―その997―
●歌は、「蓮葉はかくこそあるもの意吉麻呂が家にあるものは芋の葉にあらし」である。
●歌碑(プレート)は、名古屋市千種区東山元町 東山植物園(16)にある。
●歌をみていこう。
題詞は、「詠荷葉歌」<荷葉(はちすば)を詠む歌>である。
◆蓮葉者 如是許曽有物 意吉麻呂之 家在物者 宇毛乃葉尓有之
(長忌寸意吉麻呂 巻十六 三八二六)
≪書き下し≫蓮葉(はちすば)はかくこそあるもの意吉麻呂(おきまろ)が家にあるものは芋(うも)の葉にあらし
(訳)蓮(はす)の葉というものは、まあ何とこういう姿のものであったのか。してみると、意吉麻呂の家にあるものなんかは、どうやら里芋(いも)の葉っぱだな。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)蓮葉:宴席の美女の譬え。
(注)宇毛乃葉:妻をおとしめて言った。芋(うも)に妹(いも)をかけた。
美女を喩える言葉に「芙蓉(ふよう) の 顔(かんばせ)」という言葉があるが、「蓮の花のように清楚で美しい顔」という意味である。中国でも日本でも、今とは違い、芙蓉の花とは「蓮」の花のことであった。
宴席にいた美女を蓮の葉に見立て、家に居る自分の妻を芋(うも)<妹(いも)を懸ける>の葉に見立てている。なかなかの言い回しである。
万葉集には「蓮」を詠んだ歌は四首収録されている。この歌を含めこの四首については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その973)」で紹介している。
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―その998―
●歌は、「玉掃刈り来鎌麻呂むろの木と棗が本とかき掃かむため」である。
●歌碑(プレート)は、名古屋市千種区東山元町 東山植物園(17)にある。
●歌をみていこう。
◆玉掃 苅来鎌麻呂 室乃樹 與棗本 可吉将掃為
(長意吉麿 巻十六 三八三〇)
≪書き下し≫玉掃(たまはばき) 刈(か)り来(こ)鎌麿(かままろ)むろの木と棗(なつめ)が本(もと)とかき掃(は)かむため
(訳)箒にする玉掃(たまばはき)を刈って来い、鎌麻呂よ。むろの木と棗の木の根本を掃除するために。(同上)
題詞は、「詠玉掃鎌天木香棗歌」<玉掃(たまばはき)、鎌(かま)、天木香(むろ)、棗(なつめ)を詠む歌>である。この互いに無関係の四つのものを、ある関連をつけて即座に歌うのが条件であった。
このような歌は、平安時代には、物名歌(ぶつめいか)と呼ばれるジャンルを形成していることになる。万葉の時代の歌は、そのはしりと見られている。
先のブログの三八二六歌ならびに三八三〇歌は、三八二四から三八三一歌の「長忌寸意吉麻呂が歌八首」にある。
この八首については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その380)」で紹介している。
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長忌寸意吉麻呂の歌は万葉集には十四首収録されているが、十四首すべては、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その987)」で紹介している。
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三八三〇歌の題詞、「詠玉掃鎌天木香棗歌」<玉掃(たまばはき)、鎌(かま)、天木香(むろ)、棗(なつめ)を詠む歌>にあやかって、「玉掃(たまばはき)」「天木香(むろ)」「棗(なつめ)」を詠んだ歌をみていこう。
まず「玉掃(たまばはき)」からである。大伴家持の歌である。
◆始春乃 波都祢乃家布能 多麻婆波伎 手尓等流可良尓 由良久多麻能乎
(大伴家持 巻二十 四四九三)
≪書き下し≫初春(はつはる)の初子(はつね)の今けふ)の玉箒(たまばはき)手に取るからに揺(ゆ)らく玉の緒
(訳)春先駆けての、この初春の初子の今日の玉箒、ああ手に取るやいなやゆらゆらと音をたてる、この玉の緒よ。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)
(注)ゆらく【揺らく】自動詞:(玉や鈴が)揺れて触れ合って、音を立てる。 ※後に「ゆらぐ」とも。(学研) ※※「揺らく」は、動きと音の両方をいう。
この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その649)」で紹介している。
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次は、「天木香(むろ)」である。
天平二年十二月大伴旅人が大納言に任ぜられ上京する時に亡き妻を偲んで詠った歌である。
◆吾妹子之 見師鞆浦之 天木香樹者 常世有跡 見之人曽奈吉
(大伴旅人 巻三 四四六)
≪書き下し≫我妹子(わぎもこ)が見し鞆(とも)の浦のむろの木は常世(とこよ)にあれど見し人ぞなき
(訳)いとしいあの子が行きに目にした鞆の浦のむろの木は、今もそのまま変わらずにあるが、これを見た人はもはやここにはいない。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
(注)むろのき【室の木・杜松】分類連語:木の名。杜松(ねず)の古い呼び名。海岸に多く生える。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その508)」で紹介している。
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「棗(なつめ)」を詠った歌は万葉集では二首収録されている。もう一首は、三八三四歌である。
◆成棗 寸三二粟嗣 延田葛乃 後毛将相跡 葵花咲
(作者未詳 巻十六 三八三四)
≪書き下し≫梨(なし)棗(なつめ)黍(きみ)に粟(あは)つぎ延(は)ふ葛(くず)の後(のち)も逢(あ)はむと葵(あふひ)花咲く
(訳)梨、棗、黍(きび)、それに粟(あわ)と次々に実っても、早々に離れた君と今は逢えないけれど、延び続ける葛のようにのちにでも逢うことができようと、葵(逢ふ日)の花が咲いている。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)
(注)はふくずの「延(は)ふ葛(くず)の」枕詞:延びていく葛が今は別れていても先で逢うことがあるように、の意で「後も逢はむ」の枕詞になっている。
この歌には、植物の名前にかけた言葉遊びが隠されている。「黍(きみ)」は「君(きみ)」に、「粟(あは)」は「逢(あ)ふ」に、そして「葵(あふひ)」には「逢(あ)ふ日(ひ)」の意味が込められている。このような言葉遊びは、後の時代に「掛詞(かけことば)」という和歌の技法として発展していくのである。
この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その667)」他で紹介している。
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―その999―
●歌は、「梨棗黍に粟つぎ延ふ葛の後も逢はむと葵花咲く」である。
●歌碑(プレート)は、「名古屋市千種区東山元町 東山植物園(18)にある。
●この歌は、前稿998で、棗を詠んだもう一首として紹介したところであるのでここでは省略します。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」