―その1192―
●歌は、「南部の浦潮な満ちそね鹿島にある釣りする海人を見て帰り来む」である。
●歌をみていこう。
◆三名部乃浦 塩莫満 鹿嶋在 釣為海人乎 見變来六
(作者未詳 巻九 一六六九)
≪書き下し≫南部(みなべ)の浦潮な満ちそね鹿島(かしま)にある釣りする海人(あま)を見て帰り来(こ)む
(訳)南部(みなべ)の浦、この浦に潮よそんなに満ちないでおくれ。向かいの鹿島で釣りする海人(あま)を、見て帰って来たいから。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)鹿島:南部の約1キロ沖にある島
題詞は、「大寳元年辛丑冬十月太上天皇大行天皇幸紀伊國時歌十三首」<大宝(だいほう)元年辛丑(かのとうし)の冬の十月に、太上天皇(おほきすめらみこと)・大行天皇(さきのすめらみこと)、紀伊の国(きのくに)に幸(いでま)す時の歌十三首>である。
(注)ここでは太上天皇は持統天皇、大行天皇は文武天皇をさす。
この歌並びに「十三首」についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その742)」で紹介している。
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駐車場の一角に、「みなべ町指定文化財 鹿島 万葉の故郷」と題する説明案内板、万葉歌碑、和歌山県朝日・夕陽百選の碑、吉野熊野国立公園・南部海岸の碑とずらりと並んでいる。
「鹿島」については、「みなべ町指定文化財 鹿島 万葉の故郷」と題する説明案内板に「鹿島は、紀州路みなべから約0.6kmの海上にある無人島で、周囲約1,5km、面積2.6 ha、最高標高27mである。南島南端には、万葉時代より鹿島神社(祭神タケミカヅチノ神)が鎮座、神が降臨したとき坐られたという要石(かなめいし)のお蔭で、古来より地震・津波の被害が軽微であったという。(後略)」と書かれている。
■田辺市秋津町「宝満禅寺」➡日高郡みなべ町「国民宿舎紀州路みなべ」
山を下り、再び海岸線へ。
国民宿舎は少し高台にある。駐車場からの眺めも素晴らしい。歌碑やら説明案内板やらが建っている。曇りがちでどんよりしていたのが残念である。
歌に詠まれている鹿島も一望できる。
次の目的地は、今回最も行きたかった「有間皇子結松記念碑」である。
―その1193―
●歌は、「岩代の浜松が枝を引き結びま幸くあらばまた返り見む」である。
●歌をみていこう。
◆磐白乃 濱松之枝乎 引結 真幸有者 亦還見武
(有間皇子 巻二 一四一)
≪書き下し≫岩代(いはしろ)の浜松が枝(え)を引き結びま幸(さき)くあらばまた帰り見む
(訳)ああ、私は今、岩代の浜松の枝と枝を引き結んでいく、もし万一この願いがかなって無事でいられたなら、またここに立ち帰ってこの松を見ることがあろう。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
この歌については、直近ではブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1188)」で紹介している。
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何故「有間皇子結松記念碑でなく、光照寺が先になったかは後程。
―その1194―
●歌は、「君が代も我が予も知るや岩代の岡の草根をいざ結びてな」である。
●歌をみていこう。
一〇から一二歌の、題詞は、「中皇命徃于紀温泉之時御歌」<中皇命(なかつすめらみこと)、紀伊の温泉に徃(いでま)す時の御歌>である。
◆君之齒母 吾代毛所知哉 磐代乃 岡之草根乎 去来結手名
(中皇命 巻一 一〇)
≪書き下し≫君が代(よ)も我(わ)が代(よ)も知るや岩代(いはしろ)の岡の草根(くさね)をいざ結びてな
(訳)我が君の命も私の命をも支配している、岩代の岡の草根、この草根を結びましょう。(結んで互いの命の幸を祈りましょう。)(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)君:男性への尊称。ここでは中大兄皇子をさす。
(注)しる【知る】他動詞:治める。統治する。(学研)
他の二首もみてみよう。
◆吾勢子波 借廬作良須 草無者 小松下乃 草乎苅核
(中皇命 巻一 一一)
≪書き下し≫我(わ)が背子(せこ)は仮廬(かりいほ)作らす草(かや)なくは小松(こまつ)が下(した)の草(かや)を刈らさね
(訳)我が君は仮廬(かりいお)をお作りになる。佳(よ)きかやがないのなら、小松の下のかや、あのかやをお刈りなさい。(そうすればけがれなきめでたき一夜を過ごし得ましょう。)(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
(注)は 係助詞:《接続》体言、活用語の連用形・連体形、助詞など種々の語に付く。〔順接の仮定条件〕…ならば。▽形容詞型活用の語および打消の助動詞「ず」の連用形に付く。(学研)
◆吾欲之 野嶋波見世追 底深伎 阿胡根能浦乃 珠曽不拾 <或頭云 吾欲 子嶋羽見遠>
