している。

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tom101010.hatenablog.com

 

 

 

大伴御行の19-4260■

題詞は、「壬申年之乱平定以後歌二首」<壬申(じんしん)の年の乱平定(しづ)まりし以後(のち)の歌二首>とある。

(注)壬申の乱:六七二年の、近江朝大友皇子大海人皇子との皇位継承の戦乱。勝利した大海人皇子は明日香浄御原で即位、天武天皇となる。(伊藤脚注)

 

◆皇者 神尓之座者 赤駒之 腹婆布田為乎 京師跡奈之都

大伴御行 巻十九 四二六〇)

 

≪書き下し≫大君(おほきみ)は神にしませば赤駒(あかごま)の腹這(はらば)ふ田居(たゐ)を 都と成(な)しつ

 

(訳)我が大君は神でいらっしゃるので、赤駒でさえも腹まで漬(つ)かる泥深い田んぼ、そんな田んぼすらも、立派な都となされた。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)大君:天武天皇。四二六一歌と共に偉大な帝業への讃歌(伊藤脚注)

(注)腹這ふ田居:馬がまったく耕作に難渋する沼田の続く一帯。(伊藤脚注)

(注の注)はらばふ【腹這う】[動]:①腹を地面や床につけてはって進む。②腹を下にして横になる。(weblio辞書 デジタル大辞泉

(注の注)たゐ【田居】名詞:①田。たんぼ。②田のあるような田舎。(学研)ここでは①の意

 

 左注は、「右一首大将軍贈右大臣大伴卿昨」<右の一首は、大将軍贈右大臣大伴卿が作(おほとものまへつきみ)

(注)大伴卿:大伴御行。長徳の子。壬申の乱の功臣。(伊藤脚注)

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その144改)」で四二六一歌とともに紹介している。

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tom101010.hatenablog.com

 

 

 



 「古代史で楽しむ 万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫)の「青春の哀歌」の項を読んでいこう。

 「・・・人麻呂の作の最初かと推定されているのは、近江の荒都を過ぎた時の長歌である。制作年代は不明で、晩年の作だと考える学者もあるほどだが、わたしは、妙にこの長歌に青春性といったものを感じるのである、<玉襷(だすき) 畝火(うねび)の山の 橿原(かしはら)の 日知(ひじり)の御代(みよ)ゆ>と、畝傍山の東南橿原の地に即位した神武から歌いはじめる。これはむろん史実か否かたしかではないのだが、それを『日知』と称(たた)え、ついで『生(あ)れましし 神のことごと』と、歴代の天皇を『神』ととらえている。そこで天皇の荘厳さはいっそう装われていくだろう。そしてその神のひとり、天智は『いかさまに 思ほしめせか』、大和を離れて近江大津に宮居したのであった。大津は、『天離‘(あまざか)る夷(ひな)にはあれど』という。夷は都の対極であり、いま夷は都とされたのである。その行為は水鳥のすだく水沼(みぬま)や赤駒のはらばう田居(たい)を都となした(巻一九、四二六〇・四二六一)と同様の『大君は 神にしませば』の所業である。神なるがゆえの行為は、どうお考えになったのか、人麻呂には測り難き畏怖(いふ)であったわけだ。ところが、この神の所業であった宮居は、<大宮は 此処(ここ)と聞けども 大殿は 此処と言へども 春草の 繁く生ひたる 霞(かすみ)立ち 春日(はるひ)の霧(き)れる>状態であった。・・・前半に神を強調すればするだけ、現前との落差ははげしくなるだろう。この歌の生命はそこに生じている。それをいま人麻呂はいちずに悲しんでいる。春日の深草の中の礎石(いしずえ)のみをみつめて。このナイーブな感傷は、この作が若き人麻呂の手になるものであったことを、示してはいまいか。)(同著)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「古代史で楽しむ 万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 デジタル大辞泉