万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉集の世界に飛び込もう(その2593の2)―書籍掲載歌を中軸に―

●歌は、「新しき年の初めの初春の今日降る雪のいやしけ吉事(大伴家持 20-4516)」である。

 「古代史で楽しむ 万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫)の「奈良麻呂の変」の続きを読み進もう。

 天平勝宝九歳(七五七)三月、孝謙天皇は、聖武天皇の遺詔によって立てられた道祖王(ふなどのおほきみ)を廃し、同四月、仲麻呂と縁のある大炊王(おおいのおおきみ)を皇太子とした。仲麻呂の筋書きであるのは明らかである。「勝宝元年の仲麻呂の破格の昇進以来の彼への妬みは、この強引な皇太子決定を契機として人々の心についに爆発した。この専横をもっとも憤(いきどお)ったのは、諸兄のこ、時の参議橘奈良麻呂であった。・・・彼は『大伴・佐伯』の軍事力をもって仲麻呂を倒そうとはかったのである。しかし仲麻呂の恐怖政治に刃向かうにしては、いかにも周到さが欠け・・・このクーデターは失敗に終わった。・・・これに対し仲麻呂側の弾圧は峻厳(しゅんげん)をきわめた。・・・この事件で処刑されたものはすべてで四百四十三人であったと続紀ではいっている。・・・藤原対皇親・大伴という対立は、家持の死までつきまとった運命で、その点からも奈良麻呂の変は大伴にとっての最大の危機でもあった。奈良麻呂自身『佐伯・大伴』の力を頼りとしたし、家持は個人的にも奈良麻呂としたしかった。しかしここでは家持は慎重に身を処して禍(わざわい)が及ぶのを避けた。・・・奈良麻呂の乱後の処分を終えた仲麻呂は翌八月に改元、年号を宝字と改めて、その一年後、宝字二年の八月に孝謙は位を大炊王に譲る。淳仁(じゅんにん)である。しかしのちに廃帝として淡路に流され、孝謙重祚(ちょうそ)して称徳(しょうとく)となるのも、すべて仲麻呂によってである。翌三年の太政官・・・にはついにひとりの大伴をみることができない。・・・連綿として続いた大伴の座は、ついにここに失われた。時に家持は雪深い因幡(いなば)に国司として遠ざけられていた。その国の役所で雪を見ながら、(巻二〇、四五一六)(歌は省略)という、万葉集の最後の一首・・・を詠んだ。」(同著)

宝字三年(七五九)である。「この万葉集の運命を暗示するかのように、ふたたび大伴が太政官に返り咲くのは、十七年間の空白の後、宝亀六年(七七五)、参議駿河麻呂(するがまろ)に就任である。」(同著)

 

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感想(3件)

 万葉集最後の一首をみてみよう。

 

■巻二〇、四五一六歌■

 題詞は、「三年春正月一日於因幡國廳賜饗國郡司等之宴歌一首」<三年の春の正月の一日に、因幡(いなば)の国(くに)の庁(ちやう)にして、饗(あへ)を国郡の司等(つかさらに)賜ふ宴の歌一首>である。

(注)三年:天平宝字三年(759年)。

(注)庁:鳥取県鳥取市にあった。(伊藤脚注)

(注)あへ【饗】:国守は、元日に国司・郡司と朝拝し、その賀を受け饗を賜うのが習い。(伊藤脚注)

(注の注)あへ【饗】名詞※「す」が付いて自動詞(サ行変格活用)になる:食事のもてなし。(学研)

 

◆新 年乃始乃 波都波流能 家布敷流由伎能 伊夜之家餘其騰

       (大伴家持 巻二十 四五一六)

 

≪書き下し≫新(あらた)しき年の初めの初春(はつはる)の今日(けふ)降る雪のいやしけ吉事(よごと)

 

(訳)新しき年の初めの初春、先駆けての春の今日この日に降る雪の、いよいよ積もりに積もれ、佳(よ)き事よ。(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)上四句は実景の序。「いやしけ」を起す。正月の大雪は豊年の瑞兆とされた。(伊藤脚注)

(注)よごと【善事・吉事】名詞:よい事。めでたい事。(学研)

 

左注は、「右一首守大伴宿祢家持作之」<右の一首は、守(かみ)大伴宿禰家持作る>である。

 