(斉明天皇 巻一 一二)
≪書き下し≫我(わ)が欲(ほ)りし野島は見せつ底深き阿胡根(あごね)の浦の玉ぞ拾(ひり)はぬ <或いは頭に「我が欲りし子島は見しを」といふ>
(訳)私が見たいと待ち望んでいた野島は見せていただきました。しかし、そこ深い阿胡根の浦の珠(たま:魂)はまだ拾っていません。<私が見たいと待ち望んでいた子島は見ましたが>(同上)
(注)野島:和歌山県御坊市南部の島。見通しのきく、航海の安全を祈る地
(注)阿胡根の浦:野島付近だが所在未詳
(注)子島:所在未詳
左注は、「右檢山上憶良大夫類聚歌林曰 天皇御製歌云ゝ」<右は、山上憶良大夫が類聚歌林に検(ただ)すに、日はく、「天皇の御製歌云ゝ」といふ>である。
「みなべ町指定文化財 万葉の故郷(岡と結<むすび>)題する説明案内板に「斉明四(六五八)年十月、斉明天皇の一行が紀の湯旅をされた。そのとき中皇命(なかつすめらみこと)<宝皇女・間人(はしひと)皇女・倭姫説あり>が、この地(岡)付近で二首の和歌を詠まれた。同年十一月には、謀反の罪で斉明天皇の旅先の紀の湯に護送される途次の有間皇子が、当地の南二〇〇mの結の地で、自分の平安無事を祈って二首の和歌を詠まれたが、皇子の願い空しく帰途十九歳で処刑された。(後略)」と書かれている。
光照寺には、まだ真新しい一四一歌と一〇歌の解説案内板が建てられている。
―その番外岩代―
●歌は、「岩代の浜松が枝を引き結びま幸くあらばまた返り見む (巻二 一四一)
「家なれば笱に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る(巻二 一四二)である。
●歌碑(プレート)は、有間皇子結松記念碑解説板にある。
■日高郡みなべ町「国民宿舎紀州路みなべ」➡日高郡みなべ町西岩代「光照寺」
当初は、「有間皇子結松記念碑」に行くつもりであった。事前にストリートビューで確認はしておいたのであるが、実際に走っていると見落してしまったようである。またまた行過ごし、引き返すはめに。
再挑戦する。それらしきところに白い看板があり「万葉歌碑・・・」の文字がちらっと見えた。しかし、国道である。車を急に止められる状況ではない。再々挑戦を余儀なくされる。その説明板の反対側のスペースに車を停める。「万葉歌碑は、熊野古道・岡の地に移設」といったことが書かれていた。移設先等検索してみるが、直近の情報は得られない。
「熊野古道」では車は無理だろう。諦めねばならないのかと思いつつ、検索していると、有間皇子結松記念碑の写真と共に「問い合わせ先:みなべ町教育委員会」とあったので、問い合わせてみた。
平成十六年の合併の事業として「光照寺」に歌碑を移設した、旨の回答をいただきた。お寺への行き方、「有間皇子結松記念碑」はカーブの所にあり見落としがちであると、親切に教えていただく。感謝感激である。ストリートビューで確認ができても実際に走ってみると見落していたのである。
「光照寺」正門前に「有間皇子結松記念碑200m」の案内指示板があった。そこを下ると目の前に見落していた「有間皇子結松記念碑」があった。確かにカーブになっており、完全に死角に入っている。
光照寺正面から国道に出る道は非常に狭く、すぐそこに国道というところで急な左直角の下り道となる。何度も何度も切り返しをするが危うく脱輪するところであった。(迂回がおすすめです。)
有間皇子の歌については、これまでも何度となく紹介してきている。ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その747)」では、藤白神社の境内社有間皇子神社や有間皇子の墓とともに紹介している。
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有間皇子の謀反の背景と皇子に対する同情歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その197)」で紹介している。
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椎の葉にのせてお供えする習慣が和歌山県日高郡みなべ町一帯にあることから風土と結びつけた歌の解釈等についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その217)」で紹介している。
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「笥」は、おそらく土師器のかわらけのようなものであろう。やきものに関する歌についてブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1145)」で紹介している。
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(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「『みなべ町指定文化財 鹿島 万葉の故郷』と題する説明案内板」
★「『みなべ町指定文化財 岡と結 万葉の故郷』と題する説明案内板」