万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その974)―一宮市萩原町 高松分園(46)―万葉集 巻八 一五四一

●歌は、「我が岡にさを鹿来鳴く初萩の花妻どひに来鳴くさを鹿」である。

 

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一宮市萩原町 高松分園(46)万葉歌碑(プレート)<大伴旅人

●歌碑(プレート)は、一宮市萩原町 高松分園(46)にある。

 

●歌をみていこう。

 

題詞は、「大宰帥大伴卿歌二首」<大宰帥大伴卿が歌二首>である。

 

◆吾岳尓 棹壮鹿来鳴 先芽之 花嬬問尓 来鳴棹壮鹿

               (大伴旅人 巻八 一五四一)

 

≪書き下し≫我が岡にさを鹿(しか)来鳴く初萩(はつはぎ)の花妻(はなつま)どひに来鳴くさを鹿

 

(訳)この庭の岡に、雄鹿が来て鳴いている。萩の初花を妻どうために来て鳴いているのだな、雄鹿は。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より

(注)さをしか【小牡鹿】名詞:雄の鹿(しか)。 ※「さ」は接頭語。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)はなづま【花妻】名詞:①花のように美しい妻。一説に、結婚前の男女が一定期間会えないことから、触れられない妻。②花のこと。親しみをこめて擬人化している。③萩(はぎ)の花。鹿(しか)が萩にすり寄ることから、鹿の妻に見立てていう語(学研)ここでは、③の意

 

この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その924)」で紹介している。

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大伴旅人の歌については、六十三歳の頃、大宰帥に任命されて以降がそのほとんどを占めている。それ以前の歌としては、万葉集にはわずか二首が収録されているだけである。

 

 この二首をみてみよう。

 

題詞は、「暮春之月幸芳野離宮中納言大伴卿奉勅作歌一首幷短歌 未逕奏上歌」<暮春の月に、吉野(よしの)の離宮(とつみや)に幸(いでま)す時に、中納言大伴卿、勅(みことのり)を奉(うけたまは)りて作る歌一首幷(あは)せて短歌 いまだ奏上を経ぬ歌>である。

 

◆見吉野之 芳野乃宮者 山可良志 貴有師 水可良思 清有師 天地与 長久 萬代尓 不改将有 行幸之宮

                              (大伴旅人 巻三 三一五)

 

≪書き下し≫み吉野の 吉野の宮は 山からし 貴(たふと)くあらし 水(かは)からし さやけくあらし 天地(あめつち)と 長く久しく 万代(よろづよ)に 改(かは)らずあらむ 幸(いでま)しの宮

 

(訳)み吉野、この吉野の宮は山の品格ゆえに尊いのである。川の品格ゆえに清らかなのである。天地とともに長く久しく、万代にかけて改(あら)たまることはないであろう。我が大君の行幸(いでまし)の宮は。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)吉野では、「山」と「水」をほめるのが人麻呂以来の伝統。

(注)-から【柄】接尾語:名詞に付いて、そのものの本来持っている性質の意を表す。「国から」「山から」 ⇒参考 後に「がら」とも。現在でも「家柄」「続柄(つづきがら)」「身柄」「時節柄」「場所柄」などと用いる。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)し 副助詞 《接続》体言、活用語の連用形・連体形、副詞、助詞などに付く。:〔強意〕 ⇒参考 「係助詞」「間投助詞」とする説もある。中古以降は、「しも」「しぞ」「しか」「しこそ」など係助詞を伴った形で用いられることが多くなり、現代では「ただし」「必ずしも」「果てしない」など、慣用化した語の中で用いられる。(学研)

(注)天地と 長く久しく:「天地長久」の翻読語

 

反歌もみてみよう。

 

◆昔見之 象乃小河乎 今見者 弥清 成尓来鴨

                (大伴旅人 巻三 三一六)

 

≪書き下し≫昔見し象(さき)の小川(をがは)を今見ればいよよさやけくなりにけるかも

 

(訳)昔見た象(さき)の小川を今再び見ると、流れはいよいよますますさわやかになっている。(同上)

(注)昔見し:天武・持統朝の昔

(注)象(さき)の小川:喜佐谷を流れて宮滝で吉野川にそそぐ川

 

 大伴旅人は、大和歌ではなく、漢詩漢文学に精通していた。大和歌については、彼の周りには、師とあおぐ柿本人麻呂山部赤人のような歌人がいなかった。

 漢詩漢文学と大和歌の組み合わせという新しい歌の在り方への挑戦がこの吉野行幸歌にあったともいわれている。題詞にあるように「勅(みことのり)を奉(うけたまは)りて作る歌一首幷(あは)せて短歌」であり、残念ながら「いまだ奏上を経ぬ歌」となってしまったが、これまでのような、人麻呂や赤人といった宮廷歌人行幸従駕し作るといった流れから中央歌壇においても変化がみられる時代になってきていたのである。

 政治的な流れから旅人は大宰帥に任官されたのであるが、漢文と大和歌の組み合わせた巻五の巻頭歌「報凶聞歌」(七九三歌)に答えた山上憶良の「日本挽歌」(七九四歌)によって両者の接近が強固になり都の歌壇を凌ぐ筑紫歌壇の基盤ともなっていったのである。

 大宰府時代に、旅人の「歌人」としての地位を確固たるものにした流れについて、原田貞義氏は、「大伴旅人―人と作品」(中西 進 編 祥伝社)のなかで、「歌が詠出されるには、それを待ち受ける時と場、取り分け良い耳翼(じよく)を持つ聞き手であると同時に、速やかな応唱者にもありうる受け手がいなければならなかった」と分析されている。

 

 万葉集の読み方、見方について、またひとつ教えられたように思う。これはあらたな課題であり、万葉集がまたふたたび遠い存在になっていったのである。しかし遠く離れても、あきらめず一歩一歩近づくべく挑戦していきたい。

 

 

 旅人の「象の小川」を懐かしむ次の歌も、単に景色だけでなく、筑紫歌壇で花開いた原点を懐かしんでいるとみると見方が変わってくる。

 

◆吾命毛 常有奴可 昔見之 象小河乎 行見為

               (大伴旅人 巻三 三三二)

 

≪書き下し≫我(わ)が命(いのち)も常にあらぬか昔見し象(きさ)の小川(をがわ)を行きて見むため

 

(訳)私の命、この命もずっと変わらずにあってくれないものか。その昔見た象の小川、あの清らかな流れを、もう一度行って見るために。(同上)

 

 この三三二歌ならびに「象の小川」については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その776)」で紹介している・

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(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「大伴旅人―人と作品」 中西 進 編 (祥伝社

★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (新潮文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」