万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その620)―高砂市曽根 曽根天満宮―万葉集 巻十五 三六〇五

●歌は、「わたつみの海に出でたる飾磨川絶えむ日にこそ我が恋やまめ」である。

 

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高砂市曽根 曽根天満宮万葉歌碑(作者未詳)<写真右端>

●歌碑は、高砂市曽根 曽根天満宮にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆和多都美乃 宇美尓伊弖多流 思可麻河泊 多延無日尓許曽 安我故非夜麻米

               (作者未詳 巻十五 三六〇五)

 

≪書き下し≫わたつみの海に出(い)でたる飾磨川(しかまがは)絶えむ日にこそ我(あ)が恋(こひ)やまめ

 

(訳)海の神の統べたまう大海にぐいぐいと流れ出ている飾磨川、その果てもしない流れがもし絶える日があったなら、わたしの恋心もなくなるのであろうか・・・(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

(注)わたつみ【海神】名詞:①海の神。②海。海原。 ※参考「海(わた)つ霊(み)」の意。「つ」は「の」の意の上代の格助詞。後に「わだつみ」とも(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 三六〇二から三六一一歌までの十首の題詞は、「當所誦詠古歌」<所に当りて誦詠(しょうえい)する古歌>である。

(注)この題詞に関して、伊藤氏は、脚注で「難波津出航後から、備後と安芸の国の境長井の浦までの間で、旅愁を慰めるために誦われたという形」と書いておられる。

 

 巻十五は、遣新羅使人に関する歌群(三五七八~三七二二歌。一四五首)と、中臣宅守(なかとみのやかもり)・狭野弟上娘子(さののおとがみのおとめ)がとりかわした歌群(三七二三~三七八五歌。六三首)の二つの大きな歌群によって構成されている。

万葉集の他の巻とは趣を異なる構成となっている。

 ここでは、前者の歌群に関してみていこう。

 

 遣新羅使人に関する歌群は、ドキュメンタリー風で、次の三つの部分が、時間軸にそって構成されている。

 ①冒頭部(三五七八~三六一一歌)

 ②題詞に、経て行く土地や国名をあげて示していく部分(三六一二~三七一七歌) 

 ③帰路、播磨国家島で作った歌(三七一八~三七二二歌)

なお、③の帰路の歌については、拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その617)」で紹介している。

 

 さらに冒頭部は、ⓐ悲別贈答(三五七八~三五八八歌)ならびにこれに付随する(三五八九~三五九〇歌)、ⓑ海路慟情(三五九一~三六〇一歌)、©当所誦詠古歌(三六〇二~三六一一歌)の三部に分けられる。

 

 三六〇五歌は、「©当所誦詠古歌」の一首である。以外の「当所誦詠古歌」をみてみよう。

 

 

◆安乎尓余志 奈良能美夜古尓 多奈妣家流 安麻能之良久毛 見礼杼安可奴加

               (作者未詳 巻十五 三六〇二)

 

≪書き下し≫あをによし奈良の都にたなびける天(あま)の白雲(しらくも)見れど飽(あ)かぬかも

 

(訳)青土香る奈良の都にたなびいている天の白雲、この白雲は見ても見ても見飽きることがない。(同上)

 

左注は「右一首詠雲」<右の一首は、雲を詠(よ)む>である。

 

 

◆安乎楊疑能 延太伎里於呂之 湯種蒔 忌忌伎美尓 故非和多流香母

               (作者未詳 巻十五 三六〇三)

 

≪書き下し≫青柳(あをやぎ)の枝(えだ)伐(き)り下(お)ろしゆ種(だね)蒔(ま)きゆゆしき君に恋ひわたるかも

 

(訳)青柳の枝を伐り取り挿し木にして、斎(い)み浄めた種を蒔くそのゆゆしさのように、馴れ馴れしくできない君、そんなあなたさまに、焦がれつづけています。(同上)

(注)青柳の枝伐り下ろし:青柳の枝を伐って苗代にさして。苗の発育を祈る神事。

(注)ゆ種:斎み浄めた籾種。

(注)上三句は序。「ゆゆしき」を起こす。

 

 

◆妹我素弖 和可礼弖比左尓 奈里奴礼杼 比登比母伊毛乎 和須礼弖於毛倍也

                (作者未詳 巻十五 三六〇四)

 

≪書き下し≫妹(いも)が袖(そで)別れて久(ひさ)になりぬれど一日(ひとひ)も妹を忘れて思(おも)へや

 

