●歌は、「飛ぶ鳥明日香の川の上つ瀬に流れ触らばふ玉藻なすか寄りかく寄り・・・(柿本人麻呂 2-194)」、「つのさはふ磐余の道を朝さらず行きけむ人の思ひつつ通ひけまくは・・・(山前王 3-423)」、「天地の 初めの時 ひさかたの 天の河原に 八百万 千万神の 神集ひ 集ひいまして 神分ち 分ちし時に・・・(柿本人麻呂 2-167)」、「哭沢の神社に御瓶据ゑ折れども我が大君は高日知らしぬ(柿本人麻呂 2-202)」ならびに「明日香川しがらみ渡し塞かませば流るる水ものどにかあらまし(柿本人麻呂 2-197)」である。
●歌碑は、柿本人麻呂の2-194が、島根県益田市県立万葉公園に、柿本人麻呂の2-202が、橿原市木之本町畝尾都多本神社に、柿本人麻呂の2-197は、奈良県橿原市今井町まちなみ交流センターにある。
●それぞれの歌をみていこう。
■柿本人麻呂の2-194■
題詞は、「柿本朝臣人麻呂獻泊瀬部皇女忍坂部皇子歌一首 幷短歌」<柿本朝臣人麻呂、泊瀬部皇女(はつせべのひめみこ)と忍坂部皇子(おさかべのみこ)とに献(たてまつ)る歌一首 幷(あは)せて短歌>である。
(注)泊瀬部皇女:?-741 飛鳥(あすか)-奈良時代,天武天皇の皇女。・・・持統天皇5年川島皇子をほうむるとき、柿本人麻呂が皇女に献じた歌があるところから、川島皇子の妻だったという説が有力。(後略)(コトバンク 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus)
(注)忍坂部皇子:天武天皇の第9皇子。・・・忍壁皇子などともいい、忍坂部とも書く。大宝律令の制定と施行に従事した。672年(天武1)壬申の乱に草壁皇子とともに・・・天武天皇に合流。・・・679年皇后(持統),草壁皇子,大津皇子ら6人と天武天皇に忠誠を誓う。681年詔を受け,川島皇子らと帝紀および上古諸事を記定。(コトバンク 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版) 泊瀬部皇女の同母兄。
(注)持統五年九月九日、川島皇子没。越智野で喪に服する妻泊瀬部とその兄忍壁とに歌を献呈したもの。(伊藤脚注)
◆飛鳥 明日香乃河之 上瀬尓 生玉藻者 下瀬尓 流觸經 玉藻成 彼依此依 靡相之 嬬乃命乃 多田名附 柔膚尚乎 劔刀 於身副不寐者 烏玉乃 夜床母荒良無 <一云 阿礼奈牟> 所虚故 名具鮫兼天 氣田敷藻 相屋常念而 <一云 公毛相哉登> 玉垂乃 越能大野之 旦露尓 玉裳者埿打 夕霧尓 衣者沾而 草枕 旅宿鴨為留 不相君故
(柿本人麻呂 巻二 一九四)
≪書き下し≫飛ぶ鳥の 明日香の川の 上(かみ)つ瀬に 生(お)ふる玉藻は 下つ瀬に 流れ触(ふ)らばふ 玉藻なす か寄りかく寄り 靡(なび)かひし 夫(つま)の命(みこと)の たたなづく 柔肌(にきはだ)すらを 剣太刀(つるぎたち) 身に添へ寝(ね)ねば ぬばたまの 夜床(よとこ)も荒るらむ<一には「荒れなむ」といふ> そこ故(ゆゑ)に 慰(なぐさ)めかねて けだしくも 逢ふやと思ひて <一には「君も逢ふやと」といふ> 玉垂(たまだれ)の 越智(をち)の大野(おほの)の 朝露(あさつゆ)に 玉裳(たまも)はひづち 夕霧(ゆふぎり)に 衣(ことも)は濡(ぬ)れて 草枕 旅寝(たびね)かもする 逢はぬ君故(ゆゑ)
(訳)飛ぶ明日香川の川上の、川上の瀬に生えている玉藻は、川下の瀬に向かって靡き触れ合っている。その玉藻さながらに靡き寄り添うた夫(せ)の皇子(みこ)が、どうしてかふくよかな皇女(ひめみこ)の柔肌(やわはだ)を今は身に添えてやすまれることがないので、さぞや夜の床も空しく荒れすさんでいることであろう<空しく荒れすさんでゆくことであろう>。そう思うと、どうにも御心を慰めかねて、もしや夫(せ)の君にひょっこり逢(あ)えもしようかと<夫の君がひょっこり現われもしようかと思って>、越智の荒野の朝露に裳裾(もすそ)を泥まみれにし、夕霧に衣を湿らせながら、旅寝をなさっておられることか。逢えない夫の君を慕うて。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)流れ触らばふ:靡いて触れあっている。(伊藤脚注)
