●歌は、「湯の原に鳴く葦鶴は我がごとく妹に恋ふれや時わかず鳴く」である。
●歌碑は、太宰府市吉松 太宰府歴史スポーツ公園(6)にある。
●歌をみていこう。
題詞は、「帥大伴卿宿次田温泉聞鶴喧作歌一首」<帥大伴卿、次田(すきた)の温泉(ゆ)に宿(やど)り、鶴の声を聞きて作る歌一首>である。
◆湯原尓 鳴蘆多頭者 如吾 妹尓戀哉 時不定鳴
(大伴旅人 巻六 九六一)
≪書き下し≫湯の原に鳴く葦鶴(あしたづ)は我(あ)がごとく妹(いも)に恋ふれや時わかず鳴く
(訳)湯の原に鳴く葦鶴(あしたづ)は、私のように妻に恋い焦がれているのであろうか、私ほどではなかろうに、時も定めず鳴き立てている。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)あしたづ【葦鶴】名詞:鶴(つる)。▽葦の生えている水辺によくいるところから。「たづ」は歌語。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
(注)こふ【恋ふ】他動詞:心が引かれる。慕い思う。なつかしく思う。(異性を)恋い慕う。恋する。 ⇒注意 「恋ふ」対象は人だけでなく、物や場所・時の場合もある。(学研)
(注)ときわかず【時分かず】分類連語:四季の別がない。いつと決まっていない。時を選ばない。⇒なりたち 名詞「とき」+四段動詞「わく」の未然形+打消の助動詞「ず」(学研)
(注)や 係助詞:《接続》文末に用いられる場合は活用語の終止形・已然形に付く。
文末にある場合:①〔疑問〕…か。②〔問いかけ〕…か。③〔反語〕…(だろう)か、いや、…ない。(学研)
旅人は、神亀五年(728年)四月の初旬に妻を亡くしている。
天平二年(730年)十月大納言となり、十二月に奈良の佐保の邸に戻っている。上京の途上も旅人は亡妻を思う歌をいくつも歌っているのである。
旅人の愛妻ぶりは、時間を超越して心に響く。
これらの歌をみてみよう。
題詞は、「神龜五年戊辰大宰帥大伴卿思戀故人歌三首」<神亀(じんき)五年戊辰(つちのえたつ)に、大宰帥(だざいのそち)大伴卿(おほとものまへつきみ)、故人を思(しの)ひ恋ふる歌三首>である。
(注)神亀五年:728年
(注)故人:神亀五年に亡くなった旅人の妻をいう。
◆愛 人之纒而師 敷細之 吾手枕乎 纒人将有哉
(大伴旅人 巻三 四三八)
≪書き下し≫愛(うつく)しき人のまきてし敷栲(しきたへ)の我(わ)が手枕(たまくら)をまく人あらめや
(訳)いとしい人が枕にして寝た私の腕(かいな)、この手枕を枕にする人が亡き妻のほかにあろうか。あるものではない。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)しきたへの【敷き妙の・敷き栲の】分類枕詞:「しきたへ」が寝具であることから「床(とこ)」「枕(まくら)」「手枕(たまくら)」に、また、「衣(ころも)」「袖(そで)」「袂(たもと)」「黒髪」などにかかる。(学研)
(注)めや 分類連語:…だろうか、いや…ではない。 ⇒なりたち推量の助動詞「む」の已然形+反語の係助詞「や」(学研)
左注は、「右一首別去而経數旬作歌」<右の一首は、別れ去(い)にて数旬を経(へ)て作る歌>である。
◆應還 時者成来 京師尓而 誰手本乎可 吾将枕
(大伴旅人 巻三 四三九)
≪書き下し≫帰るべく時はなりけり都にて誰(た)が手本(たもと)をか我(わ)が枕(まくら)かむ
(訳)いよいよ都に帰ることができる時期となった。しかし、都でいったい誰の腕を、私は枕にして寝ようというのか。(同上)
(注)帰るべく時:旅人の帰京は、天平二年(730年)十二月。
(注)まく【枕く】他動詞:①枕(まくら)とする。枕にして寝る。②共寝する。結婚する。※ ②は「婚く」とも書く。のちに「まぐ」とも。上代語。(学研) ここでは①の意
◆在京 荒有家尓 一宿者 益旅而 可辛苦
(大伴旅人 巻三 四四〇)
≪書き下し≫都にある荒れたる家にひとり寝(ね)ば旅にまさりて苦しかるべし
(訳)都にある人気のない家にたった一人で寝たならば、今の旅寝にもましてどんなにつらいことであろう。(同上)
(注)旅にまさりて:二句目の奈良の「家」に対して、異郷筑紫のわびしい生活をいう。
左注は、「右二首臨近向京之時作歌」<右の二首は、京に向ふ時に臨近(ちか)づきて作る歌>である
題詞は、「天平二年庚午冬十二月大宰帥大伴卿向京上道之時作歌五首」<天平二年庚午(かのえうま)の冬の十二月に、大宰帥(だざいのそち)大伴卿(おほとものまへつきみ)、京に向ひて道に上る時に作る歌五首>
◆吾妹子之 見師鞆浦之 天木香樹者 常世有跡 見之人曽奈吉
(大伴旅人 巻三 四四六)
≪書き下し≫我妹子(わぎもこ)が見し鞆(とも)の浦のむろの木は常世(とこよ)にあれど見し人ぞなき
(訳)いとしいあの子が行きに目にした鞆の浦のむろの木は、今もそのまま変わらずにあるが、これを見た人はもはやここにはいない。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
