万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その782,783)―大阪府吹田市津雲台 千里南公園―巻一 二〇、巻十二 三〇二五

 吉野の余韻さめやらぬ中、10月2日大阪北摂部の万葉歌碑めぐりを行った。

 

 9月24日、吉野の万葉歌碑をめぐり、壬申の乱という歴史的なエネルギーに押しつぶされて帰って来たのである。

 10月2日は、吹田、豊中、伊丹、尼崎界隈の万葉歌碑を巡った。ルートは、吹田市千里南公園➡豊中不動尊➡伊丹緑が丘公園➡伊丹昆陽池公園➡尼崎猪名川公園➡吹田垂水神社➡吹田片山ふれあい公園である。

 千里南公園、伊丹緑が丘公園、伊丹昆陽池公園、尼崎猪名川公園はいずれも広大な敷地を誇っている。そのなかで歌碑を探す必要があるので事前準備が大変なのである。千里南公園は、全国的にも、拓本がとれる公園として有名なのだそうである。園内案内図には、歌碑の位置や写真まで整備されていた。万葉歌碑は4基あることが事前に確認できた。

 あとの3つの広大な公園にある万葉歌碑はそれぞれ1基である。公園案内図等で万葉歌碑を書き記しているものは数少ない。先達たちのブログや公園紹介ブログなどをてがかりにある程度場所を特定していく。この作業もまた楽しいものである。

 伊丹緑が丘公園は、徒歩でのストリートビューができるのに気づき、上池の南、桜の古木の下というブログからのキーワードを手掛かりに池の周りをバーチャル散歩。しかし何度もトライするも見つけることができなかった。あとは現地任せである。

 

 

―その782―

●歌は、「あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」である。


 

●歌碑は、大阪府吹田市津雲台 千里南公園にある。

 

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大阪府吹田市津雲台 千里南公園万葉歌碑(額田王

●歌をみていこう。

 この歌は、これまで幾度となくブログの中で紹介している。歌碑で群を抜いているのは、東近江市糠塚町 万葉の森船岡山 山頂付近に大きな岩自体を歌碑に見立てたようなものである。また、同万葉の森船岡山 蒲生野狩猟レリーフ横の碑も味わいがある。

山頂の碑は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その259)」で、レリーフ横の碑は「同(その258)」で紹介している。 ➡ こちら

tom101010.hatenablog.com

 

◆茜草指 武良前野逝 標野行 野守者不見哉 君之袖布流

             (額田王 巻一 二〇)

 

≪書き下し≫あかねさす紫野行き標野(しめの)行き野守(のもり)は見ずや君が袖振る

 

(訳)茜(あかね)色のさし出る紫、その紫草の生い茂る野、かかわりなき人の立ち入りを禁じて標(しめ)を張った野を行き来して、あれそんなことをなさって、野の番人が見るではございませんか。あなたはそんなに袖(そで)をお振りになったりして。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)あかねさす【茜さす】分類枕詞:赤い色がさして、美しく照り輝くことから「日」「昼」「紫」「君」などにかかる。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)むらさき 【紫】①草の名。むらさき草。根から赤紫色の染料をとる。②染め色の一つ。①の根で染めた色。赤紫色。古代紫。古くから尊ばれた色で、律令制では三位以上の衣服の色とされた。(学研)

(注)むらさきの 【紫野】:「むらさき」を栽培している園。(学研)

(注)しめ【標】:神や人の領有区域であることを示して、立ち入りを禁ずる標識。また、道しるべの標識。縄を張ったり、木を立てたり、草を結んだりする。(学研)

 

 額田王の歌の「君」は、大海人皇子である。

額田王は、初め大海人皇子との間に十市皇女をもうけている。後に天智天皇後宮に入られたのである。壬申の乱という大動乱の中を生き抜き、運命に翻弄されたといっても過言ではない。

 