(注)かよりかくよる【か寄りかく寄る】:[連語]あっちへ寄り、こっちへ寄る。(コトバンク デジタル大辞泉)
(注)たたなづく【畳なづく】分類枕詞:①幾重にも重なっている意で、「青垣」「青垣山」にかかる。②「柔肌(にきはだ)」にかかる。かかる理由は未詳。 ⇒参考 (1)①②ともに枕詞(まくらことば)ではなく、普通の動詞とみる説もある。(2)②の歌は、「柔肌」にかかる『万葉集』唯一の例。(学研)
(注)つるぎたち【剣太刀】分類枕詞:①刀剣は身に帯びることから「身にそふ」にかかる。②刀剣の刃を古くは「な」といったことから「名」「汝(な)」にかかる。③刀剣は研ぐことから「とぐ」にかかる。(学研)
(注)「夫の命の たたなづく 柔肌すらを 剣太刀 身に添へ寝ねば」:夫の川島が妻の柔肌を身に添えて休むことがないので、の意。(伊藤脚注)
(注)その故に:夜床が荒れるままなので。(伊藤脚注)
(注)けだし【蓋し】副詞:①〔下に疑問の語を伴って〕ひょっとすると。あるいは。②〔下に仮定の表現を伴って〕もしかして。万一。③おおかた。多分。大体。(学研)
(注)たまだれの【玉垂れの】分類枕詞:緒(お)で貫いた玉を垂らして飾りとしたことから「緒」と同じ音の「を」にかかる。(学研)
(注)越智の大野:佐田の岡の西に続く越智周辺の原野。(伊藤脚注)奈良県高取町にある。
(注)ひづつ【漬つ】自動詞:ぬれる。泥でよごれる。(学研)
(注)旅寝かもする:服喪をこのように見たてた。(伊藤脚注)
この歌については、また反歌一首(一九五歌)については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1284)」ならびに(その1285)で紹介している。
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■山前王 3-423■
題詞は、「同石田王卒之時山前王哀傷作歌一首」<同じく石田王(いはたのおほきみ)が卒(みまか)りし時に、山前王(やまさきのおほきみ)が哀傷(かな)しびて作る歌一首>である。
◆角障経 石村之道乎 朝不離 将歸人乃 念乍 通計萬口波 霍公鳥 鳴五月者 菖蒲花橘乎 玉尓貫<一云貫交> 蘰尓将為登 九月能 四具礼能時者 黄葉乎 析挿頭跡 延葛乃 弥遠永<一云田葛根乃 弥遠長尓> 萬世尓 不絶等念而<一云大舟之念憑而> 将通 君乎婆明日従<一云君乎従明日者> 外尓可聞見牟
(山前王 巻三 四二三)
≪書き下し≫つのさはふ 磐余(いはれ)の道を 朝さらず 行きけむ人の 思ひつつ 通ひけまくは ほととぎす 鳴く五月(さつき)には あやめぐさ 花橘(はなたちばな)を 玉に貫(ぬ)き<一には「貫(ぬ)き交(か)へ」といふ> かづらにせむと 九月(ながつき)の しぐれの時は 黄葉(もみぢは)を 折りかざさむと 延(は)ふ葛(くず)の いや遠長く<一には「葛(くず)の根のいや遠長に」といふ> 万代(よろづよ)に 絶えじと思ひて<一には「大船の思ひたのみて」といふ> 通ひけむ 君をば明日(あす)ゆ<一には「君を明日ゆは」といふ> 外(よそ)にかも見む
(訳)あの磐余の道を毎朝帰って行かれたお方が、道すがらさぞや思ったであろうことは、ほととぎすの鳴く五月には、ともにあやめ草や花橘を玉のように糸に通して<貫き交えて>髪飾りにしようと、九月の時雨の頃には、ともに黄葉を手折って髪に挿そうと、そして、這う葛のようにますます末長く<葛の根のようにいよいよ末長く>いついつまでも仲睦(むつ)まじくしようと、こう思って<大船に乗ったように頼みにしきって>通ったことであろう、その君を事もあろうに明日からはこの世ならぬ外の人として見るというのか。(同上)
