●歌は、「今日もかも都なりせば見まく欲り西の御馬屋の外に立てらまし(中臣宅守 15-3776)」、「父君に 我れは愛子ぞ 母刀自に 我れは愛子ぞ 参ゐ上る 八十氏人の 手向する 畏の坂に 弊奉り 我れはぞ追へる 遠き土佐道を( 作者未詳 6-1022)」である。
「古代史で楽しむ 万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫)の「恋の真実」を読み進んでいこう。
「・・・みやびは自然にのみあったわけではない。人事、なかんずく恋はみやびの絶好の素材だった。・・・恋において人間の輝きを見いだしたことは、天平貴族の皮肉な運命であった。数多くあったであろう恋歌の中で、万葉集が六十三首の大歌群を収めているのは、中臣宅守(なかとみのやかもり)と狭野茅上娘子(さののちがみのおとめ)との恋である。天平十一年(七三九)ごろ、二人が許されぬ恋におちて、宅守は越前に流された。・・・二人は交互に贈答を交わしながら次第に都と越前へと距離を広げていくが、その心理の過程が巧みな流れをもって形成されていて、たくまずして描き上げた愛の私小説ともいえる。そして配所の宅守が到達した境地のひとつは、(巻一五、三七七六)(歌は省略)という都への断ちがたい物思いであった。かつての娘子と宮中の右馬寮(うまのつかさ)のほとりであっていたらしい、いつもそこへ心がかえる。しかもそれを『せば』という仮定の中で描かなければならないところに宅守の悲しみがあった。」(同著)
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三七七六歌をみてみよう。
■巻十五 三七七六歌■
◆家布毛可母 美也故奈里世婆 見麻久保里 尓之能御馬屋乃 刀尓多弖良麻之
(中臣宅守 巻十五 三七七六)
≪書き下し≫今日(けふ)もかも都なりせば見まく欲(ほ)り西の御馬屋(みまや)の外(と)に立てらまし
(訳)今日あたりでも、都にいるのだったら、逢いたくって、西の御馬屋の外に佇(たたず)んでいることだろうに。(同上)
(注)せば 分類連語:もし…だったら。もし…なら。 ⇒参考:多く、下に反実仮想の助動詞「まし」をともない、事実と反する事柄や実現しそうもないことを仮定し、その上で推量する意を表す。 ⇒注意:「せば」の形には、サ変の未然形「せ」+接続助詞「ば」の場合もある。 ⇒なりたち:過去の助動詞「き」の未然形+接続助詞「ば」(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
(注)みまく【見まく】分類連語:見るだろうこと。見ること。 ※上代語。 ⇒なりたち:動詞「みる」の未然形+推量の助動詞「む」の古い未然形「ま」+接尾語「く」(学研)
(注)ほる【欲る】他動詞:願い望む。欲する。ほしいと思う。 ⇒語法:ほとんど連用形の形で用いられる。(学研)
(注)みまや【御馬屋/御厩】:貴人を敬ってその厩(うまや)をいう語。(weblio辞書 デジタル大辞泉)
(注の注)西の御馬屋:宮中の右馬寮。二人はここでよく逢ったのであろう。(伊藤脚注)
ここは配流された味真野、都であったなら、いつものように君に逢いたくて西の御馬屋の外で待っているのに・・・何と悔やまれることか、どうして戻りたいのに戻れない、逢いたいのに逢えない、過去の現実と今の現実のギャップ、このもどかしさが「せば」に凝縮されている。
この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1691)」で紹介している。
