●歌は、「玉だすき畝傍の山の橿原のひじりの御代ゆ生れましし神のことごとつがの木のいやつぎつぎに天の下知らしめししを天にみつ大和を置きてあをによし奈良山を越えいかさまに思ほしめせかあまざかる鄙にはあれどいはばしる近江の国の楽浪の大津の宮の天の下知らしめしけむ天皇の神の尊の大宮はここと聞けども大殿はここと言へども春草の茂く生ひたる霞立ち春日の霧れるももしきの大宮ところ見れば悲しも」である。
●歌碑は、滋賀県大津市錦織2丁目 近江大津京錦織遺跡にある。
この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その241)」で反歌三十歌を、「同(その233)」で反歌三十一歌にあわせて紹介している。
●歌をみていこう。
◆玉手次 畝火之山乃 橿原乃 日知之御世従<或云自宮> 阿礼座師 神之盡樛木乃 弥継嗣尓 天下 所知食之乎<或云食来> 天尓満 倭乎置而 青丹吉 平山乎越<或云虚見倭乎置青丹吉平山越而> 何方 御念食可<或云所念計米可> 天離 夷者雖有 石走 淡海國乃 樂浪乃 大津宮尓 天下 所知食兼 天皇之 神之御言能 大宮者 此間等雖聞 大殿者 此間等雖云 春草之 茂生有 霞立 春日之霧流<或云霞立春日香霧流夏草香繁成奴留> 百磯城之 大宮處 見者悲毛<或云見者左夫思母>
(柿本人麻呂 巻一 二九)
≪書き下し≫玉たすき 畝傍(うねび)の山の 橿原(かしはら)の ひじりの御世(みよ)ゆ<或いは「宮ゆ」といふ> 生(あ)れましし 神のことごと 栂(つが)の木の いや継(つ)ぎ継ぎに 天(あめ)の下(した) 知らしめししを<或いは「めしける」といふ> そらにみつ 大和(やまと)を置きて あをによし 奈良山を越え<或いは「そらみつ 大和を置きて あをによし 奈良山越えて」といふ> いかさまに 思ほしめせか<或いは「思ほしけめか」といふ> 天離(あまざか)る 鄙(ひな)にはあれど 石走(いはばし)る 近江(あふみ)の国の 楽浪(ささなみ)の 大津の宮に 天つ下 知らしめけむ 天皇(すめろき)の 神の命(みこと)の 大宮は ここと聞けども 大殿(おほとの)は ここと言へども 春草の 茂(しげ)く生(お)ひたる 霞立つ 春日(はるひ)の霧(き)れる<或いは「霞立つ 春日か霧れる 夏草か 茂くなりぬる」といふ> ももしきの 大宮(おほみや)ところ 見れば悲しも<或いは「見れば寂しも」といふ>
(訳)神々しい畝傍の山、その山のふもとの橿原の日の御子の御代(みよ)以来<日の御子の宮以来>、神としてこの世に姿を現された日の御子の悉(ことごと)が、つがの木のようにつぎつぎに相継いで、大和にて天の下を治められたのに<治められて来た>、その充ち充ちた大和を打ち捨てて、青土香る奈良の山を越え<その充ち充ちた大和を捨て置き、青土香る奈良の山を越えて>、いったいどう思しめされてか<どうお思いになったのか>畿内を遠く離れた田舎ではあるけれど、そんな田舎の 石走(いわばし)る近江の国の 楽浪(ささなみ)の大津の宮で、天の下をお治めになったのであろう、治められたその天皇(すめろき)の神の命(みこと)の大宮はここであったと聞くけれど、大殿はここであったというけれど、春草の茂々と生(お)いはびこっている、霞(かすみ)立つ春の日のかすんでいる<霞立つ春の日がほの曇っているのか、夏の草が生い茂っているのか、何もかも霞んで見える>、ももしきの 大宮のこのあとどころを見ると悲しい<見ると、寂しい>。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
(注)たまだすき【玉襷】分類枕詞:たすきは掛けるものであることから「掛く」に、また、「頸(うな)ぐ(=首に掛ける)」ものであることから、「うなぐ」に似た音を含む地名「畝火(うねび)」にかかる。(学研)
