万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉集の世界に飛び込もう―万葉歌碑を訪ねて(その2441)―

■やまはぎ■

「万葉植物園 植物ガイド105」(袖ケ浦市郷土博物館発行)より引用させていただきました。

●歌は、「我妹子に恋ひつつあらずは秋萩の咲きて散りぬる花にあらましを」である。

千葉県袖ケ浦市下新田 袖ヶ浦公園万葉植物園万葉歌碑(プレート)(弓削皇子) 20230926撮影

 

●歌碑(プレート)は、千葉県袖ケ浦市下新田 袖ヶ浦公園万葉植物園にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆吾妹兒尓 戀乍不有者 秋芽之 咲而散去流 花尓有猿尾

       (弓削皇子 巻二 一二〇)

 

≪書き下し≫我妹子に恋ひつつあらずは秋萩の咲きて散りぬる花にあらましを

 

(訳)あの子にこんなに恋焦がれてなんかおらずに、いっそのこと、秋萩の、咲いてはすぐ散ってしまう花であった方がよっぽどましだ。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

 

 一一九から一二二の歌群の題詞は、「弓削皇子思紀皇女御歌四首」<弓削皇子(ゆげのみこ)、紀皇女(きのひめみこ)を思ふ御歌四首>である。

(注)紀皇女:天武天皇の娘、弓削皇子の異母妹。(伊藤脚注)

 

 他の三首をみてみよう。

 

◆芳野河 逝瀬之早見 須臾毛 不通事無 有巨勢濃香問

       (弓削皇子 巻二 一一九)

 

≪書き下し≫吉野川行く瀬の早みしましくも淀(よど)むことなくありこせぬかも

 

(訳)吉野川、その早瀬の流れのように、二人の仲も、ほんのしばらくのあいだも淀むことなくあってくれないものかなあ。(同上)

(注)しましく【暫しく】副詞:少しの間。※上代語。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)こせぬかも 分類連語:…してくれないかなあ。 ※動詞の連用形に付いて、詠嘆的にあつらえ望む意を表す。 ⇒なりたち:助動詞「こす」の未然形+打消の助動詞「ず」の連体形+疑問の係助詞「か」+詠嘆の終助詞「も」(学研)

 

 

◆暮去者 塩満来奈武 住吉乃 淺鹿乃浦尓 玉藻苅手名

       (弓削皇子 巻二 一二一)

 

≪書き下し≫夕(ゆふ)さらば潮満ち来(き)なむ住吉(すみのえ)の浅香(あさか)の浦に玉藻(たまも)刈りてな

 

(訳)夕方になったら潮がどんどん満ちてこよう。住吉の浅香の浦で、今のうちに(潮がみちてこないうちに)玉藻を刈り取ってしまいたいものだ。

(注)潮満ち来なむ:人の噂の譬え。(伊藤脚注)

(注)浅香:大阪南部・堺市にかけての地。夕、満潮に対して朝、浅(干潮)の意をこめ、一刻も早くの意を匂わす。(伊藤脚注)

(注)玉藻:相手の紀皇女の譬え。(伊藤脚注)

 

 

◆大船之 泊流登麻里能 絶多日二 物念痩奴 人能兒故尓

       (弓削皇子 巻二 一二二)

≪書き下し≫大船(おほぶね)の泊(は)つる泊(とま)りのたゆたひに物思(ものも)ひ痩(や)せぬ人の子故(ゆゑ)に

 

(訳)大船が碇泊(ていはく)する港のように、揺れて定まらぬまま、物思いにふけって痩せこけてしまった。あの子は他人のものでどうにもならぬのに。(同上)

(注)上二句は序。「たゆたひに」を起す。(伊藤脚注)

(注)たゆたふ【揺蕩ふ・猶予ふ】自動詞:①定まる所なく揺れ動く。②ためらう。(学研)ここでは①の意

(注)人の子:他人の管理する女性。(伊藤脚注)

 

 

 

