●歌は、「後れ居て恋ひつつあらずは追ひ及かむ道の隈みに標結へ我が背(但馬皇女 2-115)」である。
【志賀山寺址】
「但馬皇女(巻二‐一一五)(歌は省略)志賀山寺(しがのやまでら)は天智七年(六六八)に大津宮の西北の山地に建てられた崇福寺である。・・・志賀山寺が歌に出るわけではないが、天武天皇の皇子・皇女、異母兄妹の間の悲恋の歌がまつわっている。
但馬皇女(母は鎌足のむすめ氷上娘(ひがみのいらつめ))は高市(たけち)皇子(母は胸形君徳善(とくぜん)のむすめ尼子(あまこ)娘)の妃となっていたとき、穂積皇子(母は蘇我赤兄(あかえ)のむすめ大蕤(おほぬ)娘)にたえきれぬ思いをよせて、(巻二‐一一四)(歌は省略)と、“どんなに噂がたっても稲穂が一方に片寄るようにあなたに添いたい”と一途の恋をうったえ、また穂積皇子とひそかに逢ったことがおもてにあらわれたとき、実体験に即して、(巻二‐一一六)(歌は省略)と、いまだ経験したこともない冷たい夜明けの川をも渡らねばいられない苦衷をのべている。
『勅して』が勅勘かなにかの用向きかは不明だが、この女心の悲しい真実なればこそ、皇子が志賀山寺に遣わされたときにも、あとを追おうとする急迫した心情の律動を示すのだ。」(「万葉の旅 中 近畿・東海・東国」 犬養 孝 著 平凡社ライブラリーより)
(注)ちょっかん【勅勘】〘 名詞 〙:天子から受けるおとがめ。勅命による勘当。一般には、宥免(ゆうめん)の勅命があるまで謹慎した。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典)
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巻二 一一四から一一六歌を順に追ってみていこう。
■巻二 一一四歌■
題詞は、「但馬皇女在高市皇子宮時思穂積皇子御作歌一首」<但馬皇女(たぢまのひめみこ)、高市皇子の宮に在(いま)す時に、穂積皇子を偲ひて作らす歌一首>である。
(注)高市皇子:天武天皇の長子。壬申の乱に活躍し、草壁没後太政大臣。持統十年(六九六)七月十日没。(伊藤脚注)
◆秋田之 穂向乃所縁 異所縁 君尓因奈名 事痛有登母
(但馬皇女 巻二 一一四)
≪書き下し≫秋の田の穂向きの寄れる片寄りに君に寄りなな言痛くありとも
(訳)秋の田の稲穂が一方に片寄っているその片寄りのように、ただひたむきにあの方に寄り添いたいものだ。どんなに世間の噂がうるさくあろうとも。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
(注)上三句は「寄る」の譬喩。(伊藤脚注)
(注)なな 分類連語:…てしまいたい。…てしまおう。 ※活用語の連用形に接続する。上代語。 ⇒なりたち:完了の助動詞「ぬ」の未然形+願望の終助詞「な」(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
(注)こちたし【言痛し・事痛し】形容詞:①煩わしい。うるさい。②甚だしい。度を越している。ひどくたくさんだ。③仰々しい。おおげさだ。(学研)ここでは①の意
■巻二 一一五歌■
題詞は、「勅穂積皇子遣近江志賀山寺時但馬皇女御作歌一首」≪穂積皇子に勅(みことのり)して、近江(あふみ)の志賀の山寺に遣(つか)はす時に、但馬皇女の作らす歌一首>である。
(注)山寺:天智天皇が大津の宮の西北に建てた崇福寺。(伊藤脚注)
(注の注)崇福寺については、「滋賀・びわ湖観光情報 崇福寺跡」(公益社団法人びわこビジターズビューロー)によると、「天智天皇(626-671)が大津京の鎮護(ちんご)のために建立した寺です。大津へ都を遷した翌年に建立され、幻の大津京の所在地を探る手がかりとして注目されています」とある。
(注)遣はす時:恋の噂を耳にした持統天皇が法会などの勅使に事寄せて穂積を一時崇福寺に閑居させ、高市と穂積との間をつくろったものか。(伊藤脚注)
◆遺居而 戀管不有者 追及武 道之阿廻尓 標結吾勢
(但馬皇女 巻二 一一五)
≪書き下し≫後(おく)れ居(ゐ)て恋ひつつあらずは追い及(し)かむ道の隈(くま)みに標結(しめゆ)へ我が背
(訳)あとに一人残って恋い焦がれてなんかおらずに、いっそのこと追いすがって一緒に参りましょう。道の隈の神様ごとに標(しめ)を結んでおいてください、いとしき人よ。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
(注)隈:奥まった、邪神のいる所。(伊藤脚注)
(注)標:邪神を祭るための標識。(伊藤脚注)
一一五歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その243)」で大津市唐崎 唐崎苑湖岸緑地万葉歌碑とともに紹介している。
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■巻二 一一六歌■
題詞は、「但馬皇女在高市皇子宮時竊接穂積皇子事既形而御作歌一首」<但馬皇女(たぢまのひめみこ)、高市皇子の宮に在(いま)す時に、竊(ひそ)かに穂積皇子に接(あ)ひ、事すでに形(あら)はれて作らす歌一首>である。
◆人事乎 繁美許知痛美 己世尓 未渡 朝川渡
(但馬皇女 巻二 一一六)
≪書き下し≫人事(ひとごと)を繁(しげ)み言痛(こちた)みおのが世にいまだ渡らぬ朝川(あさかは)渡る。
(訳)世間の噂が激しくうるさくてならないので、それに抗して自分は生まれてこの方渡ったこともない、朝の冷たい川を渡ろうとしている―この初めての思いを私は何としてでも成し遂げるのだ。(伊藤 博 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
(注)ひとごと【人言】名詞:他人の言う言葉。世間のうわさ。(学研)
(注)こちたし【言痛し・事痛し】形容詞:①煩わしい。うるさい。②甚だしい。度を越している。ひどくたくさんだ。③仰々しい。おおげさだ。(学研)
(注)あさかはわたる【朝川渡る】:世間を慮り、女ながら未明の川を渡って逢いに行く。「川」は恋の障害を表すことが多い。世間の堰に抗して初めての情事を全うするのだという意もこもる。(伊藤脚注)
一一六歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その99改)」で、奈良県桜井市出雲 初瀬街道沿い万葉歌碑とともに紹介している。
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一一六歌の脚注で、伊藤氏は「以上三首、但馬皇女歌語りとしてもてはやされた歴史をもつか。」と書いておられる。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「万葉の旅 中 近畿・東海・東国」 犬養 孝 著 (平凡社ライブラリー)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」