―その507―
●歌は、「ひさかたの天の原より生れ来たる神の命奥山の賢木の枝に白香付け木綿取り付けて斎瓮を斎ひ掘り据ゑ竹玉を繁に貫き垂れ鹿じもの膝析き伏してたわや女の襲取り懸けかくだにも我れは祈ひなむ君に逢はじかも」である。
●歌碑は、奈良市法蓮佐保山 万葉の苑(9)にある。
●この歌は、直近では、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その316)で紹介している。
歌のみみていこう。
◆久堅之 天原従 生来 神之命 奥山乃 賢木之枝尓 白香付 木綿取付而 齊戸乎 忌穿居 竹玉乎 繁尓貫垂 十六自物 膝析伏 手弱女之 押日取懸 如此谷裳 吾者祈奈牟 君尓不相可聞
(大伴坂上郎女 巻三 三七九)
≪書き下し≫ひさかたの 天(あま)の原(はら)より 生(あ)れ来(き)たる 神の命(みこと) 奥山の 賢木(さかき)の枝(えだ)に 白香(しらか)付け 木綿(ゆふ)取り付けて 斎瓮(いはひへ)を 斎(いは)ひ掘り据(す)ゑ 竹玉(たかたま)を 繁(しじ)に貫(ぬ)き垂(た)れ 鹿(しし)じもの 膝(膝)折り伏して たわや女(め)の 襲(おすひ)取り懸(か)け かくだにも 我(わ)れは祈(こ)ひなむ 君に逢はじかも
(訳)高天原の神のみ代から現われて生を継いで来た先祖の神よ。奥山の賢木の枝に、白香(しらか)を付け木綿(ゆう)を取り付けて、斎瓮(いわいべ)をいみ清めて堀り据え、竹玉を緒(お)にいっぱい貫き垂らし、鹿のように膝を折り曲げて神の前にひれ伏し、たおやめである私が襲(おすい)を肩に掛け、こんなにまでして私は懸命にお祈りをしましょう。それなのに、我が君にお逢いできないものなのでしょうか。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
(注)しらか【白香】名詞:麻や楮(こうぞ)などの繊維を細かく裂き、さらして白髪のようにして束ねたもの。神事に使った。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
(注)ゆふ【木綿】名詞:こうぞの樹皮をはぎ、その繊維を蒸して水にさらし、細く裂いて糸状にしたもの。神事で、幣帛(へいはく)としてさかきの木などに掛ける。(学研)
(注)いはひべ【斎ひ瓮】名詞:神にささげる酒を入れる神聖な甕(かめ)。土を掘って設置したらしい。(学研)
(注)たかだま【竹玉・竹珠】名詞:細い竹を短く輪切りにして、ひもを通したもの。神事に用いる。(学研)
(注)しじに【繁に】副詞:数多く。ぎっしりと。びっしりと。(学研)
(注)ししじもの【鹿じもの・猪じもの】分類枕詞:鹿(しか)や猪(いのしし)のようにの意から「い這(は)ふ」「膝(ひざ)折り伏す」などにかかる。(学研)
(注)おすひ【襲】名詞:上代の上着の一種。長い布を頭からかぶり、全身をおおうように裾(すそ)まで長く垂らしたもの。主に神事の折の、女性の祭服。(学研)
(注)だにも 分類連語:①…だけでも。②…さえも。 ※なりたち副助詞「だに」+係助詞「も」
(注)君:ここでは、亡夫宿奈麻呂
万葉集で、「さかき」を歌った歌はこの歌一首である。郎女が大伴氏の氏神を祭る時に詠ったものと思われる。当時の祭礼の様子がうかがえる貴重な歌である。
―その508―
●歌は、「我妹子が見し鞆の浦のむろの木は常世にあれど見し人ぞなき」である。
●歌碑は、奈良市法蓮佐保山 万葉の苑(10)にある。
●歌をみていこう。
◆吾妹子之 見師鞆浦之 天木香樹者 常世有跡 見之人曽奈吉
(大伴旅人 巻三 四四六)
≪書き下し≫我妹子(わぎもこ)が見し鞆(とも)の浦のむろの木は常世(とこよ)にあれど見し人ぞなき
(訳)いとしいあの子が行きに目にした鞆の浦のむろの木は、今もそのまま変わらずにあるが、これを見た人はもはやここにはいない。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
(注)むろのき【室の木・杜松】分類連語:木の名。杜松(ねず)の古い呼び名。海岸に多く生える。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
題詞は、「天平二年庚午冬十二月大宰帥大伴卿向京上道之時作歌五首」<天平二年庚午(かのえうま)の冬の十二月に、大宰帥(だざいのそち)大伴卿(おほとものまへつきみ)、京に向ひて道に上る時に作る歌五首>である。四四六から四五〇歌までであり、四四六から四四八歌の三首の左注が、「右三首過鞆浦日作歌」<右の三首は、鞆の浦を過ぐる日に作る歌>である。