大化の改新のもうひとりの立役者藤原鎌足の伝記「大織冠伝」に、浜楼(浜御殿)での宴会の席で、大海人皇子が兄である天皇の前で、酔った勢いで、槍で床を突き刺したという事件があったという。政治的な問題や、額田王をめぐっての鬱積したものがあったのかもしれない。天皇は不敬だと、ただちに死を命じるものの、鎌足が間をとりなしたという。鎌足は、時代をみすえ、大海人皇子の時代がくると読んでいたのかもしれない。

 

 天智天皇は、近江大津宮で、伊賀采女宅子(いがのうねめやかこ)との間に生まれた大友皇子を皇太子にしたのである。人望のある大海人皇子でなく、母親の出自(しゅつじ)が良くないが、あえて天智天皇大友皇子を皇太子として藤原鎌足を中軸に力のバランスをとっていたのである。しかし、天智天皇八年十月に鎌足が亡くなり均衡が破れたのは言うまでもない。火種はくすぶりやがて壬申の乱となっていくのである。

 

「日本書記」によると、天智天皇十年(671年)十月、病床にある天皇から後事を託された大海人皇子(後の天武天皇)は、固辞し、出家して吉野に入ったとある。時の左大臣、右大臣を宇治まで見送りに行かせたという。この時に、「虎に翼を着けて放てり」と述べたという。十二月に天智天皇が亡くなる。

 

  672年六月吉野を出た大海人皇子は、鈴鹿山脈を越え、桑名を経て、今日の関ヶ原(当時は和射美<わざみ>が原)を拠点とし近江に攻め込むのである。七月、瀬田川での決戦で近江方が敗走し、大友皇子自死、終幕を迎えたのである。九月に飛鳥に戻り、十二月に飛鳥浄御原(あすかきよみがはら)で天武天皇として即位するのである。  神業的な1か月での政変である。

 

 額田王の歌に答えた大海人皇子の歌もみてみよう。

 

◆紫草能 尓保敝類妹乎 尓苦久有者 人嬬故尓 吾戀目八方

                (天武天皇 巻一 二一)

 

≪書き下し≫紫草(むらさき)のにほへる妹(いも)を憎(にく)くあらば人妻(ひとづま)故(ゆゑ)に我(あ)れ恋(こ)ひめやも

 

(訳)紫草のように色美しくあでやかな妹(いも)よ、そなたが気に入らないのであったら、人妻と知りながら、私としてからがどうしてそなたに恋いこがれたりしようか。(同上)

 

 

 

―その783―

●歌は、「石走る垂水の水のはしきやし君に恋ふらく我が心から」である。

 

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大阪府吹田市津雲台 千里南公園万葉歌碑(作者未詳)

●歌碑は、大阪府吹田市津雲台 千里南公園にある。

 

●歌をみていこう。

この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その557)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

◆石走 垂水之水能 早敷八師 君尓戀良 吾情柄

                                   (作者未詳 巻十二 三〇二五)

 

≪書き下し≫石走(いはばし)る垂水(たるみ)の水のはしきやし君に恋ふらく我(わ)が心から

 

(訳)岩の上に逆巻き落ちる滝の水のように、はしき―いとしいあなたに恋い焦がれるこの苦しさも、他の誰でもない、私の心のせいです。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

(注)はしきやし【愛しきやし】分類連語:ああ、いとおしい。ああ、なつかしい。ああ、いたわしい。「はしきよし」「はしけやし」とも。 ※上代語。 参考➡愛惜や追慕の気持ちをこめて感動詞的に用い、愛惜や悲哀の情を表す「ああ」「あわれ」の意となる場合もある。「はしきやし」「はしきよし」「はしけやし」のうち、「はしけやし」が最も古くから用いられている。 なりたち形容詞「は(愛)し」の連体形+間投助詞「やし」(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)上二句「石走 垂水之水能」は、水の流れが速い意で「早敷八師」を起こす。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (新潮文庫

★「古代史で楽しむ万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」