●歌は、「み吉野の像山の際の木末にはここだも騒く鳥の声かも」である。
●歌碑は、吉野町喜佐谷 桜木神社にある。
●歌をみていこう。
◆三吉野乃 象山際乃 木末尓波 幾許毛散和口 鳥之聲可聞
(山部赤人 巻六 九二四)
≪書き下し≫み吉野の象山(さきやま)の際(ま)の木末(こぬれ)にはここだも騒(さわ)く鳥の声かも
(訳)み吉野の象山の谷あいの梢(こずえ)では、ああ、こんなにもたくさんの鳥が鳴き騒いでいる。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)
(注)こぬれ【木末】名詞:木の枝の先端。こずえ。 ※「こ(木)のうれ(末)」の変化した語。 上代語。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
(注)ここだ 幾許】副詞:①こんなにもたくさん。こうも甚だしく。▽数・量の多いようす。②たいへんに。たいそう。▽程度の甚だしいようす。 ※上代語。(学研)
この歌は、題詞「山部宿祢赤人作歌二首幷短歌」のなかの前群の反歌二首のうちの一首である。前群は吉野の宮を讃える長歌と反歌二首であり、後群は天皇を讃える長歌と反歌一首という構成をなしている。
九二三(長歌)・九二四、九二五(反歌二首)と九二六(長歌)・九二七(反歌)については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その125改)」で紹介している。
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吉野歴史館を後にして桜木神社へと向かう。柴橋が工事で通行止めの為、迂回して喜佐谷方面に向かう。渓流沿いの山道である。喜佐谷の杉木立のなかを流れるこの渓流は、「象の小川(きさのおがわ)」であり、吉野山の青根ヶ峰や水分神社の山あいに水源をもち、吉野川に注ぎこんでいる。万葉集の歌人、大伴旅人もその清々しさを望郷への思いを込めて次の歌を詠んでいる。
◆吾命毛 常有奴可 昔見之 象小河乎 行見為
(大伴旅人 巻三 三三二)
≪書き下し≫我(わ)が命(いのち)も常にあらぬか昔見し象(きさ)の小川(をがわ)を行きて見むため
(訳)私の命、この命もずっと変わらずにあってくれないものか。その昔見た象の小川、あの清らかな流れを、もう一度行って見るために。(同上)
旅人の三三二歌を含む三二八から三三七歌までの歌群は、小野老が従五位上になったことを契機に大宰府で宴席が設けられ、その折の歌といわれている。この歌群の歌は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その506)」で紹介している。
➡ こちら506
渓流を跨いだ参道が桜木神社に誘う。参道のすぐ近くに神社を背にして「虎に翼を着けて放てり」の碑がある。
天智天皇は、671年1月に息子・大友皇子を太政大臣に任命、左大臣に蘇我赤兄(そがのあかえ)、右大臣に中臣金(なかとみのくがね)という体制を確立するが、同年9月天智天皇は病に伏してしまう。大友皇子にとって最大の障碍は天智天皇の弟・大海人皇子である。10月に、天皇は病床に大海人皇子を呼び、「お前に位を譲ろう」と伝えた。しかし、言葉の裏に陰謀を感じた大海人皇子は、持病を理由に辞退し、出家して吉野に入ってしまうのである。左大臣、右大臣は宇治川まで見送りに行き、吉野に向かったと確信するのである。それから流言が流れ出したという。日本書紀では、「虎に翼を着けて放てり」と書いている。大虎が野に下った、何が起こるかわからない」という意味である。
大海人皇子が、吉野に身を潜めている時に、大友皇子の兵に攻められるという事態になったが、大きな桜の木に身を隠し難を逃れたという伝説があるそうである。後に天武天皇として即位され吉野宮に行幸されると桜木神社にお参りされたということから、天武天皇亡きあと同神社では天武天皇をお祀りすることになったという。
人っ子一人いない静寂に包まれた神社である。小川の流れる音がかえって静けさを強調している。
見回りなのだろう。パトカーが一台参道の側で止まり、警官がひとり境内を巡回していく。現実に引き戻された瞬間である。パトカーが過ぎ去っていくと、時の流れが再び停止するのである。
桜木神社の次は菜摘十二社神社である。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (新潮文庫)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」
★「吉野町HP」