「古代史で楽しむ 万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫)の「十 みやびの抒情」の「平城の日々」を読み進もう。
「・・・天平貴族たちは生活の中から陰翳(いんえい)ある抒情をみちびき出して歌った。しかもそれは一つの風流(みやび)の態度としてでもあった。彼らは内裏周辺の閑雅な邸宅に住んだ。大伴の邸(やしき)は佐保(さほ)にあったし、今の法華(ほっけ)寺・海竜王(かいりゅうおう)寺のあたりは、不比等の邸宅であった。だから佐保・佐紀(さき)の一帯はこれら大貴族の生活の中の風土であり、また佐紀の離宮もあった。一方東の方春日(かすが)・高円(たかまと)のあたりも貴族たちが足をのばした遊覧・遊猟の地であり、高円の離宮でもたびしげく宴をもよおしたらしい。志貴皇子の邸あとは、いまの白毫寺(びやくごうじ)だといわれる。これらの風土は彼らの情緒の中に生かされ、天平万葉を彩った。」(同著)
古代史で楽しむ万葉集 (角川ソフィア文庫) [ 中西 進 ] 価格:836円 |
高円の野に登り作った歌は、四一九五~四一九七として収録されている。これをみてみよう。
■■巻二十 四二九五~四二九七歌■■
四二九五から四二九七歌の題詞は、「天平勝寶五年八月十二日二三大夫等各提壷酒 登高圓野聊述所心作歌三首」<天平勝宝五年の八月の十二日に、二三(ふたりみたり)の大夫等(まへつきみたち)、おのもおのも壺酒(こしゅ)を提(と)りて高円(たかまと)の野(の)に登り、いささかに所心(おもひ)を述べて作る歌三首>である。
(注)高円の野:奈良の高円山山麓の野。官人たちの有楽地。(伊藤脚注)
■巻二十 四二九五歌■
◆多可麻刀能 乎婆奈布伎故酒 秋風尓 比毛等伎安氣奈 多太奈良受等母
(大伴池主 巻二十 四二九五)
≪書き下し≫高円の尾花(をばな)吹き越す秋風に紐(ひも)解き開けな直ならずとも
(訳)高円の野のすすきの穂を靡かせて吹きわたる秋風、その秋風に、さあ着物の紐を解き放ってくつろごうではありませんか。いい人にじかに逢(あ)うのではなくても。(同上)
(注)直ならずとも:直接恋人にあうのではなくても。(伊藤脚注)
左注は、「右一首左京少進大伴宿祢池主」<右の一首は左京少進(さきやうのせうしん)大伴宿禰池主
(注)左京少進:左京職の三等官。正七位上相当。七月頃、越前から帰任していたらしい。この宴は池主歓迎を兼ねているのか。(伊藤脚注)
■巻二十 四二九六歌■
◆安麻久母尓 可里曽奈久奈流 多加麻刀能 波疑乃之多婆波 毛美知安倍牟可聞
(中臣清麻呂 巻二十 四二九六)
≪書き下し≫天雲(あまくも)に雁(かり)ぞ鳴くなる高円の萩(はぎ)の下葉(したば)はもみちあへむかも
(訳)天雲の彼方にもう雁が来て鳴いている。ここ高円の萩の下葉は色付きおおせることであろうか。(同上)
(注)もみちあへむ:雁の声に感じて萩が色づくとみた。(伊藤脚注)
左注は、「右一首左中辨中臣清麻呂朝臣」<右の一首は左中弁(さちゆべん)中臣清麻呂朝臣(なかとみのきよまろのあそみ)>である。
(注)左中弁:太政官所属の左弁官局の次官。この時は尾張守で、翌年に左中弁。
■巻二十 四二九七歌■
◆乎美奈弊之 安伎波疑之努藝 左乎之可能 都由和氣奈加牟 多加麻刀能野曽
(大伴家持 巻二十 四二九七)
≪書き下し≫をみなへし秋萩しのぎさを鹿(しか)の露別(わ)け鳴かむ高円の野ぞ
(訳)おみなえしや秋萩を踏みしだき、雄鹿がしとどに置く露を押し分け押し分け、やがて鳴き立てることであろう、この高円の野は。(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)さを鹿:前歌の「萩」の縁で「鹿」を持ち出し、新たに「をみなへし」を添えつつ、高円の野の秋の深まりを思う。結び。(伊藤脚注)
四二九五~四二九七歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1443)」で紹介している。
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「政争の激しい当世に、気心合った者同士が聖武天皇の佳き時代を偲んだ」(伊藤脚注)四五〇六~四五一〇歌をみてみよう。