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「同じ天平十、十一年ごろ、もうひとつの恋が都の人びとの心をうった。石上乙麻呂(いそのかみのおとまろ)とは左大臣麻呂の子、名望をになった俊才で、高貴な風貌の持ち主であった。のちに遣唐使という大任をも拝そうとしたほどの人材である。その乙麻呂が久米若売(くめのわかめ)と恋におちる。久米若売とは藤原宇合の妻で、夫の死後、なお喪(も)に服している時であった。・・・名門の貴公子と若き未亡人との恋、しかもその結果は乙麻呂の土佐配流となってみれば、都の人びとはいっそうの関心を彼らに抱いた。万葉集には三首の長歌と一首の反歌(巻六、一〇一九~一〇二三)をもって、物語ふうに土佐配流が歌われている。第一首が時の人の歌、第二首が若売、そして第三首が乙麻呂自身というように。全体稚拙な物言いで巷間(こうかん)の無名の作者を思わせるが、それほどに滲透(しんとう)するまで、人びとの同情を得たのである。・・・権謀術数にとりまかれた天平の人々にとって、恋にしか真実の世界がなかったことが、このように恋を切なくしたのだろう。そして彼らはその切なさへの共感の中に己れを忘れさせることができた。」(同著)
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巻六、一〇一九~一〇二三歌をみてみよう。
■■巻六 一〇一九~一〇二三歌■■
題詞は、「石上乙麻呂卿配土左國之時歌三首幷短歌」<石上乙麻呂卿(いそのかみのおとまろのまへつきみ)土佐の国(とさのくに)に配(なが)さゆる時の歌三首 幷せて短歌>である。
(注)石上乙麻呂:左大臣麻呂の第三子。天平十一年(七三九)三月、従四位下左大弁の時、藤原宇合の未亡人久米若売に通じた罪で土佐に配流、十三年許されて、天平勝宝二年(七五〇)九月、中納言従三位兼中務卿で没。(伊藤脚注)
(注)三首:乙麻呂の配流を都―紀伊―土佐の道順に従って物語風に仕立ててある。作者は不明だが、原文の用字は田辺福麻呂歌集に似る。(伊藤脚注)
■巻六 一〇一九歌■
◆石上 振乃尊者 弱女乃 或尓縁而 馬自物 縄取附 肉自物 弓笶圍而 王 命恐 天離 夷部尓退 古衣 又打山従 還来奴香聞
(作者未詳 巻六 一〇一九)
≪書き下し≫石上(いそのかみ) 布留(ふる)の命(みこと)は たわや女(め)の 惑(まど)ひによりて 馬じもの 綱(つな)取り付け 鹿(しし)じもの 弓矢囲(かく)みて 大君(おほきみ)の 命(みこと)畏(かしこ)み 天離(あまざか)る 鄙辺(ひなへ)に罷(まか)る 古衣(ふるころも) 真土山(まつちやま)より 帰り来(こ)ぬかも
(訳)石上布留の命は、たわやかな女子(おなご)の色香に迷ったために、まるで、馬であるかのように縄をかけられ、鹿であるかのように弓矢で囲まれて、大君のお咎(とが)めを恐れ畏んで遠い田舎に流されて行く。古衣をまた打つという真土山、その国境の山から、引き返して来ないものだろうか。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)
(注)いそのかみ【石の上】分類枕詞:今の奈良県天理市石上付近。ここに布留(ふる)の地が属して「石の上布留」と並べて呼ばれたことから、布留と同音の「古(ふ)る」「降る」などにかかる。(学研)
(注)石上乙麻呂であるから「石上布留の命」(石上布留の殿様)と詠い出し、見送る都人の気持ちで詠った形である。(伊藤脚注)
(注)うまじもの【馬じもの】副詞:(まるで)馬のように。(学研)
(注)ししじもの【鹿じもの・猪じもの】分類枕詞:鹿(しか)や猪(いのしし)のようにの意から「い這(は)ふ」「膝(ひざ)折り伏す」などにかかる。(学研)
(注)ふるごろも【古衣】〔「ふるころも」とも〕( 枕詞 ):古衣をまた打って柔らかくすることから、「また打つ」の類音の地名「まつちの山」にかかる。(weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版)
■巻六 一〇二〇/一〇二一歌■
※二〇二〇を国歌大観編者が一〇二〇・一〇二一の二首に誤って計算したことによる。(伊藤脚注)
◆王 命恐見 刺並 國尓出座 愛哉 吾背乃公矣 繋巻裳 湯ゝ石恐石 住吉乃 荒人神 船舳尓 牛吐賜 付賜将 嶋之埼前 依賜将 礒乃埼前 荒浪 風尓不令遇 莫管見 身疾不有 急 令變賜根 本國部尓
