万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その779,780,781)―吉野町下市 下市中央公園拓美の園―巻一 二七、巻十一 二四五三、巻九 一七二一

 吉野の万葉の世界を満喫し、帰路に就く。途中吉野郡下市町下市中央公園内にある拓美の園に寄る。ここには現在16基(23面)の句碑歌碑が立ち並んでおり、手続きすれば拓本をとることができるようになっている。このうち万葉歌碑は3基である。

f:id:tom101010:20201017124751j:plain

「拓美の園」の碑

中央公園には総合体育館やテニスコート、野球場等がある。拓美の園の隣はゲートボール場となっており、年配の方たちが楽しんでおられた。

 

 

―その779―

 

●歌は、「淑き人のよしとよく見てよしと言ひし吉野よく見よ良き人よく見」である。

 

f:id:tom101010:20201017123833j:plain

吉野町下市 下市中央公園拓美の園(天武天皇

●歌碑は、吉野町下市 下市中央公園拓美の園にある。

 

●歌をみていこう。

この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その768)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

題詞は。「天皇幸于吉野宮時御製歌」<天皇、吉野の宮に幸(いでま)す時の御製歌>である。

(注)吉野宮:吉野宮滝付近にあった離宮

 

◆淑人乃 良跡吉見而 好常言師 芳野吉見与 良人四来三

               (天武天皇 巻一 二七)

 

≪書き下し≫淑(よ)き人のよしとよく見てよしと言ひし吉野よく見よ良き人よく見

 

(訳)昔の淑(よ)き人がよき所だとよくぞ見て、よしと言った、この吉野をよく見よ。今の良き人よ、よく見よ。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)淑(よ)き人:立派な人。昔の貴人。ここは、天武天皇と持統皇后を寓している。

(注)良き人:今の貴人をいう。

                           

 

 

―その780―

 

●歌は、「春柳葛城山に立つ雲の立ちても居ても妹をしぞ思ふ」である。

f:id:tom101010:20201017124133j:plain

吉野町下市 下市中央公園拓美の園(柿本人麻呂歌集)

 

●歌碑は、吉野町下市 下市中央公園拓美の園にある。

 

歌をみていこう。

この歌は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その433)」で紹介している

 ➡ tom101010.hatenablog.com

 

◆春楊 葛山 發雲 立座 妹念

                                  (柿本人麻呂歌集 巻十一 二四五三)

 

≪書き下し≫春柳(はるやなぎ)葛城山(かづらきやま)に立つ雲の立ちても居(ゐ)ても妹(いも)をしぞ思ふ

 

(訳)春柳を鬘(かずら)くというではないが、その葛城山(かつらぎやま)に立つ雲のように、立っても坐っても、ひっきりなしにあの子のことばかり思っている。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

(注)春柳(読み)ハルヤナギ:①[名]春、芽を出し始めたころの柳。②[枕]芽を出し始めた柳の枝をかずらに挿す意から、「かづら」「葛城山(かづらきやま)」にかかる。(コトバンク デジタル大辞泉

(注)上三句は序、「立ち」を起こす。

 

 人麻呂歌集の「略体」の典型と言われる歌で、「春楊葛山發雲立座妹念」と各句二字ずつ、全体では十字で表記されている。助辞はすべて読み添えてはじめて歌の体をなす。この詠み添えは前例歌によって明らかになるのである。

 

 

 

―その781-

 

●歌は、「苦しくも暮れゆく日かも吉野川清き川原見れど飽かなくに」である。

 

f:id:tom101010:20201017124525j:plain

吉野町下市 下市中央公園拓美の園(元仁)

●歌碑は、吉野町下市 下市中央公園拓美の園にある。

 

●歌をみていこう。

この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その445)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

◆辛苦 晩去日鴨 吉野川 清河原乎 雖見不飽君

              (元仁 巻九 一七二一)

 

≪書き下し≫苦しくも暮れゆく日かも吉野川(よしのがは)清き川原(かはら)を見れど飽(あ)かなくに

 

(訳)残念ながら今日一日はもう暮れて行くのか。吉野川の清らかな川原は、いくら見ても見飽きることはないのに。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)くるし【苦し】形容詞:①苦しい。つらい。②〔上に助詞「の」「も」を伴って〕困難である。③心配だ。気がかりだ。④〔下に打消・反語を伴って〕不都合だ。差しさわりがある。⑤不快だ。見苦しい。聞き苦しい。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

f:id:tom101010:20201017124943j:plain

拓美の園歌碑群


 