この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1953)」で鳥取市国府町庁 史跡「万葉の歌碑」の歌碑とともに紹介している。

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tom101010.hatenablog.com

 

 

 

鳥取市国府町庁 史跡「万葉の歌碑」の歌碑(大伴家持 20-4516) 20221108撮影



 

 

 

 「第一等の権勢を手にした者のいかにも誇らかな歌・・・『いざ子ども』は目下の者、部下たちなどに親しく呼びかける語で、肆宴の場でいかにも仲麻呂の思い上がったことば」(「別冊國文學 万葉集必携」 稲岡耕二 編 學燈社)で詠われた仲麻呂の歌と大炊王(後の淳仁天皇)の歌もみてみよう。

 

■■巻二十 四四八六ならびに四四八七歌■■

題詞は、「天平寶字元年十一月十八日於内裏肆宴歌二首」<天平宝字(てんびやうほじ)元年の十一月の十八日に、内裏(うち)にして肆宴(とよのあかり)したまふ歌二首>である。

 

■巻二十 四四八六歌■

◆天地乎 弖良須日月乃 極奈久 阿流倍伎母能乎 奈尓乎加於毛波牟

       (大炊王 巻二十 四四八六)

 

≪書き下し≫天地(あめつち)を照らす日月(ひつき)のきはみなくあるべきものを何(なに)をか思はむ

 

(訳)天地(あめつち)を照らす日月(にちげつ)、この日月と同じに、天皇の御代は果てしもなく続くものなのだ。なのに、何を思い煩うことがあろうぞ。(同上)

(注)きはみ【極み】名詞:(時間や空間の)極まるところ。極限。果て。(学研)

 

左注は、「右一首皇太子御歌」<右の一首は、皇太子の御歌>である。

(注)皇太子:舎人皇子の子、大炊王(おおいのおおきみ)。この年の四月四日に立太子。後の淳仁天皇

 

 

■巻二十 四四八七歌■

◆伊射子等毛 多波和射奈世曽 天地能 加多米之久尓曽 夜麻登之麻祢波

       (藤原仲麻呂 巻二十 四四八七)

 

≪書き下し≫いざ子どもたはわざなせそ天地(あめつち)の堅(かた)めし国ぞ大和島根(やまとしまね)は

 

(訳)皆々の者よ、狂(たわ)けた振舞いだけはして下さるな。天地の神々が造り固めた国なのだ。この大和島根は。(同上)

(注)こども【子供・子等】名詞:①(幼い)子供たち。▽自分の子にも、他人の子にもいう。②(自分より)若い人たちや、目下の者たちに、親しみをこめて呼びかける語。 ⇒参考 「ども」は複数を表す接尾語。現代語の「子供」は単数を表すが、中世以前に単数を表す例はほとんど見られない。(学研) ここでは②の意

(注の注)たはる【戯る・狂る】自動詞:①みだらな行為をする。色恋におぼれる。②ふざける。たわむれる。③くだけた態度をとる。(学研)

(注)たはわざ:橘奈良麻呂の反乱を背景にして言った語。(伊藤脚注)

(注の注)やまとしまね【大和島根】名詞:①「やまとしま」に同じ。②日本国の別名。(学研)

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その2302)」で、奈良麻呂の変前後の歌とともに紹介している。

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 奈良麻呂の変は、家持と池主の路線の違いという悲劇を生んでいる。大伴池主については、家持と幼馴染で、歌のやり取りも頻繁に行い万葉集にも数多く収録されているが、池主の名前はこれ以降万葉集から消え、さらに池主は奈良麻呂の変に連座し歴史からも名を消したのである。

天平勝宝八年(756年)十一月二十三日に、式部少丞(しきぶのせうじよう)大伴宿禰池主が宅(いへ)に集(つど)ひ飲宴(うたげ)をしているのである。この集いに誰が参加したのかは不明であるが、反仲麻呂の話題が出ないはずはない。しかし、家持の歌どころか池主の歌も収録されていないのである。

 

 この「集ひ」の歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1078)」で紹介している。

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(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「古代史で楽しむ 万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫

★「別冊國文學 万葉集必携」 稲岡耕二 編 學燈社

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」