(訳)わたしと交わしたいとしい人の袖、その袖と別れてずいぶん月日が経ったけれど、一日とてあの人をわすれることができない。(同上)

 

 左注は「右三首戀歌」<右の三首は恋の歌>である。

 

 

◆多麻藻可流 乎等女乎須疑弖 奈都久佐能 野嶋我左吉尓 伊保里須和礼波

         (<本歌:柿本人麻呂 巻三 二五〇> 巻十五 三六〇六)

 

≪書き下し≫玉藻(たまも)刈る処女(をとめ)を過ぎて夏草の野島(のしま)が崎(さき)に廬(いほ)りす我(わ)れは

 

(訳)玉藻を刈るおとめという、その処女(おとめ)の地なのに、そこを素通りして、夏草の生い茂る野島の崎で仮の宿りをしている、われらは。(同上)

(注)たまもかる【玉藻刈る】分類枕詞:玉藻を刈り採っている所の意で、海岸の地名「敏馬(みぬめ)」「辛荷(からに)」「乎等女(をとめ)」などに、また、海や水に関係のある「沖」「井堤(ゐで)」などにかかる。(学研)

(注)処女(をとめ):芦屋市から神戸市東部にかけての地。妻への連想をこめる。拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その562)」には、この地、神戸市東灘区 処女塚古墳にある歌碑「いにしへの信太壮士の妻どひし菟原娘子の奥つ城ぞこれ」(田辺福麻呂 巻九 一八〇二)を紹介している。

 

左注は、「柿本朝臣人麻呂歌曰 敏馬乎須疑弖 又日 布祢知可豆伎奴」<柿本朝臣人麻呂が歌には「敏馬(みぬめ)を過ぎて」といふ。また「船近(ちか)づきぬ」という>である。

 

柿本人麻呂の歌(二五〇歌)を現情に合うようにアレンジしている。(「敏馬(みぬめ)を過ぎて」➡「処女(をとめ)を過ぎて」)

 

 

◆之路多倍能 藤江能宇良尓 伊射里須流 安麻等也見良武 多妣由久和礼乎

         (<本歌:柿本人麻呂 巻三 二五二> 巻十五 三六〇七)

 

≪書き下し≫白栲(しろたへ)の藤江(ふぢえ)の浦に漁(いざ)りする海人(あま)とや見らむ旅行く我(あ)れを

 

(訳)白栲(しろたえ)に藤というではないが、藤江の浦で漁をする海人だ人は見ていることだろうか、都を離れてはるばる船旅を続けて行くわれらであるのに。(同上)

(注)しろたえの【白妙の】[枕]:① 衣・布に関する「衣」「袖 (そで) 」「袂 (たもと) 」「たすき」「紐 (ひも) 」「領布 (ひれ) 」などにかかる。② 白い色の意から、「雲」「雪」「波」「浜のまさご」などにかかる。③ 栲 (たえ) の材料となる藤、また白栲で作る木綿 (ゆう) と同音の「ふぢ」「ゆふ(木綿・夕)」にかかる。(goo辞書)

(注)藤江明石市西部

 

左注は、「柿本朝臣人麻呂歌曰 安良多倍乃 又曰 須受吉都流 安麻登香見良武」<柿本朝臣人麻呂が歌には「荒栲(あらたへ)の」といふ。 また「鱸(すずき)釣る海人(あま)とか見らむ」といふ。>である。

 

柿本人麻呂の歌(二五一歌)を現情に合うようにアレンジしている。(「荒栲(あらたへ)の」➡「白栲(しろたへ)の」、「鱸(すずき)釣る海人(あま)」➡「漁(いざ)りする海人(あま)」)

 

 

◆安麻射可流 比奈乃奈我道乎 孤悲久礼婆 安可思能門欲里 伊敝乃安多里見由

         (<本歌:柿本人麻呂 巻三 二五五> 巻十五 三六〇八)

 

≪書き下し≫天離(あまざか)る鄙(ひな)の長道(ながち)を恋ひ来(く)れば明石(あかし)の門(と)より家(いへ)のあたり見ゆ

 

(訳)都を遠く離れた鄙の地の長い道、その道中ずっと恋い焦がれながらやってくると、明石の海峡から、我が故郷、家のあたりが見える。(同上)

 

左注は、「柿本朝臣人麻呂歌曰夜麻等思麻見由」<左注は、柿本朝臣人麻呂が歌には「大和島見ゆ」といふ>である。

 

柿本人麻呂の歌(二五五歌)を現情に合うようにアレンジしている。(「大和島見ゆ」➡「家(いへ)のあたり見ゆ」(或る本の方を採用している)