(注)むろのき【室の木・杜松】分類連語:木の名。杜松(ねず)の古い呼び名。海岸に多く生える。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
◆鞆浦之 磯之室木 将見毎 相見之妹者 将所忘八方
(大伴旅人 巻三 四四七)
≪書き下し≫鞆の浦の磯のむろの木見むごとに相見し妹は忘らえめやも
(訳)鞆の浦の海辺の岩の上に生えているむろの木。この木をこれから先も見ることがあればそのたびごとに、行く時に共に見たあの子のことが思い出されて、とても忘れられないだろうよ。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
◆磯上丹 根蔓室木 見之人乎 何在登問者 語将告可
(大伴旅人 巻三 四四八)
≪書き下し≫磯の上に根延(ねば)ふむろの木見し人をいづらと問はば語り告げむか
(訳)海辺の岩の上に根を張っているむろの木よ、行く時にお前を見た人、その人をどうしているかと尋ねたなら、語り聞かせてくれるであろうか。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
四四六から四五〇歌までであり、四四六から四四八歌の三首の左注が、「右三首過鞆浦日作歌」<右の三首は、鞆の浦を過ぐる日に作る歌>である。
題詞にあるように、天平二年(730年)大伴旅人が大納言に昇進し、大宰府から都に戻る途中、鞆の浦で詠んだものである。
この三首については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その508)」で紹介している。
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◆与妹来之 敏馬能埼乎 還左尓 獨之見者 涕具末之毛
(大伴旅人 巻三 四四九)
≪書き下し≫妹(いも)と来(こ)し敏馬(みぬめ)の崎を帰るさにひとりし見れば涙(なみた)ぐましも
(訳)行く時にあの子と見たこの敏馬の埼を、帰りしなにただ一人で見ると、涙がにじんでくる。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
(注)敏馬に「見ぬ妻」を匂わせる
◆去左尓波 二吾見之 此埼乎 獨過者 情悲喪 <一云見毛左可受伎濃>
(大伴旅人 巻三 四五〇)
≪書き下し≫行くさにはふたり我(あ)が見しこの崎をひとり過ぐれば心(こころ)悲しも
<一には「見もさかず来ぬ」といふ>
(訳)行く時には二人して親しく見たこの敏馬の崎なのに、ここを今一人で通り過ぎると、心が悲しみでいっぱいだ。<遠く見やることもせずにやって来てしまった。>
なお、左注が、「右二首過敏馬埼日作歌」<右の二首は、敏馬の﨑を過ぐる日に作る歌>である。
この二首については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その506~番外)」の番外編で紹介している。
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奈良の家に帰ってからも亡き妻を偲んで詠っている。つづいてみてみよう。
題詞は、「 還入故郷家即作歌三首」<故郷の家に還り入りて、すなはち作る歌三首>である。
◆人毛奈吉 空家者 草枕 旅尓益而 辛苦有家里
(大伴旅人 巻三 四五一)
≪書き下し≫人もなき空(むな)しき家は草枕旅にまさりて苦しくありけり
(訳)人気もないがらんとした家は、枕の苦しさにまして、やっぱり、何とも無性にやるせない。(同上)
(注)人もなき空しき家:先の四四〇歌の照応している。
◆与妹為而 二作之 吾山齊者 木高繁 成家留鴨
(大伴旅人 巻三 四五二)
≪書き下し≫妹としてふたり作りし我(わ)が山斎(しま)は木高(こだか)く茂(しげ)くなりにけるかも
(注)しま【山斎】名詞:庭の泉水の中にある築山(つきやま)。また、泉水・築山のある庭園。(学研より)
◆吾妹子之 殖之梅樹 毎見 情咽都追 涕之流
(大伴旅人 巻三 四五三)
≪書き下し≫我妹子(わぎもこ)が植ゑし梅の木見るごとに心むせつつ涙(なみた)し流る
(訳)いとしいあの子が植えた梅の木、その木をを見るたびに、胸がつまって、とどめもなく涙が流れる
四五一歌から四五三歌へ、「家」から「山斎」そして「梅の木」と焦点が移っている。これからもずっと愛妻のことを思い続けることをこの三首から強く感じるのである。
今まで描いていた旅人のイメージと異なる、いやこれほどまでの人であるからか、ますますひかれるのである。機会を見て旅人の歴史の流れの中での姿を見て行きたいものである。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」