(注)つのさはふ 分類枕詞:「いは(岩・石)」「石見(いはみ)」「磐余(いはれ)」などにかかる。語義・かかる理由未詳。(学研)
(注)朝さらず:毎朝帰って行かれた人が。(伊藤脚注)
(注)通ひけまくは:通ったであろうことは。下の「通ひけむ」と呼応する。ケマクはケムのク語法。(伊藤脚注)
(注)はふくずの【這ふ葛の】分類枕詞:葛のつるが長くはうようにのびることから「いや遠し」「後(のち)も逢(あ)はむ」「絶えず」などにかかる。(学研)
左注は、「右一首或云柿本朝臣人麻呂作」<右の一首は、或いは「柿本朝臣人麻呂が作」といふ>である。
(注)山前王の原案を人麻呂が修正したことによる異伝か。(伊藤脚注)
この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その286)」で紹介している。
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■柿本人麻呂 2-167■
題詞は、「日並皇子尊殯宮之時柿本朝臣人麻呂作歌一首 幷短歌」<日並皇子尊(ひなみしみこのみこと)の殯宮(あらきのみや)の時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌一首 幷(あは)せて短歌>である。
(注)日並皇子尊:皇太子草壁。天武と持統の子。(伊藤脚注)
◆天地之 初時 久堅之 天河原尓 八百萬 千萬神之 神集 ゝ座而 神分 ゝ之時尓 天照 日女之命<一云 指上 日女之命> 天乎婆 所知食登 葦原乃 水穂之國乎 天地之 依相之極 所知行 神之命等 天雲之 八重掻別而 <一云 天雲之 八重雲別而> 神下 座奉之 高照 日之皇子波 飛鳥之 浄之宮尓 神随 太布座而 天皇之 敷座國等 天原 石門乎開 神上 ゝ座奴 <一云 神登 座尓之可婆> 吾王 皇子之命乃 天下 所知食世者 春花之 貴在等 望月乃 満波之計武跡 天下 <一云 食國> 四方之人乃 大船之 思憑而 天水 仰而待尓 何方尓 御念食可 由縁母無 真弓乃岡尓 宮柱 太布座 御在香乎 高知座而 明言尓 御言不御問 日月之 數多成塗 其故 皇子之宮人 行方不知毛 <一云 刺竹之 皇子宮人 歸邊不知尓為>
≪書き下し≫天地(あめつち)の 初めの時 ひさかたの 天(あま)の河原(かはら)に 八百万(やほよろず) 千万神(ちよろづかみ)の 神集(かむつど)ひ 集ひいまして 神分(かむわか)ち 分ちし時に 天(あま)照らす 日女(ひるめ)の命(みこと)<一には「さしのぼる 日女の命といふ> 天(あめ)をば 知らしめすと 葦原(あしはら)の 瑞穂(みづほ)の国を 天地の 寄り合ひの極(きは)み 知らしめす 神(かみ)の命(みこと)と 天雲(あまくも)の 八重(やへ)かき別(わ)けて <一には「天雲の八重雲別けて」といふ> 神下(かむくだ)し いませまつりし 高照らす 日の御子(みこ)は 明日香の 清御原(きよみ)の宮に 神(かむ)ながら 太敷(ふとし)きまして すめろきの 敷きます国と 天(あま)の原 岩戸(いはと)を開き 神上(かむあが)り 上りいましぬ <一には「神登り いましにしかば」といふ> 我(わ)が大君(おほきみ) 皇子(みこ)の命(みこと)の 天(あめ)の下(した) 知らしめす世は 春花(はるはな)の 貴(たひと)くあらむと 望月(もちづき)の 満(たたは)しけむと 天の下<一には「食す国」といふ> 四方(よも)の人の 大船(おほぶね)の 思ひ頼みて 天(あま)つ水 仰ぎて待つに いかさまに 思ほしめせか つれもなき 真弓(まゆみ)の岡に 宮柱(みやばしら) 太敷(ふとし)きいまし みあらかを 高知りまして 朝言(あさこと)に 御言(みこと)問はさず 日月(ひつき)の 数多(まね)くなりぬる そこ故(ゆゑ)に 皇子(みこ)の宮人(みやひと) ゆくへ知らずも <一には「さす竹の 皇子の宮人 ゆくへ知らにす」といふ>
