万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉集の世界に飛び込もう(その2568)―書籍掲載歌を中軸に―

●歌は、「引馬野ににほふ榛原入り乱れ衣にほはせ旅のしるしに(長忌寸意吉麻呂 1-57)」、「いづくにか舟泊てすらむ安礼の﨑漕ぎ廻み行きし棚なし小舟(高市黒人 1-58)」、「白波の浜松が枝の手向けくさ幾代までにか年の経ぬらむ(川島皇子 1-34)」、草枕旅行く君と知らませば岸の埴生ににほはさましを(清江娘子 1-69)」そして「我妹子を早見浜風大和なる我れ松椿吹かずあるなゆめ(長皇子 1-73)」である。

愛知県知立市山町御林 旧東海道松並木万葉歌碑(長忌寸意吉麻呂) 20220411撮影

住吉区住吉     住吉大社反り橋西詰め北万葉歌碑(清江娘子) 20201012撮影

●歌碑は、長忌寸意吉麻呂の1-57が、愛知県知立市山町御林 旧東海道松並木にあり、清江娘子の1-69が、住吉区住吉     住吉大社反り橋西詰め北にある。

 

●歌を順にみていこう。

■長忌寸意吉麻呂の1-57■

題詞は、「二年壬寅太上天皇幸于参河國時歌」<二年壬寅(みずのえとら)に、太上天皇(おほきすめらみこと)、三河の国に幸(いでま)す時の歌>である。

(注)大宝二年:702年

(注)太上天皇:持統上皇

 

◆引馬野尓 仁保布榛原 入乱 衣尓保波勢 多鼻能知師尓

        (長忌寸意吉麻呂 巻一 五七)

 

≪書き下し≫引馬野(ひくまの)ににほふ榛原(はりはら)入り乱れ衣にほはせ旅のしるしに

 

(訳)引馬野(ひくまの)に色づきわたる榛(はり)の原、この中にみんな入り乱れて衣を染めなさい。旅の記念(しるし)に。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)引馬野(ひくまの):愛知県豊川市(とよかわし)御津(みと)町の一地区。『万葉集』に「引馬野ににほふ榛原(はりばら)入り乱れ衣にほはせ旅のしるしに」と歌われた引馬野は、豊川市御津町御馬(おんま)一帯で、古代は三河国国府(こくふ)の外港、近世は三河五箇所湊(ごかしょみなと)の一つだった。音羽(おとわ)川河口の低湿地に位置し、引馬神社がある。(コトバンク 日本大百科全書<ニッポニカ>)

(注)はり【榛】名詞:はんの木。実と樹皮が染料になる。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)にほふ【匂ふ】:自動詞 ①美しく咲いている。美しく映える。②美しく染まる。(草木などの色に)染まる。③快く香る。香が漂う。④美しさがあふれている。美しさが輝いている。⑤恩を受ける。おかげをこうむる。

他動詞:①香りを漂わせる。香らせる。②染める。色づける。(学研)

 

左注は、「右一首長忌寸奥麻呂」<右の一首は長忌寸意吉麻呂(ながのいみきおきまろ)>である。

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1426)」で紹介している。

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高市黒人 1-58■

◆何所尓可 船泊為良武 安礼乃埼 榜多味行之 棚無小舟

      (高市黒人 巻一 五八)

 

≪書き下し≫いづくにか船泊てすらむ安礼の崎漕ぎ廻み行きし棚無し小舟

 

(訳)今頃、どこに舟泊(ふなど)まりしているのであろうか。さっき安礼の﨑を漕ぎめぐって行った、あの横板もない小さな舟は。(同上)

(注)あれのさき【安礼崎】:愛知県南部、御津(みと)町の渥美湾に突き出ていた崎。下佐脇新田(しもさわきしんでん)の西端にあったとみられる。(広辞苑無料検索 日本国語大辞典

(注)たななしをぶね【棚無し小舟】名詞:船棚がない小さな舟。(学研)

 

左注は、「右一首高市連黒人」<右の一首は高市連黒人(たけちのむらじくろひと)>である。

 

 

 



 

川島皇子 1-34■

題詞は、「幸于紀伊國時川嶋皇子御作歌  或云山上臣憶良作」<紀伊の国(きのくに)に幸(いでま)す時に、川島皇子(かはしまのみこ)の作らす歌  或いは「山上臣憶良作る」といふ>である。

(注)川島皇子天智天皇の子。莫逆の友人大津皇子の謀反を朝廷に告げた。(伊藤脚注)

 

◆白浪乃 濱松之枝乃 手向草 幾代左右二賀 年乃經去良武 <一云 年者經尓計武>

       (川島皇子 巻一 三四)

 

≪書き下し≫白波の浜松が枝(え)の手向(たむ)けくさ幾代(いくよ)までにか年の経(へ)ぬらむ<一には「年は経にけむ」といふ>

 

(訳)白波寄せる浜辺の松の枝に結ばれた、この手向(たむ)けのものは、結ばれてからもうどれくらいの年月(としつき)が経(た)つのであろうか。(同上)

(注)浜松が枝:有間皇子につなみの岩代の浜松。(伊藤脚注)

(注)手向けくさ:無事を祈るための手向けの物。(伊藤脚注)

(注の注)くさ【種】名詞:①物事を生ずるもと。原因。たね。②種類。品(しな)。(学研)ここでは②の意

 

左注は、「日本紀曰朱鳥四年庚寅秋九月天皇紀伊國也」<日本紀には、「朱鳥(あかみとり)の四年庚寅(かのえとら)の秋の九月に、天皇紀伊国(きのくに)に幸す」といふ。>である。

