万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉集の世界に飛び込もう(その2594の3)―書籍掲載歌を中軸に―

●歌は、「春雨のしくしく降るに高円の山の桜はいかにかあるらむ(河辺東人 8-1440)」、「藤波の花は盛りになりにけり奈良の都を思ほすや君(大伴四綱 3-330)」。「雉鳴く高円の辺に桜花散りて流らふ見む人もがも(作者未詳 10-1866)」、「今朝の朝明雁が音を聞きつ春日山もみちにだけらし我が心いたし。(穂積皇子 8-1513)」、「春日山おして照らせるこの月は妹が庭にもさやけくありけり(作者未詳 7-1074)」である。

 

 「古代史で楽しむ 万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫)を読み進もう。

 「・・・高円に桜が咲き春雨に濡(ぬ)れそぼつ姿を河辺東人(かわべのあずまひと)は心もとながり(巻八、一四四〇)、佐保にきまって咲く藤浪(ふじなみ)は大宰府にあった大伴四縄(よつな)を望郷の思いにかり立てている(巻三、三三〇)。やがてそこに聞くのはほととぎすの声であり、見るものは雪にもまごう卯(う)の花である。そのころにはすでに桜は落花の風情をしめす。(巻一〇、一八六六)(歌は省略)・・・そして夏が過ぎていくことを、彼らは空の雁(かり)や山のもみじに、敏感に感じとって歌う。(巻八、一五一三)(歌は省略)これは穂積皇子の一首である。・・・悲痛な恋をした穂積にとって、秋の到来は、過去をうずかせるものであったかもしれない。うつろいの形に恋のはかなさをかんじとったのか。恋と自然は、(巻七、一〇七四)(歌は省略)のなかにも息づいているように思う。・・・秋月の中の女人を作者は恋しているのである。おそらく、このような都の自然は、天平貴族の優雅な感情にとって、魂の源郷といってもよいだろう。」(同著)

古代史で楽しむ万葉集 (角川ソフィア文庫) [ 中西 進 ]

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感想(3件)

 

●歌をみていこう。

 

■巻八 一四四〇歌■

◆春雨乃 敷布零尓 高圓 山能櫻者 何如有良武

        (河辺東人 巻八 一四四〇)

 

≪書き下し≫春雨(はるさめ)のしくしく振るに高円の山の桜はいかにかあるらむ

 

(訳)春雨がしきりに降り続いている今頃、高円山の桜はどのようになっているのであろう。もう咲き出したであろうかな。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)春雨のしくしく降るに:春雨が降り続ける今頃。春雨を開花を促すものとみている。(伊藤脚注)

(注の注)しくしく【頻く頻く】[副]:《動詞「し(頻)く」を重ねたものから》絶え間なく。しきりに。(weblio辞書 デジタル大辞泉

(注)高円の山:奈良市東方、春日山の南の山。(伊藤脚注)

 

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その89改)」で紹介している。

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tom101010.hatenablog.com

 

 

 

奈良市登美ヶ丘 松伯美術館万葉歌碑(河辺東人 8-1440) 20190526撮影 

 

 

 

■巻三 三三〇歌■

三二九、三三〇歌の題詞は、「防人司佑大伴四綱歌二首」<防人司佑(さきもりのつかさのすけ)大伴四綱(おほとものよつな)が歌二首>である。

 

◆藤浪之 花者盛尓 成来 平城京乎 御念八君

       (大伴四綱 巻三 三三〇)

 

≪書き下し≫藤波(ふぢなみ)の花は盛りになりにけり奈良の都を思ほすや君

 

(訳)ここ大宰府では、藤の花が真っ盛りになりました。奈良の都、あの都を懐かしく思われますか、あなたさまも。(同上)

(注)「思ほすや君」:大伴旅人への問いかけ。(伊藤脚注)

 

 

この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その2003)」で紹介している。

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高知県大豊町粟生 土佐豊永万葉植物園万葉歌碑(大伴四綱 3-330) 20221130撮影

 

 

 

■巻一〇 一八六六歌■

◆春▼鳴 高圓邊丹 櫻花 散流歴 見人毛我母

        (作者未詳 巻十 一八六六)

※▼は「矢に鳥」である。「春▼」で「きざし」と読んでいる。

 

≪書き下し≫雉(きざし)鳴く高円(たかまと)の辺(へ)に桜花散りて流らふ見む人もがも

 

(訳)雉(きじ)が鳴く高円の山のあたりに、桜花が、吹く風に散っては流れている。誰か一緒に見る人があればよいのにな。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)もがも 終助詞:《接続》体言、形容詞・断定の助動詞の連用形などに付く。〔願望〕…があったらなあ。…があればいいなあ。 ※上代語。終助詞「もが」に終助詞「も」が付いて一語化したもの。(学研)

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その524)」で紹介している。

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tom101010.hatenablog.com

 

 

 

 

奈良市法蓮佐保山 万葉の苑万葉歌碑(プレート)(作者未詳 10‐1866) 20200513撮影

 

 

 

■巻八 一五一三歌■

題詞は、「穂積皇子御歌二首」<穂積皇子(ほづみのみこ)の御歌二首>である。

 

◆今朝之旦開 鴈之鳴聞都 春日山 黄葉家良思 吾情痛之

       (穂積皇子 巻八 一五一三)

 

≪書き下し≫今朝(けさ)の朝明(あさけ)雁(かり)が音(ね)聞きつ春日山(かすがやま)もみちにけらし我(あ)が心痛し

 

(訳)今朝の明け方、雁の声を聞いた。この分では春日山はもみじしてきたにちがいない。つけても私の心は痛む。(同上)

(注)もみちにけらし:もみじしたにちがいない。「もみち」は動詞「もみつ」の連用形。(伊藤脚注)

 

 

 一五一四歌もみておこう。

 

◆秋芽者 可咲有良之 吾屋戸之 淺茅之花乃 散去見者

       (穂積皇子 巻八 一五一四)

 

≪書き下し≫秋萩(あきはぎ)は咲くべくあらし我がやどの浅茅(あさぢ)が花の散りゆく見れば

 

(訳)萩の花は今にも咲きそうになっているにちがいない。我が家の庭の浅茅の花が散ってゆくのを見ると。(同上)

(注)あらし 分類連語:あるらしい。あるにちがいない。 ⇒なりたち:ラ変動詞「あり」の連体形+推量の助動詞「らし」からなる「あるらし」が変化した形。ラ変動詞「あり」が形容詞化した形とする説もある。(学研)

 

 

 

 

■巻七 一〇七四歌■

春日山 押而照有 此月者 妹之庭母 清有家里

     (作者未詳 巻七 一〇七四)

 

≪書き下し≫春日山(かすがやま)おして照らせるこの月は妹(いも)が庭にもさやけくありけり 

 

(訳)春日山一帯をあまねく照らしているこの月は、いとしいあの子の家の庭にもさわやかに照り輝いていました。(同上)

(注)おして照らせる:あまねく照らしている。(伊藤脚注)

(注)さやけし【清けし・明けし】形容詞:①明るい。明るくてすがすがしい。清い。②すがすがしい。きよく澄んでいる。 ⇒参考:「さやけし」と「きよし」の違い 「さやけし」は、「光・音などが澄んでいて、また明るくて、すがすがしいようす」を表し、「きよし」も同様の意味を表すが、「さやけし」は対象から受ける感じ、「きよし」は対象そのもののようすをいうことが多い。(学研)ここでは①の意

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「古代史で楽しむ 万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 デジタル大辞泉