(注の注)たまだすき【玉襷】名詞:たすきの美称。たすきは、神事にも用いた。 ※「たま」は接頭語。(学研)
(注)ひじり:支配者。ここは初代神武天皇。(伊藤脚注)
(注)つがのきの【栂の木の】分類枕詞:「つが」の音との類似から「つぎつぎ」にかかる。
(注)そらにみつ>そらみつ 分類枕詞:国名の「大和」にかかる。語義・かかる理由未詳。「そらにみつ」とも。「そらみつ大和の国」(学研)
(注)いかさまなり【如何様なり】形容動詞ナ:どのようだ。どんな具合だ。(学研)
(注)いかさまに思ほしめせか:痛恨の気持から出た表現。挽歌の常套句。(伊藤脚注)
(注)石走る:「近江」の枕詞。以下六句、山の地大和に対し水の地近江を選んだのか、の意がこもる。(伊藤脚注)
(注)ささなみの【細波の・楽浪の】分類枕詞:①琵琶(びわ)湖南西沿岸一帯を楽浪(ささなみ)といったことから、地名「大津」「志賀(しが)」「長等(ながら)」「比良(ひら)」などにかかる。「ささなみの長等」。②波は寄るところから「寄る」や同音の「夜」にかかる。「ささなみの寄り来る」 ⇒参考:『万葉集』には、①と同様の「ささなみの大津」「ささなみの志賀」「ささなみの比良」などの形が見えるが、これらは地名の限定に用いたものであって、枕詞(まくらことば)にはまだ固定していなかったともいわれる。「さざなみの」とも。(学研)
(注)かすみたつ【霞立つ】分類枕詞:「かす」という同音の繰り返しから、地名の「春日(かすが)」にかかる。「かすみたつ春日の里」(学研)
(注)きる【霧る】自動詞:①霧や霞(かすみ)が立ちこめる。かすむ。②目が涙でかすんでよく見えない。(学研)ここでは①の意
(注)ももしきの【百敷の・百石城の】分類枕詞:「ももしき」は「ももいしき(百石木)」の変化した語。多くの石や木で造ってあるの意から「大宮」にかかる。(学研)
題詞は、「過近江荒都時柿本朝臣人麻呂作歌」<近江(あふみ)の荒れたる都(みやこ)を過ぐる時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌>である。
この二九歌、ならびに反歌二首(三〇歌、三一歌)は、近江荒都歌と呼ばれている。
今回は、近江荒都歌の背景を探ってみよう。
近江朝を打倒して新政権を樹立した天武朝では、天智天皇の慰霊はなされなかったという。天武天皇が崩御して後、天智天皇のむすめである持統朝になると顧みられたという。687年に天智天皇が大津京鎮護のために建てた崇福寺で執り行われた。
そして、689年、天武天皇と持統天皇の一粒種の日並皇子(草壁皇子)が亡くなったのである。日並皇子(草壁皇子)の供養も崇福寺で行われた
691年崇福寺での仏事に出かけた近江朝慰霊の一行に柿本人麻呂も加えられたのである。
一行が近江大津京の荒れ果てた地に赴いたとき、近江朝の滅びを悲しむ一行の気持ちを代表して人麻呂が歌い上げたのが、この近江荒都歌である。
飛鳥浄御原に宮廷に戻ってから、持統天皇や当時の宮廷人たちの前で披露した考えられている。
参考までに、近江大津京遷都から近江荒都歌までの略年表は下記のとおりである。
667年 近江大津京遷都
671年 天智天皇崩ず。
686年 天武天皇崩ず
689年 日並皇子(草壁皇子)薨ず
690年 皇后即位し持統天皇
691年 近江荒都歌
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「びわ湖大津 光くんマップ(大津市観光地図)」(大津市・(公社)びわ湖大津観光協会)
20210821朝食関連記事削除、一部改訂
20231218(注)追記