(訳)天と地とが初めて開けた時のこと、ひさかたの天の河原にたくさんの神々がお集まりになってそれぞれ統治の領分をお分けになった時に、天照らす日女(ひるめ)の神は<さしのぼる日女の神は>天上を治められることになり、一方、葦原の瑞穂(みずほ)の国を天と地の寄り合う果てまでもお治めになる貴い神として幾重にも重なる天雲をかき分けて<天雲の八重に重なるその雲を押し分けて>神々がお下し申した日の神の御子(天武天皇)は、明日香の清御原の宮に神のままにご統治になり、そして、この瑞穂の国は代々の天皇が治められるべき国であるとして、天の原の岩戸を開いて神のままに天上に上(あが)ってしまわれた。<神のままに天上に登って行かれてしまったので>、 われらが大君、皇子の命(日並皇子尊)が天の下をお治めになる世は、さぞかし、春の花のようにめでたいことであろう、満つる月のように欠けることがないであろうと、天の下の<国じゅうの>人びとみんなが大船に乗ったように安らかに思い、天の恵みの雨を仰いで待つように待ち望んでいたのに、何と思(おぼ)し召されてか、ゆかりもない真弓の岡に宮柱を太々と立てられ、御殿を高々と営まれて、朝のお言葉もおかけになることなく、そんな月日が積もりに積もってしまった。それがために皇子の宮の宮人たちは、ただただ途方に暮れている<さす竹の皇子の宮人たちはただ途方に暮れている>(同上)
(注)分ちし時:統治する領分を分けた時に。(伊藤脚注)
(注)ひるめ【日孁/日霊/日女】:《日の女神の意》天照大神(あまてらすおおみかみ)の美称。ひるみ。(weblio辞書 デジタル大辞泉)
(注)あしはら【葦原】の瑞穂(みずほ)の国(くに):(葦原にあるみずみずしい稲の穂が実っている国の意) 日本国の美称。豊葦原(とよあしはら)の瑞穂の国。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典)
(注)はるはなの【春花の】分類枕詞:①春の花が美しく咲きにおう意から「盛り」「にほえさかゆ」にかかる。②春の花をめでる意から「貴(たふと)し」や「めづらし」にかかる。③春の花が散っていく意から「うつろふ」にかかる。(学研)ここでは②の意。
(注)もちづきの【望月の】分類枕詞①満月には欠けた所がないことから「たたはし(=満ち足りる)」や「足(た)れる」などにかかる。②満月の美しく心ひかれるところから「愛(め)づらし」にかかる。(学研)ここでは①の意
(注)たたはし 形容詞:①満ち足りている。完全無欠である。◇「たたはしけ」は上代の未然形。②いかめしく、おごそかである。威厳がある。(学研)ここでは①の意
(注)おほぶねの【大船の】分類枕詞:①大船が海上で揺れるようすから「たゆたふ」「ゆくらゆくら」「たゆ」にかかる。②大船を頼りにするところから「たのむ」「思ひたのむ」にかかる。③大船がとまるところから「津」「渡り」に、また、船の「かぢとり」に音が似るところから地名「香取(かとり)」にかかる。「おほぶねの渡(わたり)の山」(学研)ここでは②の意
(注)あまつみづ【天つ水】[枕]日照りに雨を待ち望む意から、「仰ぎて待つ」にかかる。(goo辞書)
(注)つれもなし 形容詞:①なんの関係もない。ゆかりがない。②冷淡だ。つれない。 ※「つれ」は関係・つながりの意。(学研)ここでは①の意
(注)真弓の岡:近鉄飛鳥駅の西、佐田の地(伊藤脚注)
(注)みあらか【御舎・御殿】名詞:御殿(ごてん)。 ※「み」は接頭語。上代語。(学研)
この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1402)」で紹介している。
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■柿本人麻呂 2-202■