(注)朱鳥(あかみとり)の四年:持統四年(690年)。書紀では「朱鳥」は天武末年一年の年号。(伊藤脚注)

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その2430)」で紹介している。

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■清江娘子 1-69■

六六から六九歌の題詞は、「太上天皇幸于難波宮時歌」<太上天皇(おほきすめらみこと)、難波の宮に幸(いでま)す時の歌>である。

草枕 客去君跡 知麻世婆 岸之埴布尓 仁寶播散麻思呼

      (清江娘子 巻一 六九)

 

≪書き下し≫草枕旅行く君と知らませば岸の埴生(はにふ)ににほはさましを

 

(訳)草を枕の旅のお方と知っていたなら、この住吉の岸の埴土(はにつち)で衣を染めてさしあげるのでしたのに(住吉に留まって下さるお方とばかり思っていたので、染めてさしあげられませんでした)(同上)

(注)にほはす【匂はす】:他動詞:①美しく染める。美しく色づける。②香りを漂わせる。薫らせる。③それとなく知らせる。ほのめかす。(学研) ここでは①の意

 

左注は、「右一首清江娘子進長皇子 姓氏未詳」<右の一首は清江娘子(すみのえのをとめ)、長皇子(ながのみこ)に進(たてまつ)る   姓氏未詳>である。

(注)清江娘子:住吉の遊行女婦と思われる。

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その794-2)」で紹介している。

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■長皇子 1-73■

題詞は、「長皇子御歌<長皇子(ながのみこ)御歌>である。

 

◆吾妹子乎 早見濱風 倭有 吾松椿 不吹有勿勤

       (長皇子 巻一 七三)

 

≪書き下し≫我妹子(わぎもこ)を早見(はやみ)浜風(はまかぜ)大和なる我れ松椿(まつつばき)吹かざるなゆめ    

 

(訳)我がいとしき子を早く見たいと思う、その名の早見浜風よ、大和で私を待っている松や椿、そいつを吹き忘れるでないぞ。けっして。(同上)

(注)早見浜風:早見の地を吹く浜風よ。「早見」に早く見たいの意を懸ける。(伊藤脚注)

(注)松:待つ妻の意を懸けている。(伊藤脚注)

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その2552)」で紹介している。

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 「古代史で楽しむ 万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫)には、持統の行幸にまつわるエピソードや行幸従駕の歌が紹介されている。

 「・・・女帝は、各地に行幸の足をのばした。・・・持統は東国に車駕(しゃが)を進めている、早くから中央の天皇王権と交渉のあった西国とくらべて、これも注目すべきことだ。まず持統は藤原京にうつる以前、六年三月に伊勢に行幸した。六日から二十日までの十日あまりの旅行だったが、伊賀・伊勢・志摩の三国をまわってきた。・・・持統自身の好みもあると思われる。また多年の安穏な政情から生じたゆとりもある。と同時にこの行幸先で、持統が免税、恩赦、賜物、慰労等をなしているのによれば、おりしも並行中の藤原宮造営をにらみ合わせた権威の誇示が、ひそかな自己満足と絡み合っていたのではないか。そして伊勢は壬申の思い出の土地でもある。二十三年前の亡夫との苦難への追憶が、年老いた女帝の胸中にはあったであろう。追憶は吉野において、もっとも感動的であったにちがいない。持統はすべてで三十一回も吉野行幸をかさねているのである。持統は最晩年、大宝二年に大がかりな統合巡幸の旅にのぼり、三河まで車駕を進めているが、これら吉野と東国という土地は、またしても天武への思慕とその遺業の継承という持統の世界にふさわしいものであった。・・・行幸の結果は多くのはなやかな詩歌を生むこととなった。右にあげた持統六年の伊勢行幸では石上(いそのかみ)麻呂が高見山(去来見(いざみ)山)の歌(巻一、四四)を作っているし、大宝二年の三河行幸では長意吉(ながのおき)(奥)麻呂の有名な巻一、五七(歌は省略)がよまれ・・・高市黒人(たけちのくろひと)の巻一、五八(歌は省略)などが生れている。・・・また持統四年九月には紀伊にも行幸したが、そのおりの、巻一、三四(歌は省略)という一首は、川島皇子の作とも山上憶良の作とも伝えていて、おそらくは川島に献じた憶良の作であろうと思われるが、ここに憶良がはじめて登場する。・・・人麻呂のほかに憶良も行幸に加わっていることが、文学の流れの上できわめて興味ぶかい。行幸従駕の作は、旅という立場がそうさせるのだが、軽くはなやいだ歌を多く残した。その一端を担うものとして、各地にいた遊女と思われる女性が存在する。難波行幸のおり、その地の清江娘子(すみのえのおとめ)は長皇子に、巻一、六九(歌は省略)という一首を献(たてまつ)っている。・・・当の長皇子も巻一、七二(歌は省略)という一首を歌っている。・・・行幸従駕の歌の一面には、こんな都の妻との別れがある。軽い諧謔、大和への郷愁、妻との離別、遊女とのやりとり、これが異なった土地の風物の発見とともに、はなやいだ行幸の官人群の間で歌われ、いっそう行幸を華麗なものとした。女帝持統の一行は多くの女官を伴っていたらしく、その優美な姿をよんだ人麻呂の歌もある。これらは、持統の心底の情いかんにかかわらず、やや倦(う)んだ風雅となってこの時代の歌をいろどったのである。」(同著)

 

 

 

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「古代史で楽しむ 万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク 日本大百科全書<ニッポニカ>」

★「広辞苑無料検索 日本国語大辞典