―その1998―
●歌は、「いにしへに恋ふる鳥かも弓絃葉の御井の上より鳴き渡り行く」である。
●歌碑は、高知県大豊町粟生 土佐豊永万葉植物園(4)である。
●歌をみていこう。
◆古尓 戀流鳥鴨 弓絃葉乃 三井能上従 鳴嚌遊久
(弓削皇子 巻二 一一一)
≪書き下し≫いにしへに恋ふらむ鳥かも弓絃葉(ゆずるは)の御井(みゐ)の上(うへ)より鳴き渡り行く
(訳)古(いにしえ)に恋い焦がれる鳥なのでありましょうか、鳥が弓絃葉の御井(みい)の上を鳴きながら大和の方へ飛び渡って行きます。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
(注)こふ【恋ふ】他動詞:心が引かれる。慕い思う。なつかしく思う。(異性を)恋い慕う。恋する。 ⇒注意 「恋ふ」対象は人だけでなく、物や場所・時の場合もある。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
題詞は、「幸于吉野宮時弓削皇子贈与額田王歌一首」<吉野の宮に幸(いでま)す時に、弓削皇子(ゆげのみこ)の額田王(ぬかたのおほきみ)に贈与(おく)る歌一首>である。
(注)吉野の宮に幸(いでま)す時:藤原遷都(持統八年 694年)以前の行幸らしい。(伊藤脚注):
この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1041)」で、歌の背景等も紹介している。
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また、弓削皇子に忍び寄る持統天皇の影については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その200)」で紹介している。
弓削皇子の一一一歌に対し、額田王は一一二歌で和(こた)えている。梅原 猛氏は、その著「水底の歌 柿本人麿論(下)」(新潮文庫)のなかで、「・・・二人が共通に愛する人―天武帝のことを思いあっているのである。おそらく弓削皇子は、天武帝に特別に可愛がられた皇子であろう。その皇子が、亡き父のことをしきりに恋しがるのである。父が生きていたならば、というこの嘆きは、とかく現在における彼の地位の不安定さから生じるのであろう。持統天皇の猜疑(さいぎ)の眼は、彼の周辺にも冷たく光っていたはずである。・・・」と書かれている。
「続日本紀」には、
文武三年 六月二七日 春日王卒
同年 七月二一日 弓削皇子薨、
同年 十二月 三日 大江皇女薨 とある。
春日王は、なにかと弓削皇子を支えてきた人物であり、大江皇女は弓削皇子の母である。
次の歌をみてみよう。
題詞は、「弓削皇子薨時置始東人作歌一首 幷短歌」<弓削皇子の薨ぜし時に、置始東人(おきそめのあづまひと)が作る歌一首 幷(あは)せて短歌>である。
(注)置始東人:文武朝の宮廷歌人。弓削皇子の舎人か。(伊藤脚注)
◆安見知之 吾王 高光 日之皇子 久堅乃 天宮尓 神随 神等座者 其乎霜 文尓恐美 晝波毛 日之盡 夜羽毛 夜之盡 臥居雖嘆 飽不足香裳
(置始東人 巻二 二〇四)
≪書き下し≫やすみしし 我(わ)が大君 高(たか)光る 日の御子(みこ) ひさかたの 天(あま)つ宮(みや)に 神(かむ)ながら 神(かみ)といませば そこをしも あやに畏(かしこ)み 昼(ひる)はも 日(ひ)のことごと 夜(よる)はも 夜(よ)のことごと 伏(ふ)し居(ゐ)嘆けど 飽(あ)き足(だ)らぬかも
(訳)あまねく天下を支配せられる我が主君、高く光り輝く天皇(すめらみこと)の皇子、皇子は天上の御殿に神々しくも神として鎮まりいますので、そのことをばただただ恐れ畏み、昼は日ねもす、夜は夜もすがら、伏したり坐(すわ)ったりして悲しみ嘆くけれども、思いはつきず満ち足りることがない。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)ひさかたの以下四句、殯宮に籠ったことをいう。(伊藤脚注)
(注)しも 副助詞:《接続》体言、活用語の連用形・連体形、副詞、助詞などに付く。:①〔多くの事柄の中から特にその事柄を強調する〕…にかぎって。②〔強調〕よりによって。折も折。ちょうど。▽多く「しもあれ」の形で。③〔逆接的な感じを添える〕…にもかかわらず。かえって。▽活用語の連体形に付く。④〔部分否定〕必ずしも…(でない)。▽下に打消の語を伴う。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)ここでは①の意
二〇五歌、二〇六歌もみてみよう。
◆王者 神西座者 天雲之 五百重之下尓 隠賜奴
(置始東人 巻二 二〇五)
≪書き下し≫大君は神にしませば天雲(あまくも)の五百重(いほえ)が下(した)に隠(かく)りたまひぬ
(訳)わが大君は神であらせられるので、天雲が幾重にも重なるその奥にお隠れになってしまった。(同上)
(注)上二句、現人神思想による表現。(伊藤脚注)
(注)下に:目に見えぬ裏。奥のほう。(伊藤脚注)
◆神樂浪之 志賀左射礼浪 敷布尓 常丹跡君之 所念有計類
(置始東人 巻二 二〇六)
≪書き下し≫楽浪(ささなみ)の志賀さざれ波しくしくに常にと君が思ほせりける