一九九から二〇一歌の歌群の題詞は、「高市皇子尊城上殯宮之時柿本朝臣人麻呂作歌一首 幷短歌」<高市皇子尊(たけちのみこのみこと)の城上(きのへ)の殯宮(あらきのみや)の時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌一首 幷(あは)せて短歌>であり、二〇二のそれは、「或書反歌一首」<或書の反歌一首>である。
(注)高市皇子:天武天皇の皇子中、最年長。壬申の乱(六七二)の時、指揮を任されて勝利を導いた。時に十九歳。草壁亡きあと持統四年(六九〇)太政大臣。持統十年七月十日没。「尊」の称号を贈られる。(伊藤脚注)
一九九から二〇二歌については、直近では、拙稿ブログ「万葉集の世界に飛び込もう(その2563)」で紹介している。
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■柿本人麻呂 2-197■
一九六から一九八歌の題詞は、「明日香皇女木▼殯宮之時柿本朝臣人麻呂作歌一首幷短歌」の短歌二首のうちの一首である。題詞の書き下しは、「明日香皇女(あすかのひめみこ)の城上(きのへ)の殯宮(あらきのみや)の時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌一首幷せて短歌」である。
※▼は「瓦+缶」 「木▼」=きのへ
(注)明日香皇女:天智天皇の娘。忍壁皇子の妃。文武四年(七〇〇)没。(伊藤脚注)
(注)城上:桜井市戒重付近か。(伊藤脚注)
長歌から順にみてみよう。
◆飛鳥 明日香乃河之 上瀬 石橋渡(一云、石浪) 下瀬 打橋渡 石橋(一云、石浪) 生靡留 玉藻毛叙 絶者生流 打橋 生乎為礼流 川藻毛叙 干者波由流 何然毛 吾王生乃 立者 玉藻之如許呂 臥者 川藻之如久 靡相之 宣君之 朝宮乎 忘賜哉 夕宮乎 背賜哉 宇都曽臣跡 念之時 春部者 花折挿頭 秋立者 黄葉挿頭 敷妙之 袖携 鏡成 唯見不献 三五月之 益目頬染 所念之 君与時ゞ 幸而 遊賜之 御食向 木瓲之宮乎 常宮跡定賜 味澤相 目辞毛絶奴 然有鴨(一云、所己乎之毛) 綾尓憐 宿兄鳥之 片戀嬬(一云、為乍) 朝鳥(一云、朝霧) 往来為君之 夏草乃 念之萎而 夕星之 彼往此去 大船 猶預不定見者 遺問流 情毛不在 其故 為便知之也 音耳母 名耳毛不絶 天地之 弥遠長久 思将往 御名尓懸世流 明日香河 及万代 早布屋師 吾王乃 形見何此為
(柿本人麻呂 巻二 一九六)
≪書き下し≫飛ぶ鳥 明日香の川の 上(かみ)つ瀬に 石橋(いしばし)渡す<一には「石並」といふ> 下(しも)つ瀬に 打橋(うちはし)渡す 石橋に<一には「石並」といふ> 生(お)ひ靡(なび)ける 玉藻ぞ 絶ゆれば生(は)ふる 打橋に 生ひををれる 川藻もぞ 枯るれば生ゆる なにしかも 我が大君の 立たせば 玉藻のもころ 臥(こ)やせば 川藻のごとく 靡かひし 宜しき君が 朝宮を 忘れたまふや 夕宮を 背(そむ)きたまふや うつそみと 思ひし時に 春へは 花折りかざし 秋立てば 黄葉(もみぢば)かざし 敷栲(しきたへ)の 袖たづさはり 鏡なす 見れども飽かず 望月(もちづき)の いや愛(め)づらしみ 思ほしし 君と時時(ときとき) 出でまして 遊びたまひし 御食(みけ)向かふ 城上(きのへ)の宮を 常宮(とこみや)と 定めたまひて あぢさはふ 目言(めこと)も絶えぬ しかれかも<一には「そこをしも」といふ> あやに悲しみ ぬえ鳥(どり)の 片恋(かたこひ)づま(一には「しつつ」といふ) 朝鳥(あさとり)の<一つには「朝霧の」といふ> 通(かよ)はす君が 夏草の 思ひ萎(しな)えて 夕星(ゆふつづ)の か行きかく行き 大船(おほふな)の たゆたふ見れば 慰(なぐさ)もる 心もあらず そこ故(ゆゑ)に 為(せ)むすべ知れや 音(おと)のみも 名のみも絶えず 天地(あめつち)の いや遠長(とほなが)く 偲ひ行かむ 御名(みな)に懸(か)かせる 明日香川 万代(よろづよ)までに はしきやし 我が大君の 形見(かたみ)にここを
