万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉集の世界に飛び込もう―万葉歌碑を訪ねて(その2430)―

■まつ■

「万葉植物園 植物ガイド105」(袖ケ浦市郷土博物館発行)より引用させていただきました。

●歌は、「岩代の浜松が枝を引き結びま幸くあらばまた返り見む」である。

千葉県袖ケ浦市下新田 袖ヶ浦公園万葉植物園万葉歌碑(有間皇子) 20230926撮影

●歌碑は、千葉県袖ケ浦市下新田 袖ヶ浦公園万葉植物園にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆磐白乃 濱松之枝乎 引結 真幸有者 亦還見武

        (有間皇子 巻二 一四一)

 

≪書き下し≫岩代(いはしろ)の浜松が枝(え)を引き結びま幸(さき)くあらばまた帰り見む

 

(訳)ああ、私は今、岩代の浜松の枝と枝を引き結んでいく、もし万一この願いがかなって無事でいられたなら、またここに立ち帰ってこの松を見ることがあろう。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)岩代:和歌山県日高郡みなべ町岩代。(伊藤脚注)

(注)引き結び:枝と枝とを引き寄せて結んでいく、ああもし無事であったら。「引き結び」は現在の情景を述べた中止法。(伊藤脚注)

(注の注)ひきむすぶ【引き結ぶ】他動詞:①引っ張って結ぶ。②(草庵(そうあん)を)構える。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)ここでは①の意

 

 この歌については、有間皇子結松記念碑解説板(その岩代番外)などと共に、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1193、岩代番外)」他で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 

有間皇子に対する同情歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その197)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 

 同情歌以外に有間皇子に関連する歌は万葉集に二首収録されている。

巻一 三四歌に関して、「奈良県HP はじめての万葉集vol.69」に次のように紹介されている。

「この歌は、持統四(六九〇)年の紀伊行幸の際に、川島皇子が詠んだ歌です。『日本書紀』(巻第三十)によれば、九月十三日に紀伊行幸に出発し、同月二十四日に帰京したと記されています。

 紀伊行幸の途次で『浜松が枝』を詠むのは、有間皇子(ありまのみこ)の『磐代(いはしろ)の浜松が枝(え)を引き結び真幸(まさき)くあらばまた還り見む』(巻二・一四一番歌)を意識していたと考えられます。

 有間皇子は、謀反の罪に問われ斉明四(六五八)年に藤白(和歌山県海南市)で処刑された人物であり、この事件を題材とした歌は巻二・一四三~一四六番歌や巻九・一七一六番歌にもみえます。

 有間皇子事件が起こった時、川島皇子はまだ生まれたばかりだったはずですが、大宝元(七〇一)年に詠まれた有間皇子関係歌(一四六番歌)もあるほどですから、当時の人々は若くして刑死した皇子に同情し、悲劇として語り継いでいたとみられます。

 一方、この歌の作者である川島皇子は、朱鳥元(六八六)年に大津皇子(おおつのみこ)の謀反を密告したとされる人物です。

 現存する最古の日本漢詩集『懐風藻』(七五一年成立)には、大津皇子と生涯裏切ることのない友情を約束しながら謀反の計画を密告した川島皇子への批判は多いが、むしろ忠臣として素晴らしい行いだ、ただ、なぜ親友を十分に諫(いさ)め教えなかったのか、と疑問を呈しつつ、穏やかで度量の広い人物であったとも記しています。

 三四番歌の作者は川島皇子と記されているものの、山上憶良の作とも注記されています。事実、よく似た一七一六番歌は憶良の作です。憶良が川島皇子の思いを代弁して詠んだともいわれています。

 二つの謀反事件と、それに関わらざるを得なかった人々の苦悩を彷彿させる歌だといえます。」

 

 三四歌と一七一六歌をみてみよう。

■三四歌■

題詞は、「幸于紀伊國時川嶋皇子御作歌  或云山上臣憶良作」<紀伊の国(きのくに)に幸(いでま)す時に、川島皇子(かはしまのみこ)の作らす歌  或いは「山上臣憶良作る」といふ>である。

(注)川島皇子天智天皇の子。莫逆の友人大津皇子の謀反を朝廷に告げた。(伊藤脚注)

 

