●歌は、「我妹子が見し鞆の浦のむろの木は常世にあれど見し人ぞなき」である。
●歌碑(プレート)は、奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(28)にある。
●歌をみていこう。
◆吾妹子之 見師鞆浦之 天木香樹者 常世有跡 見之人曽奈吉
(大伴旅人 巻三 四四六)
≪書き下し≫我妹子(わぎもこ)が見し鞆(とも)の浦のむろの木は常世(とこよ)にあれど見し人ぞなき
(訳)いとしいあの子が行きに目にした鞆の浦のむろの木は、今もそのまま変わらずにあるが、これを見た人はもはやここにはいない。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
(注)むろのき【室の木・杜松】分類連語:木の名。杜松(ねず)の古い呼び名。海岸に多く生える。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
題詞は、「天平二年庚午冬十二月大宰帥大伴卿向京上道之時作歌五首」<天平二年庚午(かのえうま)の冬の十二月に、大宰帥(だざいのそち)大伴卿(おほとものまへつきみ)、京に向ひて道に上る時に作る歌五首>である。四四六から四五〇歌までであり、四四六から四四八歌の三首の左注が、「右三首過鞆浦日作歌」<右の三首は、鞆の浦を過ぐる日に作る歌>である。
むろの木を詠んだ歌は万葉集には、他に三首収録されている。
上記の「右三首過鞆浦日作歌」ならびに他三首はすべてブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その508)」で紹介している。
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旅人の四四九、四五〇歌の二首の左注が、「右二首過敏馬埼日作歌」<右の二首は、敏馬の埼を過ぐる日に作る歌>であるがこの歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その敏馬神社番外編)で紹介している。
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「右三首過鞆浦日作歌」は、連作である。三首ならべてみる。
四四六歌:我妹子が見し鞆の浦のむろの木は常世にあれど見し人ぞなき
四四七歌:鞆の浦の磯のむろの木見むごとに相見し妹は忘らえめやも
四四八歌:磯の上に根延ふむろの木見し人をいづらと問はば語り告げむか
「鞆の浦のむろの木」→「鞆の浦の磯のむろの木」→「磯の上に根延ふむろの木」と順を追って、むろの木にフォーカスしていっている。
四四六歌で、「我妹子が見し」「見し人」で、妻にフォーカスし、四四七歌では、「見むごとに」「相見し妹は忘らえめやも」と自分にフォーカス、そして四四七歌では、「むろの木」を擬人化しフォーカスすることによって心の中の亡き妻を相対的に自分の位置を中心に幻想化させ、順を追って、空間軸と時間軸を組み合わせ「見し人ぞなき」「相見し妹は忘らえめやも」「見し人をいづらと問はば語り告げむか」とより悲しみを強くにじませているのである。
連作であってこそのなせる業である。
伊藤一彦氏は、「大伴旅人―人と作品(中西 進 編 祥伝社)」の中で、四四六歌について、「歌い出しの『吾妹子』が先(ま)ず読者に強い印象を与える。この一首の主題であると同時に、以下に続く連作の主題を冒頭に提示していると言える。(中略)この一首について言えば、『吾妹子が見し』を省いても意味は伝わるし、その方がスマートな歌になりそうだ。しかし、旅人は切迫した思いを吐き出すように初めに『吾妹子が見し』と荘重に歌い出し、結びでまた『見し人ぞなき』と重ね歌っている。」と書かれている。
連作を並べて読み返すと伊藤氏の言っておられることがよくわかるのである。
旅人と言えば、たしか中学の授業で次の歌を習い、豪快な男というイメージを(勝手に)描いていた。もっとも「世の中は空しきものと・・・」の歌も習った記憶はあるが。
◆驗無 物乎不念者 一坏乃 濁酒乎 可飲有良師
(大伴旅人 巻三 三三八)
≪書き下し≫験(しるし)なきものを思はずは一圷(ひとつき)の濁(にご)れる酒を飲むべくあるらし
(訳)この人生、甲斐なきものにくよくよとらわれるよりは、一杯の濁り酒でも飲む方がずっとましであるらしい。(同上)
(注)しるし【験】名詞:効果。かい。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
(注)濁れる酒:「濁酒」の翻読語。どぶろく。
◆中々尓 人跡不有者 酒壷二 成而師鴨 酒二染甞
(大伴旅人 巻三 三四三)
≪書き下し≫なかなかに人とあらずは酒壺(さかつぼ)になりにてしかも酒に染(し)みなむ
(訳)なまじっか分別くさい人間として生きてなんかいずに、いっそ酒壺になってしまいたい。そうしたらいつも酒浸りになっていられよう。(同上)
(注)なかなかに 副詞:なまじ。なまじっか。中途半端に。(学研)
(注)てしかも 終助詞:《接続》活用語の連用形に付く。〔詠嘆をこめた自己の願望〕…(し)たいものだなあ。 ※上代語。願望の終助詞「てしか」に詠嘆の終助詞「も」が付いて一語化したもの。(学研)
(注の注)呉の鄭泉(ていせん)は、死後自分の屍が土と化して酒壷に作られるように、窯の側に埋めよと言い残したという。この故事を踏まえているか。
「讃酒歌」については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その898-1.898-2)」で紹介している。
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しかし、万葉歌碑巡りをし、ブログを書き、太宰府まで行き、様々な場面で「亡妻悲傷歌」を知り、歴史的背景を少しは理解して、旅人の人となりを垣間見ることができ、しだいに旅人の魅力にひかれていったのである。
もっとも「大伴旅人―人と作品(中西 進 編 祥伝社)」という本に出逢ったことも大きな要素になっている。
知らなかったことがあまりに多岐に渡るが故に、何とか少しでも知りたいという衝動が毎日のブログを継続させる駆動軸になっている。
万葉集は少し近づくと、倍以上遠ざかる感じがする。その度に未知領域の広さ、深さを思い知らされる。しかしそれだけ挑戦し甲斐があるというものである。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」