―その414―
●歌は、額田王の「あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」と
大海人皇子の「紫草のにほえる妹を憎くあらば人妻故に我れ恋ひめやも」である。
両歌は、「額田王立像銘」碑文の中に次のように書かれている。
「古代の蒲生野に花開いた高い文化は『万葉集』の額田王と大海人皇子の相聞歌である。湖東の中央に栄えた八日市の船岡山に、この歌碑があり、全国から万葉を愛する人々が訪れる。歌碑は元暦校本万葉集の文字を写し、そのまま刻んである。
あかねさす紫野ゆき標野ゆき 野守は見ずや君が袖振る
皇太子の答へませる御歌
紫草のにほえる妹をにくくあらば 人妻故にわれ恋ひめやも
額田王は鏡王の娘で、「日本書紀」によると、はじめ、十市皇女を生んだ。くわしい伝記はわからない。後に天智天皇の後宮になった。天智天皇の七年五月五日に蒲生野の遊猟が行なわれこの歌をよまれたという。この歌は宴の時の座興とも言われるが、天智天皇への心くばりをしながら、二人の激しい愛を詠んだとも読みとれる。万葉研究者のほとんどが、この華麗なる相聞歌に出会って、とりつかれたという。市神神社に宮延の愛の文学をかかげた万葉最高の女流歌人、額田王の極彩色の木像が安置される。郷土の誇りを永世に伝え、平和と幸福が満ちあふれることを祈るものである。」
市神神社については、「東近江観光ナビ」(東近江市観光協会公式サイト)に、「近江七福神のひとつ『市宮ゑびす』として信仰を集める。聖徳太子が自ら神像を刻み、商いの道を教えたとされ、その神像が御神体の恵比寿神の胎内に安置されていると伝わる。境内には犬養孝書の額田王相聞歌碑がある。」と記されている。
●歌をみておこう。
◆茜草指 武良前野逝 標野行 野守者不見哉 君之袖布流
(額田王 巻一 二〇)
≪書き下し≫あかねさす紫野行き標野(しめの)行き野守(のもり)は見ずや君が袖振る
(訳)茜(あかね)色のさし出る紫、その紫草の生い茂る野、かかわりなき人の立ち入りを禁じて標(しめ)を張った野を行き来して、あれそんなことをなさって、野の番人が見るではございませんか。あなたはそんなに袖(そで)をお振りになったりして。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
(注)あかねさす【茜さす】分類枕詞:赤い色がさして、美しく照り輝くことから「日」「昼」「紫」「君」などにかかる。
(注)むらさき 【紫】①草の名。むらさき草。根から赤紫色の染料をとる。②染め色の一つ。①の根で染めた色。赤紫色。古代紫。古くから尊ばれた色で、律令制では三位以上の衣服の色とされた。
(注)むらさきの 【紫野】:「むらさき」を栽培している園。
(注)しめ【標】:神や人の領有区域であることを示して、立ち入りを禁ずる標識。また、道しるべの標識。縄を張ったり、木を立てたり、草を結んだりする。
◆紫草能 尓保敝類妹乎 尓苦久有者 人嬬故尓 吾戀目八方
(天武天皇 巻一 二一)
≪書き下し≫紫草(むらさき)のにほへる妹(いも)を憎(にく)くあらば人妻(ひとづま)故(ゆゑ)に我(あ)れ恋(こ)ひめやも
(訳)紫草のように色美しくあでやかな妹(いも)よ、そなたが気に入らないのであったら、人妻と知りながら、私としてからがどうしてそなたに恋いこがれたりしようか。(同上)
―その415―
●歌は、「君待つと我が恋ひ居れば我がやどの簾動かし秋の風吹く」である。
●歌碑は、同じく市神神社境内にある。
●歌をみていこう。
◆君待登 吾戀居者 我屋戸之 簾動之 秋風吹
(額田王 巻四 四八八)
≪書き下し≫君待つと我(あ)が恋ひ居(を)れば我(わ)がやどの簾(すだれ)動かし秋の風吹く
(訳)あの方のおいでを待って恋い焦がれていると、折しも家の戸口のすだれをさやさやと動かして秋の風が吹く。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
題詞は、「額田王思近江天皇作歌一首」<額田王(ぬかたのおほきみ)近江天皇(あふみのすめらみこと)を思(しの)ひて作る歌一首>である。
額田王については、「熟田津(にきたず)に船乗りせむと月待てば潮(しほ)もかなひぬ今は漕ぎ出でな(巻一 八)」の歌が有名である。
斉明七年(661年)、百済救援のため天皇を奉じて大船団で筑紫に向かった。この歌は、松山の熟田津を出航する時に歌である。「いまは船出すべき時だ、さ漕ぎ出そう」という歌である。この歌の響きは託宣の響きにも似て厳かさを感じさせる。出航を占い、斉明女帝の立場で詠われたのである。額田王は、「神と人」の間にあって、「ことば」を伝える役目も担ってたとも考えられている。
額田王の父は鏡王であり、近江の「鏡の里」の帰化人と考えられている。額田王の歌には、古来の呪的な色彩をおびたひびきがあるのである。
竜王町観光協会HP「鏡の里エリア 古代から中世にかけての歴史の宝庫」には、次のように記されている。
「旧東山道、中山道の国道8号が通る竜王町の北西部は、広域からの玄関口。鏡山の山麓周辺は古代から中世にかけての歴史の宝庫として名高いエリアです。
鏡神社には、製陶技術を伝えた新羅の皇子『天日槍』(あめのひぼこ)が祀られ、鏡をこの地に納めたとも伝えられています。
周辺には、須恵器を焼成した登り窯の跡地が見られる渡来文化伝承の地です。
町内には須恵、弓削、薬師、綾戸といった渡来文化名残の地域があり、古からの人の技『匠』を感じることができます」
さらに、「真照寺」について、「日本書紀には、鏡王(かがみのおお)の娘、額田王(ぬかたのおおきみ)と記されていることから社伝をみると鏡王は鏡神社の神官で、その娘、鏡王女(かがみのおおきみ)や額田王は、この神官家で育てられました。
万葉の有名な女流歌人 額田王は、この地の出身と言われています。
父の鏡王は壬申の乱(672)で大海人皇子(後の天武天皇)側につき戦死し、この真照寺に葬られています。」と書かれている。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「万葉の心」 中西 進 著 (毎日新聞社)