■■巻二十 四五〇六~四五一〇歌■■
題詞「依興各思高圓離宮處作歌五首」<興に依りて、おのもおのも高円(たかまと)の離宮処(とつみやところ)を思ひて作る歌五首>をみてみよう。
(注)思ひて作る歌:清麻呂邸で思う意だが、現場に臨んだ形で歌っている。(伊藤脚注)
■巻二十 四五〇六歌■
◆多加麻刀能 努乃宇倍能美也波 安礼尓家里 多々志々伎美能 美与等保曽氣婆
(大伴家持 巻二十 四五〇六)
≪書き下し≫高円(たかまと)の野の上(うへ)の宮は荒れにけり立たしし君の御代(みよ)還(とほ)そけば
(訳)高円の野の上の宮はすっかり人気なくなってしまった。ここにお立ちになった大君の御代が、遠のいて行くので。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)
■巻二十 四五〇七歌■
◆多加麻刀能 乎能宇倍乃美也波 安礼奴等母 多々志々伎美能 美奈和須礼米也
(大原今城真人 巻二十 四五〇七)
≪書き下し≫高円の峰(を)の上(うへ)の宮は荒れぬとも立たしし君の御名(みな)忘れめや
(訳)高円の尾根の上の宮は、たとえどんなに人気なくなってしまおうとも、ここにお立ちになった大君の、その御名を忘れることなど誰もないであろう。(同上)
(注)君の御名忘れめや:前歌の上四句を承けながら永遠の思慕を歌う。(伊藤脚注)
■巻二十 四五〇八歌■
◆多可麻刀能 努敝波布久受乃 須恵都比尓 知与尓和須礼牟 和我於保伎美加母
(中臣清麻呂 巻二十 四五〇八)
≪書き下し≫高円(たかまと)の野辺(のへ)延(は)ふ葛(くず)の末(すゑ)つひに千代(ちよ)に忘れむ我が大君(おほきみ)かも
(訳)高円の野辺に這い広がる葛、その葛のどこまでも延び続ける蔓(つる)の末ではないが、末ついに、ああ、千代の末には忘れてしまう、そんなわれらの大君であろうか・・・。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)
(注)上二句は序。「末」を起しつつ、下二句の永遠の思慕にかかわる。(伊藤脚注)
■巻二十 四五〇九歌■
◆波布久受能 多要受之努波牟 於保吉美乃 賣之思野邊尓波 之米由布倍之母
(大伴家持 巻二十 四五〇九)
≪書き下し≫延ふ葛(くず)の絶えず偲はむ大君の見(め)しし野辺(のへ)には標(しめ)結(ゆ)ふべしも
(訳)這い広がる葛のように絶えることなく、お慕いしてゆこう。われらの大君の親しくご覧になったこの野辺には、標縄を張っておくべきだ。(同上)
■巻二十 四五一〇歌■
◆於保吉美乃 都藝弖賣須良之 多加麻刀能 努敝美流其等尓 祢能未之奈加由
(甘南備伊香真人 巻二十 四五一〇)
≪書き下し≫大君(おほきみ)の継(つ)ぎて見(め)すらし高円(たかまと)の野辺(のへ)見るごとに音(ね)のみし泣かゆ
(訳)大君が今も続けてご覧になっているにちがいない、この高円の野辺を見るたびに、声も抑えきれず泣けてきてならない。(同上)
四五〇六・四五〇九歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1086)」で紹介している。
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四五〇八歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その2544)」で紹介している。
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四五一〇歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1226)」で紹介している。
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(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「古代史で楽しむ 万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」