(作者未詳 巻六 一〇二〇/一〇二一)
≪書き下し≫大君(おほきみ)の 命(みこと)畏(かしこ)み さし並ぶ 国に出でます はしきやし 我(わ)が背の君(きみ)を かけまくも ゆゆし畏(かしこ)し 住吉(すみのえ)の 現人神(あらひとがみ) 船舳(ふなのへ)に うしはきたまひ 着きたまはむ 島の崎々(さきざき) 寄りたまはむ 磯の崎々 荒き波 風にあはせず 障(つつ)みなく 病(やまひ)あらせず 速(すむや)けく 帰(かへ)したまはね もとの国辺(くにへ)に
(訳)大君のお咎めを恐れ畏んで、隣り合わせ土佐の国にお出ましになるいとしいわが背の君、ああこの君を、御名(みな)を口にするもの恐れ多い住吉の現人神よ、君のみ船の舳先(へさき)に鎮座ましまし、着き給う島の崎々で、荒い波や風に遭わせないで、故障もなく、病気もさせずに、どうか一日も早くお帰し下さい。もとの国大和の方に。(同上)
(注)はしきやし【愛しきやし】分類連語:ああ、いとおしい。ああ、なつかしい。ああ、いたわしい。「はしきよし」「はしけやし」とも。 ※上代語。 ※参考:愛惜や追慕の気持ちをこめて感動詞的に用い、愛惜や悲哀の情を表す「ああ」「あわれ」の意となる場合もある。「はしきやし」「はしきよし」「はしけやし」のうち、「はしけやし」が最も古くから用いられている。 なりたち⇒形容詞「は(愛)し」の連体形+間投助詞「やし」(学研)
(注)かけまくも 分類連語:心にかけて思うことも。言葉に出して言うことも。 なりたち⇒動詞「か(懸)く」の未然形+推量の助動詞「む」の古い未然形「ま」+接尾語「く」+係助詞(学研)
(注)うしはく【領く】他動詞:支配する。領有する。 ※上代語。(学研)
■巻六 一〇二二歌■
◆父公尓 吾者真名子叙 妣刀自尓 吾者愛兒叙 参昇 八十氏人乃 手向為等 恐乃坂尓 幣奉 吾者叙追 遠杵土左道矣
(作者未詳 巻六 一〇二二)
≪書き下し≫父君(ちちぎみ)に 我(わ)れは愛子(まなご)ぞ 母(はは)刀自(とじ)に 我(わ)れは愛子ぞ 参(ま)ゐ上(のぼ)る 八十氏人(やそうぢひと)の 手向(たむけ)する 畏(かしこ)の坂に 弊(ぬさ)奉(まつ)り 我(わ)れはぞ追へる 遠き土佐道(とさぢ)を
(訳)父君にとって私はかけがえのない子だ。母君にとってわたしはかけがえのない子だ。なのに、都に上るもろもろの官人たちが、手向(たむ)けをしては越えて行く恐ろしい国境(くにざかい)の坂に、幣(ねさ)を捧(ささ)げて無事を祈りながら、私は一路進まなければならぬのだ。遠い土佐への道を。(同上)
(注)ははとじ【母刀自】名詞:母君。母上。▽母の尊敬語。(学研)
(注)畏の坂:恐ろしい神のいる国境の坂。(伊藤脚注)
■巻六 一〇二三歌■
◆大埼乃 神之小濱者 雖小 百船純毛 過迹云莫國
(作者未詳 巻六 一〇二三)
≪書き下し≫大崎(おほさき)の神の小浜(をばま)は狭(せば)けども百舟人(ももふなびと)も過ぐと言はなくに
(訳)ここ大崎の神の小浜は狭い浜ではあるけれど、どんな舟人も楽しんで、この港を素通りするとは言わないのに。(同上)
(注)大崎:和歌山県海南市下津町大崎。近世までここから四国に渡った。(伊藤脚注)
(注)百舟人:いかなる舟人も。以下、小浜を素通りしていかねばならぬ嘆き。(伊藤脚注)
この歌群については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その761)」で紹介している。
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(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「古代史で楽しむ 万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」