 弓削皇子については、「コトバンク 朝日日本歴史人物事典」に次のように書かれている。

「没年:文武3.7.21(699.8.21) 生年:生年不詳

7世紀後半の皇族。天武天皇天智天皇の娘大江皇女の子。第6皇子。同母弟に長皇子。『懐風藻』所収の葛野王伝によれば、『天武天皇の第1皇子高市皇子の死(696)後、弓削皇子は皇太子を選ぶ群臣会議で兄弟による皇位継承を主張したが、兄弟による継承は乱の原因になると主張し、草壁皇子(母がのちの持統天皇)の子軽皇子による継承を支持する葛野王らに敗れた。軽皇子はのちの文武天皇。』」と書かれている。

 

 弓削皇子の二四二歌ならびに春日王が和(こた)えた二四三歌をみてみよう。

 

題詞は、「弓削皇子遊吉野時御歌一首」<弓削皇子、吉野に遊(いでま)す時の御歌一首>である。

 

◆瀧上之 三船乃山尓 居雲乃 常将有等 和我不念久尓

       (弓削皇子 巻三 二四二)

 

≪書き下し≫滝(たき)の上(うへ)の三船(みふね)の山に居(ゐ)る雲の常にあらむと我(わ)が思(おも)はなくに

 

(訳)吉野川の激流の上の三船の山にいつもかかっている雲のように、いつまでも生きられるようなどとは、私は思ってもいないのだが。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)上三句は実景の序。「常にあらむ」を起す。(伊藤脚注)

(注)三船の山:宮滝にかかる橋の上流右手に見える山。「舟岡山」とも。(伊藤脚注)

 

二四二歌は、忍び寄る「死」を暗示しているような歌である。

 

 この二四二歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1041)」で、持統天皇の意に沿わず冷遇され、死をも意識せざるを得ない境地に追いやられた弓削皇子に触れている。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 

続いて、二四三歌をみてみよう。

題詞は、「春日王奉和歌一首」<春日王が和(こた)へ奉(まつ)る歌一首>である。

(注)春日王:文武三年(699年)没。

 

◆王者 千歳二麻佐武 白雲毛 三船乃山尓 絶日安良米也

       (春日王 巻三 二四三)

 

≪書き下し≫大君は千年(ちとせ)に座(ま)さむ白雲(しらくも)も三船の山に絶ゆる日あらめや

 

(訳)わが大君は、千年もおすこやかでいらっしゃるでしょう。その証(あかし)に、白雲だって三船の山に絶えた日がありましょうか。絶えたことがないのです。(同上)

 

 ここで注目すべきは、忍びよる死を予感していたかのような弓削皇子が亡くなったのは、文武三年(699年)7月21日である。そして春日王は同年6月に亡くなっている。しかも、弓削皇子の母、大江皇女も同年12月に亡くなっている。

 

 梅原 猛氏は、その著「水底の歌 柿本人麿論 上」(新潮文庫)の中で、柿本人麿の刑死説を追うなかで弓削皇子の死についても言及されている。「・・・二重に弓削皇子にかんする歌の後に人麿にかんする歌がきているが、これはけっして偶然ではないだろう。しかも、この弓削皇子の死は、私には少なからずあやしいにおいがする・・・」と書かれている。

 

 

 二四四歌は、題詞が「或本の歌一首」である。歌をみてみよう。

 

◆三吉野之 御船乃山尓 立雲之 常将在跡 我思莫苦二

       (柿本人麻呂歌集 巻三 二四四)

 

≪書き下し≫み吉野の三船の山に立つ雲の常にあらむと我(わ)が思はなくに

 

(訳)み吉野の三船の山にいつも湧きたっている雲のように、いついつまでもこの世にあろうなどとは、私は思ってもいないのだが。(同上)

(注)立つ雲の:いつも湧き立つ雲のように。上三句は序。(伊藤脚注)

 

左注は、「右一首柿本朝臣人麻呂之歌集出」<右の一首は、柿本朝臣人麻呂が歌集に出づ>である。

 

 

 こういった観点から弓削皇子を追うのも大きな課題として投げかけられたような気がする。近づけば、さらに遠いしかも深いところをみせる万葉集

 

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「水底の歌 柿本人麿論 上」 梅原 猛 著 (新潮文庫

★「万葉植物園 植物ガイド105」(袖ケ浦市郷土博物館発行)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク 朝日日本歴史人物事典」