(訳)楽浪の志賀の浜辺のさざ波、その波が絶え間なくうち寄せるように、わが皇子は、しきりに、“いつまでも永らえたい”と思い続けておられた、それなのに。(同上)
(注)上二句は序。「しくしくに」を起す。(伊藤脚注)
(注)さざれ- 【細れ】接頭語:「ささ(細)ら」に同じ。「さざれ石」「さざれ波」(学研)
(注)しくしく(と・に)【頻く頻く(と・に)】副詞:うち続いて。しきりに。(学研)
生方たつゑ氏は、その著「悲劇の皇子の<真実像>!大津皇子」(角川選書)のなかで、「持統天皇に重んじられなかった弓削皇子が死の予感に悩まされていたのは一体どのようなことであったであろうか。そしてそのなぐさめ手であった春日王も、弓削皇子の生母も、同年の死で終わっていることも謎をふくむ死の重なり合いである。梅原猛氏は、『これらは与えられた死である』と言っている。・・・置始東人の挽歌から弓削皇子が『常にと君が思ほせりける』こころを持っていられたことがうかがわれる。梅原猛氏の、弓削皇子の死はたしかに与えられた死、政治的反逆者に与えられた死である、急遽ふりおろされた死による人々の嘆きは深かったはずである。置始東人は、この死を心からいたんだことが単なる病死ではないからだ、とする説もうなずけるように思う。」と書かれている。
―その1999―
●歌は、「岩代の浜松が枝を引き結びま幸くあらばまた返り見む」である。
●歌碑は、高知県大豊町粟生 土佐豊永万葉植物園(5)である。
●歌をみていこう。
一四一、一四二歌の題詞は、「有間皇子自傷結松枝歌二首」<有間皇子(ありまのみこ)、自(みづか)ら傷(いた)みて松が枝(え)を結ぶ歌二首>である。
梅原 猛氏は、「自傷」という言葉は、非業の死をとげた有間皇子の歌の詞書と同じ表現であり「鴨山五首」に使われていることを指摘、人麿の死が尋常な死でないことを感じさせるとして人麿刑死説を展開されている。
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◆磐白乃 濱松之枝乎 引結 真幸有者 亦還見武
(有間皇子 巻二 一四一)
≪書き下し≫岩代(いはしろ)の浜松が枝(え)を引き結びま幸(さき)くあらばまた帰り見む
(訳)ああ、私は今、岩代の浜松の枝と枝を引き結んでいく、もし万一この願いがかなって無事でいられたなら、またここに立ち帰ってこの松を見ることがあろう。(同上)
(注)引き結び:枝と枝とを引き寄せて結んでいく、ああもし無事だったら。「引き結び」は現在の情景を述べた中止法。(伊藤脚注)
拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その番外岩代)」では、和歌山県日高郡みなべ町西岩代国道42号線沿いにある「有間皇子結松記念碑」を紹介している。
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―その2000―
●歌は、「家なれば笱に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る」である。
●歌碑は、高知県大豊町粟生 土佐豊永万葉植物園(6)である。
●歌をみていこう。
◆家有者 笱尓盛飯乎 草枕 旅尓之有者 椎之葉盛
(有間皇子 巻二 一四二)
≪書き下し≫家なれば笱(け)に盛(も)る飯(いひ)を草枕旅(たび)にしあれば椎(しひ)の葉に盛る
(訳)家にいる時にはいつも立派な器物(うつわもの)に盛ってお供えをする飯(いい)なのに、その飯を、今旅の身である私は椎(しい)の葉に盛って神祭りをする。(同上)
(注)盛る:盛って神に手向ける。(伊藤脚注)
(注)「家」と「旅」との対比は行路を嘆く歌の型。(伊藤脚注)
一四一、一四二歌ともにこれまで幾度となく紹介している。
一四二歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1157)」で紹介するとともに、藤白神社ならびに有間皇子の墓(その747)、有間皇子の謀反の背景と皇子に対する同情歌(その197)、椎の葉にのせてお供えする風習(その217)、笱(け)に関して(その1145)へのリンクをはっている。
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「その2000」ということは、歌は重複しているものもあるが、歌碑や歌碑(プレート)として2000基を紹介してきたということである。紹介させていただく中で、万葉集に対する自身の勉強をしてきたつもりである。常に万葉集の巨大さにいつも舌を巻いている。2000は単なる通過点である。これからもさらなる展開がはかれるよう頑張っていきたいと思っております。
皆様に拙い小生のブログを読んでいただくことが、励みになっております。紙面を借りまして心より御礼申し上げます。また、今後ともよろしくご指導賜りますことをお願い申し上げます。ありがとうございます。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「水底の歌 柿本人麿論(上)」梅原 猛 著 (新潮文庫)
★「水底の歌 柿本人麿論(下)」梅原 猛 著 (新潮文庫)
★「悲劇の皇子の<真実像>!大津皇子」 生方たつゑ 著 (角川選書)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」