他の二首をみてみよう。
◆鞆浦之 磯之室木 将見毎 相見之妹者 将所忘八方
(大伴旅人 巻三 四四七)
≪書き下し≫鞆の浦の磯のむろの木見むごとに相見し妹は忘らえめやも
(訳)鞆の浦の海辺の岩の上に生えているむろの木。この木をこれから先も見ることがあればそのたびごとに、行く時に共に見たあの子のことが思い出されて、とても忘れられないだろうよ。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
◆磯上丹 根蔓室木 見之人乎 何在登問者 語将告可
(大伴旅人 巻三 四四八)
≪書き下し≫磯の上に根延(ねば)ふむろの木見し人をいづらと問はば語り告げむか
(訳)海辺の岩の上に根を張っているむろの木よ、行く時にお前を見た人、その人をどうしているかと尋ねたなら、語り聞かせてくれるであろうか。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
題詞にあるように、天平二年(730年)大伴旅人が大納言に昇進し、大宰府から都に戻る途中、鞆の浦で詠んだものである。
大宰府は、「遠の朝廷(みかど)」と呼ばれ、主要職メンバーはすべて、遠隔の地からの赴任者であった。それだけに大宰帥の人選にあたっては内助の功を十二分に発揮できる妻をもっているかが条件とされたという。旅人の妻の郎女はそのような才能を有していたが、九州の着くと間もなく、長旅の疲れのせいか病床に就き帰らぬ人になってしまったのである。
赴任する時に、妻と一緒に見た「むろの木」が思い出されて、やるせない気持ちが溢れる歌である。
四四六歌では、「鞆浦之 天木香樹」、四四七歌では、「鞆浦之 磯之室木」さらに四四八歌では、「磯上丹 根蔓室木」とズームアップすることによって、やるせない気持ちがほとばしる様を見事に歌い上げているのである。
旅人の歌の他で「むろの木」が詠いこまれているのは三首あるのでそちらもみてみよう。
◆波奈礼蘇尓 多弖流牟漏能木 宇多我多毛 比左之伎時乎 須疑尓家流香母
(作者未詳 巻十五 三六〇〇)
≪書き下し≫離(はな)れ磯(そ)に立てるむろの木うたがたも久しき時を過ぎにけるかも
(訳)離れ島の磯に立っているむろの木、あの木はきっと途方もなく長い年月を、あの姿のままで過ごしてきたものなのだ。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)
(注)うたがたも 副詞:きっと。必ず。真実に。
◆之麻思久母 比等利安里宇流 毛能尓安礼也 之麻能牟漏能木 波奈礼弖安流良武
(作者未詳 巻十五 三六〇一)
≪書き下し≫しましくもひとりありうるものにあれや島のむろの木離れてあるらむ
(訳)ほんのしばらくだって、人は独りでいられるものなのであろうか、そんなはずはないのに、どうしてあの島のむろの木は、あんなに離れて独りぼっちでおられるのであろうか。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
三六〇〇、三六〇一歌は、天平八年(736年)の「遣新羅使人等」の歌である。新羅に向かう船から鞆の浦の「むろの木」を見て詠った歌である。旅人の歌を踏まえている。
もう一首は、長忌寸意吉麿麻呂の歌である。
題詞は、「玉掃(たまばはき)、鎌(かま)、天木香(むろのき)、棗(なつめ)を詠む歌」である。
◆玉掃 苅来鎌麻呂 室乃樹 與棗本 可吉将掃為
(長忌寸意吉麿麻呂 巻十六 三八三〇)
≪書き下し≫玉掃(たまばはき)刈(か)り来(こ)鎌麻呂(かままろ)むろの木と棗(なつめ)が本(もと)とかき掃(は)かむため
(訳)箒(ほうき)にする玉掃(たまばはき)を刈って来い、鎌麻呂よ。むろの木と棗の木の根元を掃除するために。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)
(注)たまばはき【玉箒】名詞:ほうきにする木・草。今の高野箒(こうやぼうき)とも、箒草(ほうきぐさ)ともいう。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
この歌のように、いろいろな物を詠み込むように題が与えられたのに対して応じた歌が、巻十七には十三首収録されている。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」