万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その975)―一宮市萩原町 高松分園(47)―万葉集 巻十 二二三三 

●歌は、「高松のこの嶺も狭に笠立てて満ち盛りたる秋の香のよさ」である。

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一宮市萩原町 高松分園(47)万葉歌碑<作者未詳>


 

●歌碑は、一宮市萩原町 高松分園(47)にある。

 

●歌をみていこう。

 

題詞は、「詠芳」<芳(か)を詠(よ)む>である。

 

◆高松之 此峯迫尓 笠立而 盈盛有 秋香乃吉者

               (作者未詳 巻十 二二三三)

 

≪書き下し≫高松(たかまつ)のこの嶺(みね)も狭(せ)に笠(かさ)立てて満(み)ち盛(さか)りたる秋の香(か)のよさ

 

(訳)高松のこの峰も狭しと傘を突き立てて、満ち溢(あふ)れている秋のかおりの、なんとかぐわしいことか。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)秋の香:松茸の香りか

 

 マツタケは今では、超貴重品であるが、昭和の初期でも、アカマツ林では秋になると全山、マツタケの香りが漂い、簡単に段ボール一杯すぐに採れたという話を聞いたことがある。

この歌そのものの様相である。

 

 

樫の木文化資料館、白山社をめぐり、花しょうぶ苑をほぼ廻り終えた時に、歌碑と歌碑の説明案内板が設置してあるのを見つけた。

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「『高松論争』になった萬葉歌」説明案内板

 案内板の説明を読んで驚いた。説明文には次のように書かれていた。

 

「高松論争」になった萬葉歌

一九五五(昭和三十)年、詩人の佐藤一秀(一八九九~一九七九)は、「高松を詠んだ萬葉歌六首(巻十)は、わが故郷の『萩の原』の風情を詠んだ歌である。ぜひ萩の群落を保護し、公園にしてほしいと」、一宮市に要望した。

市は、現地調査を踏まえ、「萬葉公園設立」の計画を発表したところ、萬葉学者から、「六首のうちの二首は、当地の地形から見て、歌との結びつきは極めて薄い」と指摘され、計画は中断し、歌の解釈をめぐって論争が始まった。マスコミにも取り上げられ、大きな話題を呼び、世に言う「高松論争」が繰り広げられた。

 市は「萬葉歌六首の地と明記せず、文化事業として萩を保護し、萬葉の古を偲ぶ市民の憩いの庭を造り、論争の成果を後日に期する」(設立趣旨書)として一九五七(昭和三十二)年春、「一宮萬葉公園」を開園することにした。

論争となった二首は、高松の白山神社境内(昭和四十五年)と高松公民館(昭和四十六年)に歌碑が建立されたが、「高松論争」は、時と共に忘れ去られ今日に至っている。

このたび、公民館の改築を機会に歌碑を「萬葉公園高松分園」に移転し、「高松論争」を後世に語り継ぐと共に、先人たちの萬葉歌に寄せる熱い思いと、萬葉人の自然を愛する豊かな心情を感じていただけたら幸甚である。

二〇一八(平成三十)年六月吉日 寄贈 一宮中ライオンズクラブ

 

 

 現地でないと知りえないことであり、公園の設立に当たった当時の関係者の熱い思いがひしひしと伝わって来た。

 

 万葉歌碑めぐりを計画する時は、先達たちのブログや関係資料をネット検索し、時にはグーグルアースも使って事前に歌碑を見つけておくなどしている。

 今回もそれなりの計画をたて、巡る順番なども決めていた。白山社や樫の木文化資料館が公園と隣接しているのも現地に足を踏み入れて驚いたことであった。

さらに、高松公民館にあるこの二二三三歌の歌碑は、検索するも見つからず諦めていたのである。それが、目の前にある。そしてその経緯が分かり、熱い思いの背景も知りえたのである。

 

「高松論争」になった萬葉歌の説明案内板に「高松を詠んだ歌四首」と「論争になった歌二首」が記されている。

これまでのブログでそれぞれ解説してきたが、改めて六首をみてみよう。

 

【高松を詠んだ歌四首】

◆春霞 田菜引今日之 暮三伏一向夜 不穢照良武 高松之野尓

               (作者未詳 巻十 一八七四)

 

≪書き下し≫春霞(はるかすみ)たなびく今日(けふ)の夕月夜(ゆふづくよ)清(きよ)く照るらむ高松(たかまつ)の野に

 

(訳)春霞がたなびく中で淡く照っている今宵(こよい)の月、この月は、さぞかし清らかに照らしていることであろう。霞の彼方の、あの高松の野のあたりでは。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

 この歌は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その960)で紹介している。

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◆吾衣 揩有者不在 高松之 野邊行之者 芽子之揩類曽

              (作者未詳 巻十 二一〇一)

 

≪書き下し≫我(あ)が衣(ころも)摺(す)れるにはあらず高松(たかまつ)の野辺(のへ)行きしかば萩の摺れるぞ

 

(訳)私の衣は、摺染(すりぞ)めしたのではありません。高松の野辺を行ったところ、あたり一面に咲く萩が摺ってくれたのです。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

 この歌は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その952)」で紹介している。

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◆鴈之鳴乎 聞鶴奈倍尓 高松之 野上乃草曽 色付尓家里

(作者未詳 巻十 二一九一)

 

≪書き下し≫雁(かり)が音(ね)を聞きつるなへに高松(たかまつ)の野(の)の上(うへ)の草ぞ色づきにける

 

(訳)雁の声を聞いた折しも、高松の野辺一帯の草は色づいてきた。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より

 この歌は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(946)」で紹介している。

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◆里異 霜者置良之 高松 野山司之 色付見者

               (作者未詳 巻十 二二〇三)

 

≪書き下し≫里ゆ異(け)に霜は置くらし高松(たかまつ)の野山(のやま)づかさの色づく見れば

 

(訳)あそこには人里とは違って霜は格別ひどく置くらしい。高松の野山の高みが色づいているのをいると。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

 この歌は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(969)」で紹介している。

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【論争になった歌二首】

◆高松之 此峯迫尓 笠立而 盈盛有 秋香乃吉者

               (作者未詳 巻十 二二三三)

 

≪書き下し≫高松(たかまつ)のこの嶺(みね)も狭(せ)に笠(かさ)立てて満(み)ち盛(さか)りたる秋の香(か)のよさ

 

(訳)高松のこの峰も狭しと傘を突き立てて、満ち溢(あふ)れている秋のかおりの、なんとかぐわしいことか。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

➡ 上述 

 

◆暮去者 衣袖寒之 高松之 山木毎 雪曽零有

              (作者未詳 巻十 二三一九)

 

≪書き下し≫夕されば衣手(ころもで)寒し高松(たかまつ)の山の木ごとに雪ぞ降りたる

 

(訳)夕方になるにつれて、袖口のあたりがそぞろに寒い。見ると、高松の山の木という木に雪が降り積もっている。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

 この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(968)」で紹介している。

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(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「『高松論争』になった萬葉歌」 (一宮中ライオンズクラブ