 

蔵王権現堂(泉徳寺)➡鈴ヶ森行者堂➡近鉄吉野駅➡葛上白石神社➡老人福祉センター中荘温泉➡宮滝野外学校➡河川交流センター➡吉野歴史資料館➡桜木神社➡菜摘十二社神社➡喜佐谷公民館➡下市中央公園と万葉歌碑を巡って来た(9月24日)

 万葉歌碑を通して、吉野の時代的、地理的背景を垣間見ることができた。やんわりと包みこまれながら、その実、非常な衝撃を受けたのである。これまで頭の中で描き持っていた吉野のイメージの浅薄さに恥じ入るばかりである。吉野は、もっと良く見よ、である。

 

 吉野については、歴史的、地理的といった、時間と空間の組み合わせと万葉歌の関わりといった観点から総合的に書き表わしたいと考えるが、残念ながら頭の中の引出の数も少なく、容量も小さい。「万葉神事語事典」(國學院大學デジタルミュージアム)の「吉野」を読ませていただくと、自分が書きたいと考えていることが、もののみごとにまとめられている。申し訳ないが、引用させていただきます。いつかこのようにうまくまとめられる日を夢見て。

 

「吉野 Yoshino

現在の奈良県吉野郡。吉野町役場から東へ5キロほどの所に、宮滝遺跡があり、その付近が万葉時代に吉野宮が存在した場所と見られる。記紀には神武天皇の東征時における吉野の国つ神の奉仕が記されており、神話的歴史において吉野の聖性が形成されていたことをうかがわせる。『延喜式』には天皇の即位に際して行われる大嘗祭において、吉野の国栖が歌舞を奏上し、物産を献上した記事が見られ、平安時代まで吉野が天皇の王権を保証する観念を役割を担っていたことが確認できる。万葉集での初出は、天武天皇御製(1-25)で、大海人皇子(天武)が天智天皇と決別して近江大津宮を出て吉野に隠棲する折を回想する歌である。大海人皇子と吉野の関係については、大海人皇子道教の呪術に秀でていたこと(紀)と、道教の秘術に関わる水銀が吉野で産出したこととの関連も指摘されている。天智天皇崩御した後、大海人皇子は672年に吉野を基点として兵を挙げ、近江朝廷を討ち滅ぼして、天武天皇として即位した(壬申の乱)。万葉集には、柿本人麻呂(1-36~39)に始まり、笠金村(6-920~922)、山部赤人(6-923~927)、大伴旅人(3-315~316)、大伴家持(18-4098~4100)へと続く吉野讃歌の系譜を確認することができる。それらの歌では、吉野の情景の美しさと吉野宮のすばらしさを讃美することによって、そこを営む天皇を讃美するという論理がうかがわれ、吉野が万葉時代の王権にとって重要な場所であったことがうかがわれる。柿本人麻呂の吉野讃歌では、山川の美しさとともに山の神、川の神が持統天皇に奉仕する様子が歌われ、吉野の神聖性を最もよく示している。持統天皇は在位11年の間に31回の吉野行幸を行ったが、それは吉野がカリスマ的天皇であった夫天武天皇壬申の乱に勝利をおさめ、679年には、天武天皇の皇子、天智天皇の皇子を集めて不逆の盟約を交わした地であったためであろう。中継ぎ的な天皇であった持統天皇は、カリスマ的天皇であった夫天武天皇の威光を借りることで、天下を維持しようとしたのである。山部赤人の吉野讃歌では、清透な吉野の情景が讃美されるが、それは聖武天皇の治世の安寧を、自然の秩序の安定によって示すものである。大伴旅人大伴家持の吉野讃歌は、天皇の前で奏上されることのなかったものだが、彼らが天皇讃美のために予め吉野讃歌を作ったことは、吉野と王権とのつながりの深さを物語っている。大浦誠士」

 ありがとうございました。

 

「淑き人のよしとよく見てよしと言ひし吉野よく見よ良き人よく見」

 

  

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉神事語事典」(國學院大學デジタルミュージアム

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク デジタル大辞泉

★「下市町HP」