(訳)飛ぶ鳥明日香の川の、川上の浅瀬に飛石を並べる(石並を並べる)、川下の浅瀬に板橋を掛ける。その飛石に(石並に)生(お)い靡いている玉藻はちぎれるとすぐまた生える。その板橋の下に生い茂っている川藻は枯れるとすぐまた生える。それなのにどうして、わが皇女(ひめみこ)は、起きていられる時にはこの玉藻のように、寝(やす)んでいられる時にはこの川藻のように、いつも親しく睦(むつ)みあわれた何不足なき夫(せ)の君の朝宮をお忘れになったのか、夕宮をお見捨てになったのか。いつまでもこの世のお方だとお見うけした時に、春には花を手折って髪に挿し、秋ともなると黄葉(もみぢ)を髪に挿してはそっと手を取り合い、いくら見ても見飽きずにいよいよいとしくお思いになったその夫の君と、四季折々にお出ましになって遊ばれた城上(きのえ)の宮なのに、その宮を、今は永久の御殿とお定めになって、じかに逢うことも言葉を交わすこともなされなくなってしまった。そのためであろうか(そのことを)むしょうに悲しんで片恋をなさる夫の君(片恋をなさりながら)朝鳥のように(朝霧のように)城上の殯宮に通われる夫の君が、夏草の萎(な)えるようにしょんぼりして、夕星のように行きつ戻りつ心落ち着かずにおられるのを見ると、私どももますます心晴れやらず、それゆえどうしてよいかなすすべを知らない。せめて、お噂(うわさ)だけ御名(みな)だけでも絶やすことなく、天地(あめつち)とともに遠く久しくお偲びしていこう。その御名にゆかりの明日香川をいついつまでも……、ああ、われらが皇女の形見としてこの明日香川を。(同上)
(注)ををる【撓る】自動詞:(たくさんの花や葉で)枝がしなう。たわみ曲がる。 ※上代語。(学研)
(注)もころ【如・若】名詞:〔連体修飾語を受けて〕…のごとく。…のように。▽よく似た状態であることを表す。(学研)
(注)こやす【臥やす】自動詞:横におなりになる。▽多く、死者が横たわっていることについて、婉曲(えんきよく)にいったもの。「臥(こ)ゆ」の尊敬語。 ※上代語。(学研)
(注)宜しき君が 朝宮を:何不足のない夫の君の朝宮なのに、その宮を。(伊藤脚注)
(注)うつそみと 思ひし時に:いついつまでもこの世の人とお見受けしていた、ご在世の時。(伊藤脚注)
(注)はるべ【春方】名詞:春のころ。春。 ※古くは「はるへ」。(学研)
(注)「敷栲の」以下「鏡なす」「望月の」「御食向ふ」「あぢさはふ」「ぬえ鳥の」「朝鳥の」「夏草の」「夕星の」「大船の」と共に枕詞。(伊藤脚注)
(注)たづさふ 【携ふ】:手を取りあう。連れ立つ。連れ添う。(学研)
(注)目言(めこと):名詞 実際に目で見、口で話すこと。顔を合わせて語り合うこと。(学研)
(注)とこみや【常宮】名詞:永遠に変わることなく栄える宮殿。貴人の墓所の意でも用いる。「常(とこ)つ御門(みかど)」とも。(学研)
(注)ゆふつづ【長庚・夕星】名詞:夕方、西の空に見える金星。宵(よい)の明星(みようじよう)。 ※後に「ゆふづつ」。[反対語] 明星(あかほし)。(学研)
(注)天地の:天地と共に、の意。(伊藤脚注)
(注)たゆたふ【揺蕩ふ・猶予ふ】自動詞:①定まる所なく揺れ動く。②ためらう。(学研)ここでは①の意
(注)御名(みな)に懸(か)かせる 明日香川:その御名にゆかりの明日香川をいついつまでも。(伊藤脚注)
◆明日香川 四我良美渡之 塞益者 進留水母 能杼尓賀有萬思<一云水乃与杼尓加有益>
(柿本人麻呂 巻二 一九七)
≪書き下し≫明日香川しがらみ渡し塞(せ)かませば流るる水ものどにかあるまし<一には「水の淀にからまし」といふ>
(訳)明日香川、この川にしがらみを掛け流して塞きとめたなら、激(たぎ)ち流れる水もゆったりと逝くであろうに。<水が淀(よど)みでもすることになるであろうか>(同上)
(注)明日香川:以下、皇女の早逝を留めえず、悲嘆に沈まねばならぬ嘆き。(伊藤脚注)