◆白浪乃 濱松之枝乃 手向草 幾代左右二賀 年乃經去良武 <一云 年者經尓計武>

       (川島皇子 巻一 三四)

 

≪書き下し≫白波の浜松が枝(え)の手向(たむ)けくさ幾代(いくよ)までにか年の経(へ)ぬらむ<一には「年は経にけむ」といふ>

 

(訳)白波寄せる浜辺の松の枝に結ばれた、この手向(たむ)けのものは、結ばれてからもうどれくらいの年月(としつき)が経(た)つのであろうか。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)浜松が枝:有間皇子につなみの岩代の浜松。(伊藤脚注)

(注)手向けくさ:無事を祈るための手向けの物。(伊藤脚注)

(注の注)くさ【種】名詞:①物事を生ずるもと。原因。たね。②種類。品(しな)。(学研)ここでは②の意

 

左注は、「日本紀曰朱鳥四年庚寅秋九月天皇紀伊國也」<日本紀には、「朱鳥(あかみとり)の四年庚寅(かのえとら)の秋の九月に、天皇紀伊国(きのくに)に幸す」といふ。>である。

(注)朱鳥(あかみとり)の四年:持統四年(690年)。書紀では「朱鳥」は天武末年一年の年号。(伊藤脚注)

 

 つづいて一七一六歌をみてみよう。

■一七一六歌■

題詞は、「山上歌一首」<山上(やまのうへ)が歌一首>である。

 

◆白那弥乃 濱松之木乃 手酬草 幾世左右二箇 年薄經濫

       (山上憶良 巻九 一七一六)

 

≪書き下し≫白波(しらなみ)の浜松の木の手向(たむ)けくさ幾代(いくよ)までにか年は経(へ)ぬらむ

 

(訳)白波の寄せる浜辺の松の木に結ばれたこの手向けのものは、結ばれてからもうどのくらいの年月が経っただろうか。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

 

左注は、「右一首或云川嶋皇子御作歌」<右の一首は、或いは「川島皇子(かはしまのみこ)の御作歌」といふ。

 

 

 

 川島皇子については、「没年:持統5.9(691) 生年:斉明3(657) 7世紀後半、天智天皇の第2皇子で、母は色夫古娘。河島皇子、河島王とも記す。妻は天武天皇の娘泊瀬部皇女である。大津皇子と親交があって運命を共にする約束をしていたが、朱鳥1(686)年、大津皇子の謀反が暴露された際には大津皇子の計画を告発する立場に立ったとされている。政府はその忠誠を嘉したが、世間には、その告発行為の是非を問う声が多かったという。事件当時から大津への同情の声があったためかとも考えられる。天武10(681)年忍壁皇子(刑部親王)と共に上古諸事の記定に参加し、国史の編纂に携わった。文筆の能力を評価されてのことであったらしい。『懐風藻』に五言絶句1首を残す。また『万葉集』(巻1)に『白波の浜松が枝の手向草幾代までにか年の経ぬらむ』の1首を収めるが、これは山上憶良の歌かとも注記されている。越智野(奈良県高取町越智)に葬られ、その折に柿本人麻呂が泊瀬部皇女と忍壁皇子に献じた歌が『万葉集』(巻2)に残されている。」(コトバンク 朝日日本歴史人物事典)

 

 大津皇子の刑死は、朱鳥元年(686年)である。そして草壁皇子が持統三年(689年)に薨じている。

 大津皇子を告発した川島皇子は持統五年(691年)に生涯を閉じている。持統天皇からみれば、我が子草壁皇子亡き後、孫の軽皇子(後の文武天皇)に皇位を継承させるために、障害となりうる人物を排除していったものと思われる。

 696年に高市皇子、699年には春日王弓削皇子、大江皇女(弓削皇子の母)が相次いで薨じているのである。

 

 歴史、風土など歌の背景を深堀して歌を読み解くことが重要であることを教えられる。また、いわゆる「反体制的とされる」人たちの歌も万葉集は収録している。この意味もまた、自分なりに考えていくことも課題となってくる。

 万葉集という海は、日々広大になっているように思える。

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉植物園 植物ガイド105」(袖ケ浦市郷土博物館発行)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク 朝日日本歴史人物事典」

★「はじめての万葉集vol.69」 (奈良県HP)