 

 

◆武庫能宇美能 尓波余久安良之 伊射里須流 安麻能都里船 奈美能宇倍由見由

        (<本歌:柿本人麻呂 巻三 二五六> 巻十五 三六〇九)

 

≪書き下し≫武庫の海の庭(には)よくあらし漁(いざ)りする海人(あま)の釣舟(つりぶね)波の上ゆ見ゆ

 

(訳)武庫の海の漁場はおだやかで潮の具合もよいらしい。漁をしている海人の釣舟、その舟が今しも波の彼方に浮かんでいる。

(注)庭:仕事場、ここでは漁場

 

左注は、「柿本朝臣人麻呂歌曰 氣比乃宇美能 又曰 可里許毛能 美多礼弖出見由 安麻能都里船」<柿本朝臣人麻呂が歌には「笥飯(けひ)の海の」といふ。また、「刈(か)り薦(こも)の乱れて出(い)づ見ゆ海人の釣舟」といふ。>

 

柿本人麻呂の歌(二五六歌)を現情に合うようにアレンジしている。(「笥飯(けひ)の海の」➡「武庫の海の」

 

 

◆安胡乃宇良尓 布奈能里須良牟 乎等女良我 安可毛能須素尓 之保美都良武賀

        (<本歌:柿本人麻呂 巻一 四〇> 巻十五 三六一〇)

 

≪書き下し≫安胡(あご)の浦に舟乗(ふなの)りすらむ娘子(をとめ)らが赤裳(あかも)の裾(すそ)に潮(しほ)満(み)つらむか

 

(訳)安胡の浦で舟遊びをしているおとめたちの赤い裳の裾、その裳の裾に、今しも潮が満ち寄せていることだろうか。(同上)

(注)安胡の浦:所在未詳。

 

 左注は、「柿本朝臣人麻呂歌曰 安美能宇良 又日 多麻母能須蘇尓」<柿本朝臣人麻呂が歌には「鳴呼見(あみ)の浦」といふ。また「玉藻(たまも)の裾に」といふ>である。

(注)鳴呼見(あみ)の浦:三重県鳥羽湾の西、小浜の浦。

 

柿本人麻呂の歌(四〇歌)を現情に合うようにアレンジしている。(「鳴呼見(あみ)の浦」➡「安胡(あご)の浦に」、「玉藻(たまも)の裾に」➡「赤裳(あかも)の裾に」

 

 

◆於保夫祢尓 麻可治之自奴伎 宇奈波良乎 許藝弖天和多流 月人乎登古

           (本歌:柿本人麻呂歌集 巻十五 三六一一)

 

≪書き下し≫大船(おほぶね)に真楫(まかぢ) しじ貫(ぬ)き海原(うなはら)を漕ぎ出(で)て渡る月人(つきひと)壮士(をとこ)

 

(訳)大船の舷(ふなばた)に櫂(かい)をたくさん取り付け、海原を漕ぎ出して渡って行く月の若者よ。(同上)

 

題詞は、「七夕歌一首」<七夕(しちせき)の歌一首>である。

 

左注は、「右柿本朝臣人麻呂歌」<右は柿本朝臣人麻呂が歌>である。

 

巻十一 二四九四歌の第一句、二句は「大船(おほぶね)に真楫(まかぢ) しじ貫(ぬ)き」であり、巻十 二〇一〇歌の第五句は「月人(つきひと)壮士(をとこ)」である。いずれも「柿本人麻呂歌集の歌」である。柿本人麻呂歌集から引用して、現情に合わせてアレンジして歌われたものであろう。

 

 冒頭部を構成する、これらの「當所誦詠古歌」は往復路の歌になっており、ドキュメンタリーの概要をまとめた感があるように思える。

航海中のエンターテイメントに、古歌の記録を持っていったのか、暗唱して披歴したものかはわからないが、記憶か記録の媒体があってこその歌であり、「書記官」の役目も相当なものであったように思われる。航海中に集めた歌を記録し航海が終わってから集大成したとしても相当の工数であったあったと思われる。

 本歌をもとに、航海上の折々の場所でアレンジをして楽しみ、アレンジした歌と共にも本歌も「記録」として残すきめ細やかさにも驚かされる。

 全体のストーリー性は見事と言うほかない。まさに万葉の時代の「歌によるドキュメンタリー」である。

 万葉集とは、とまたまた考えさせられるドキュメンタリーである。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集をどう読むか―歌の『発見』と漢字世界」 神野志隆光 著 (東京大学出版会

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「goo辞書」