万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉集の世界に飛び込もう(その2567)―書籍掲載歌を中軸に―

●歌は、「やすみしし 我ご大君 高照らす 日の皇子 荒栲の 藤井が原に 大御門 始めたまひて 埴安の 堤の上に あり立たし 見したまへば ・・・(作者未詳 1-52)」である。

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1788)」で「天の香具山」、「香具山」と詠まれた歌は十三首とともに紹介している。

 

●「同(その1788)」で紹介している歌碑は、橿原市明日香村 紀寺跡(明日香庭球場)にある。

橿原市明日香村 紀寺跡(明日香庭球場)万葉歌碑(作者未詳 巻七 一〇九六) 20221001撮影

●巻一 五二歌をみていこう。

 

題詞は、「藤原宮御井歌」<藤原の宮の御井(みゐ)に歌>である。

 

◆八隅知之 和期大王 高照 日之皇子 麁妙乃 藤井我原尓 大御門 始賜而 埴安乃 堤上尓 在立之 見之賜者 日本乃 青香具山者 日經乃 大御門尓 春山跡 之美佐備立有 畝火乃 此美豆山者 日緯能 大御門尓 弥豆山跡 山佐備伊座 耳為之 青菅山者 背友乃 大御門尓 宣名倍 神佐備立有 名細 吉野乃山者 影友乃 大御門従 雲居尓曽 遠久有家留 高知也 天之御蔭 天知也 日之御影乃 水許曽婆 常尓有米 御井之清水

       (作者未詳 巻一 五二)

 

≪書き下し≫やすみしし 我ご大君 高照らす 日の皇子 荒栲の 藤井が原に 大御門 始めたまひて 埴安の 堤の上に あり立たし 見したまへば 大和の 青香具山は 日の経の 大御門に 春山と 茂みさび立てり 畝傍の この瑞山は 日の緯の 大御門に 瑞山と 山さびいます 耳成の 青菅山は 背面の 大御門に よろしなへ 神さび立てり 名ぐはし 吉野の山は かげともの 大御門ゆ 雲居にぞ 遠くありける 高知るや 天の御蔭 天知るや 日の御蔭の 水こそば とこしへにあらめ 御井のま清水

 

(訳)あまねく天の下を支配せられるわが大君、高々と天上を照らしたまう日の神の皇子、われらの天皇(すめらみこと)が藤井が原のこの地に大宮(おおみや)をお造りになって、埴安の池の堤の上にしっかと出で立ってご覧になると、ここ大和の青々とした香具山は、東面(ひがしおもて)の大御門(おおみかど)にいかにも春山(はるやま)らしく茂り立っている。畝傍のこの瑞々(みずみず)しい山は、西面(にしおもて)の大御門にいかにも瑞山(みずやま)らしく鎮まり立っている。耳成の青菅(あおすが)茂る清々(すがすが)しい山は、北面(きたおもて)の大御門にふさわしく神さび立っている。名も妙なる吉野の山は、南面(みなみおもて)の大御門からはるか向こう、雲の彼方(かなた)に連なっている。佳山々に守られた、高く聳え立つ御殿、天(あめ)いっぱいに広がり立つ御殿、この大宮の水こそは、とこしえに湧き立つことであろう。ああ御井(みい)の真清水は。(同上)

(注)御井:聖泉。土地の命の根源。(伊藤脚注)

(注)藤井が原:藤の茂る井のある原。題詞の「藤原」に同じ。(伊藤脚注)

(注)埴安の(池):香具山の麓にあった池。(伊藤脚注)

(注)ありたつ【あり立つ】自動詞:①いつも立っている。ずっと立ち続ける。②繰り返し出かける。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)ここでは①の意

(注)よろしなへ【宜しなへ】副詞:ようすがよくて。好ましく。ふさわしく。 ※上代語。(学研)

(注)たかしる 高知る】他動詞:①立派に造り営む。立派に建てる。②立派に治める。 ※「たか」はほめことば、「しる」は思うままに取りしきる意。(学研)ここでは①の意

 

 巻一 五二歌については、上述のとおり、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1788)」で「天の香具山」、「香具山」と詠まれた歌は十三首とともに紹介している。

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 「古代史で楽しむ 万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫)を読み進んでいこう。大化の改新壬申の乱の大きな歴史の渦がおさまり、白鳥の水かきののごとく水面下では暗闘があるも、世の中を安泰に向けてもがいている持統天皇の姿があった。

 同著によると、「持統の治世は何がなし物さびしい死のけはいがたちこめていると、わたしにはそんな風に思えてならない。あれほどまでに保ってきた草壁の未来の帝王の座もむなしく、天武崩御の哀韻のうちに草壁の死をむかえたことが、そう思わせるのか。持統はその七年後に、ついで立てた太政大臣高市皇子の死もむかえる。そしてこの時期の書紀に特筆されるのは、『壬申の年の功臣』の死である。それでいて持統は、なおその上に前進の姿勢を失っていない。ひとり、天武の影をしたい、その遺業を継ぎ、次代を安泰においた上で息を引きとっていく。その悲壮さがまたきびしくもさびしい持統朝を印象せしめる。」と書かれている。

 皇太子草壁は「持統三年四月十三日についに薨(こう)ずる。持統の悲嘆は察するにかたくない。しかしその悲嘆に屈することなく翌年には正式にみずからが天位を践(ふ)む。わが万葉の大歌人柿本人麻呂がはじめて姿を見せるのはこの草壁の死においてである。人麻呂は以来持統の死まで作歌活動をつづけるのだから、この草壁の死・持統の即位は、万葉集にとってまことに意義の深いできごとであった。」(同著)

 さらに、「万葉集に載せる『藤原の御井(みい)の歌』は、いま作者を忘れたまま、清らかに美しい新宮のさまをこう伝えている。巻一、五二(歌は省略)。しかしこのように壮大な都城であればあるほど、工事に駆り立てられた農民の辛苦ははんはだしいものがあったにちがいない。万葉集はその都城建設の力役に奉仕する民衆をみて作った歌(巻一、五〇)も載せている。・・・四年の歳月の労苦を髣髴(ほうふつ)とさせるではないか。しかもそれが『日の皇子』の神たる行為において賛(たた)えられているのは重大なことだ。天武以来の、天皇すなわち神という信念の中に、王者の権威によって壮大な都城は完成した。その陰にある民衆の疲弊は、つぎの八世紀をむかえるとともにますますひどくなるのだが、その最初の姿をここにみることができる。そしてこれら民衆の姿をとらえるのも、文学たる万葉集の特性であった。」と書かれている。

 

 力役に奉仕する民衆をみて作った歌(巻一、五〇)については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その246改)」で紹介している。

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(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「古代史で楽しむ 万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」