◆明日香川 明日谷<一云左倍>将見等 念八方<一云念香毛> 吾王 御名忘世奴<一云御名不所忘>
(柿本人麻呂 巻二 一九八)
≪書き下し≫明日香川(あすかがは)明日(あす)だに<一には「さへ」といふ>見むと思へやも<一には「思へかも」という>我が大君の御名(みな)忘れせぬ<一には「御名忘らえぬ」といふ>
(訳)明日香川がこの川の名のように、せめて明日だけでもお逢いしたいと来る日も来る日もおもっているからなのか、いやもうお逢いできないとは知りながら、我が皇女の御名を忘れることができない。これまでのように明日もお逢いしたいと思うからか、わが皇女の御名が忘れられない。(同上)
(注)明日香川明日だに見むと:明日香の名のようにせめて明日だけでも逢いたいと。(伊藤脚注)
(注)思へやも:思っているからなのか、いやもう逢えないと知りながら。ヤは反語、異文のカは疑問。(伊藤脚注)
この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その132改)」で紹介している。
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「古代史で楽しむ 万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫)の「六 人麻呂の哀歓」の「殯宮挽歌(もがりのみやばんか)」を読み進もう。
「持統・文武朝は天武朝の残照のごとき時代である。その中に壬申の記憶は次第に死んでいったが、そのひとつ、皇子・皇女たちの死に歌をもって奉仕したのが人麻呂であった。持統三年(六八九)の草壁、同五年の川島、同十年の高市、文武四年(七〇〇)の明日香皇女の死がそれである。もっとも川島といったものはその時に泊瀬部(はつせべ)皇女に献じた歌だという左注によったわけで、題詞によれば泊瀬部・忍坂部(おさかべ)に献じたものである(巻二、一九四・一九五)。右のほかに石田(いわた)王が死んだ時に山前(やまくま)王の作った歌(巻三、四二三)にも『あるいは人麻呂の作か』という左注がある。この年代は不明である。・・・草壁(巻二、一六七~一七〇)・高市(巻二、一九九~二〇二)・明日香(巻二、一九六~一九八)の挽歌は殯宮挽歌である。殯宮とは陵墓に葬る前にある期間(人によって差がある)死者を祭る儀礼で、それを終えた段階が彼らにとっての死であった。・・・この殯宮挽歌は、先にも後にも例のないもので・・・あった。また、殯宮挽歌は参列者集団の意志において行われるために、必ずしも個人的感情だけで詠嘆するものでもない。だからかつての葬送に歌われた歌も歌われ(高市挽歌には草壁のそれも添え歌われている)、人麻呂が口にしても他人の作であったり(高市のおりには檜隈女王(ひのくまのおおきみ)の歌が添えられている)する。・・・古来大切に伝えられてきた挽歌は、この時代にもおよんで天皇の葬送に際して歌われたようである。むしろ人麻呂は個人的すぎたのであって、集団歌である挽歌を、歌人という立場によって個人的文芸に転換せしめる結果ともなった。従来個人の資格において挽歌を献(たてまつ)るのは、天皇の葬送にのみにかぎって、その後宮の女たちが歌うだけだったのだから。死の儀礼に奉仕する歌人、この非情な役がらの中から、人麻呂はかえって逆にひとつの文芸に仕立て上げていった。それは彼の非凡な文芸力でもあったし、聞く人びとの、彼に寄せる人間共感の、はげしい感動によるものであった。」(同著)
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「古代史で楽しむ 万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」
★「コトバンク 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus」