万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉集の世界に飛び込もう(その2581)―書籍掲載歌を中軸に―

●歌は、

「天離る鄙の長道を恋ひ来れば明石の門より家のあたり見ゆ(古歌 15-3608)」、「秋風の寒き朝明を佐農の岡越ゆらむ君に衣貸さましを(山部赤人 3-361)」、「泊瀬川夕渡り来て我妹子が家のかな門に近づきにけり(柿本人麻呂歌集 9-1775)」、「かはづ鳴く六田の川の川楊のねもころ見れど飽かぬ川かも(絹          9-1723)」、「馬並めて打ち群れ越え来今日見つる吉野の川をいつかへり見む(元仁 9-1720)」、「三川の淵瀬もおちず小網さすに衣手濡れぬ干す子はなしに(春日 9-1717)」、「率ひて漕ぎ去にし舟は高島の安曇の港に泊てにけむかも(高市 9-1718)」、「松反りしひてあれやは三栗の中上り来ぬ麻呂といふ奴(柿本人麻呂歌集   9-1783)」、「奈良県天理市萱生町 あしひきの山川の瀬の鳴るなへに弓月が岳にい雲立ちわたる(柿本人麻呂歌集   7-1088)」、「港の葦の末葉を誰れか手折りし我が背子が振る手を見むと我れぞ手折りし(柿本人麻呂歌集 7-1288)」である。

 

 

 「古代史で楽しむ 万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫)の「人麻呂の歌集」の項読み進みながら順に歌をみていこう。

 

 「人麻呂の伝説化は、もうひとつの姿をわれわれに残している。万葉集の中に『柿本朝臣朝臣)人麻呂の歌集』としるされた歌群が存在することだ。この歌集から万葉集に収録された歌は、すべてで三百七十五首という多数で、これは万葉集の歌のほぼ八パーセントを占めるものである。しかも九つの巻にわたる。・・・ところが、これらの歌うたは女性の歌もふくみ、内容的にももっと後の時代のもの多く、民謡風なものもある。すべてが人麻呂自身の歌ではないのである。・・・人麻呂の歌集の歌は大体こんなふうに考えておけばよいだろう。人麻呂はその存命中に歌のノートをもっていた。時として行幸に従ったおりの自作や多作のメモだったり、土地土地の庶民の歌だったりするが、また個人的な生活は行旅の中で詠んだり聞いたりした歌もあった。メモであっただけに作歌事情や作者名は簡略に書いたり、まったく書かなかったりした。ところが当時の歌は、文字どおり歌うものであって、書く文学ではない。人麻呂の歌も筆録と同時に口頭によって伝承されることが多かった。・・・旅の歌も天平八年(七三六)に新羅に遣わされた使者たちには『夷の長道ゆ』が『夷の長道を』、『大和島見ゆ』が『家のあたり見ゆ』として口誦(こうしょう)されている。(巻十五、三六〇八)。こうした異伝は元の歌がつぎつぎと時代の趣向によって変わっていったものだ。」(同著)

 

■古歌 巻十五、三六〇八■

◆安麻射可流 比奈乃奈我道乎 孤悲久礼婆 安可思能門欲里 伊敝乃安里見由

        (<本歌:柿本人麻呂 巻三 二五五> 巻十五 三六〇八)

 

≪書き下し≫天離(あまざか)る鄙(ひな)の長道(ながち)を恋ひ来(く)れば明石(あかし)の門(と)より家(いへ)のあたり見ゆ

 

(訳)都を遠く離れた鄙の地の長い道、その道中ずっと恋い焦がれながらやってくると、明石の海峡から、我が故郷、家のあたりが見える。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

(注)帰路の旅情。帰心の思いを人麻呂歌に託したもの。(伊藤脚注)

 

左注は、「柿本朝臣人麻呂歌曰夜麻等思麻見由」<左注は、柿本朝臣人麻呂が歌には「大和島見ゆ」といふ>である。

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その620)」で題詞「所に当たりて誦詠(しょうえい)する古歌」三六〇二から三六一〇歌のなかで紹介している。

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 「また当時の歌人たちは・・・もっと集団的な心情や立場で、かつ等質的な歌をうたうものであった。極端にいうと人麻呂は人麻呂らしからぬ歌も詠むのであり、女性の立場の歌もよむのである。これは次の山部赤人の歌にも女性の立場の歌(巻二、三六一)のあることをもっても、知られる。

 

■巻二、三六一■

◆秋風乃 寒朝開乎 佐農能岡 将超公尓 衣借益矣

       (山部赤人 巻三 三六一)

 

◆秋風の寒き朝明(あさけ)を佐農(さぬ)の岡(おか)越ゆらむ君に衣(きぬ)貸さましを

 

(訳)秋風の吹くこんな寒い明け方なのに、佐農の岡を今頃は越えているであろうあなた、そのあなたに私の着物をお貸ししておけばよかった。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)佐農の岡:所在未詳

 

 この三六一歌は、陸行の歌。旅先で出会った優しい心根の女の歌として披露したものか。

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その614)」で題詞「山部宿禰赤人が歌六首」三五七から三六三のなかで紹介している。

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 「人麻呂の歌集の存在は人麻呂の象徴だといってよい。それでは歌集の内容はどういうものなのか。宮廷歌人人麻呂さながらに、その歌集にも天武の諸皇子、弓削(ゆげ)・舎人(とねり)・忍壁(おさかべ)らにたてまつった歌があり、舎人皇子には代わってつくった恋の歌を奉っている。(巻九、一七七五)(歌は省略)

 

 

■巻九、一七七五■

◆泊瀬河 夕渡来而 我妹兒何 家門 近舂二家里

       (柿本人麻呂歌集 巻九 一七七五)

 

≪書き下し≫泊瀬川(はつせがわ)夕(ゆふ)渡り来て我妹子(わぎもこ)が家のかな門(と)に近づきにけり

 

(訳)泊瀬川を夕方に渡って来て、いとしい人の家の戸口に近づいた。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)以下、母の許しも得て晴れて通えることになった一夕の感動。

(注)かなと【金門】名詞:門。一説に金具をつけた門。(学研)

 

左注は、「右三首柿本朝臣人麻呂之歌集出」<右の三首は、柿本朝臣人麻呂が歌集に出づ>である。

 

 

 

 「また吉野に従駕した絹(きぬ)と呼ばれる女性らしい宮女の歌(巻九、一七二三)や元仁(がんにん)と記される僧侶らしいものの歌(同、一七二〇)をとどめ、各地の春日老(同、一七一七)・高市黒人(同、一七一八)また山上憶良(同、一七一六)らの歌を記しているのも、宮廷歌人人麻呂の面影を伝えるものであろう。人麻呂は歌の蒐集(しゅうしゅうう)者であり、その役割は死後もぞくぞくとよび込むこととなった。」(同著)

 

■巻九、一七二三■

◆河蝦鳴 六田乃河之 川楊乃 根毛居侶雖見 不飽河鴨

      (絹 巻九 一七二三)

 

≪書き下し≫かはづ鳴く六田(むつた)の川の川楊(かはやなぎ)のねもころ見れど飽(あ)かぬ川かも

 

(訳)河鹿の鳴く六田の川の川楊の根ではないが、ねんごろにいくら眺めても、見飽きることのない川です。この川は。(同上)

(注)川楊:川辺に自生する。挿し木をしてもすぐに根付くほどの旺盛な生命力を持っている。ネコヤナギとも言われる。(「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会) 

(注)ねもころ【懇】副詞:心をこめて。熱心に。「ねもごろ」とも。(学研)

 

 この歌の題詞は、「絹歌一首」<絹が歌一首>である。

(注)絹:伝未詳。土地の遊行女婦か。

 

 

 

■巻九、一七二〇■

題詞は、「元仁(がんじん)が歌三首」である。

 

◆馬屯而 打集越来 今日見鶴 芳野之川乎 何時将顧

        (元仁 巻九 一七二〇)

 

≪書き下し≫馬並(な)めて打(う)ち群(む)れ越え来(き)今日(けふ)見つる吉野(よしの)の川(かは)をいつかへり見む

 

(訳)馬をあまた並べて、鞭(むち)くれながらみんなで越えて来て、今日この目でしっかと見た吉野川、この美しい川の流れを、いつの日また再びやってきて見られるだろうか。(同上)

 

一七二三ならびに一七二〇歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1099)」で紹介している。

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■巻九、一七一七■

題詞は、「春日歌一首」<春日が歌一首>である。

 

◆三川之 淵瀬物不落 左提刺尓 衣手潮 干兒波無尓

       (春日蔵首老? 巻九 一七一七)

 

≪書き下し≫三川(みつかは)の淵瀬(ふちせ)もおちず小網(さで)さすに衣手(ころもで)濡(ぬ)れぬ干(ほ)す子はなしに

 

(訳)三川の淵にも瀬にも洩(も)れなく小網(さで)を張っているうちに、着物の袖がすっかり濡れてしまった。乾かしてくれる人もいないのに。(同上)

(注)三川:所在未詳。大津市下坂本の四ツ谷川か。(伊藤脚注)

(注)おちず【落ちず】分類連語:欠かさず。残らず。 ⇒なりたち:動詞「おつ」の未然形+打消の助動詞「ず」の連用形(学研)

(注の注)淵瀬(ふちせ)もおちず:淵にも瀬にも洩れなく。(伊藤脚注)

(注)さで【叉手・小網】名詞:魚をすくい取る網。さであみ。(学研)

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1417)」で紹介している。 

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■巻九、一七一八■

題詞は、「高市歌一首」<高市(たけち)が歌一首>である。

 

◆足利思代 榜行舟薄 高嶋之 足速之水門尓 極尓監鴨

       (高市黒人 巻九 一七一八)

 

≪書き下し≫率(あども)ひて漕(こ)ぎ去(い)にし舟は高島(たかしま)の安曇(あど)の港に泊(は)てにけむかも

 

(訳)行く先は安曇(あど)だと、声を掛け合って漕ぎ出して行った舟は、もう高島のその安曇の港に着いたことであろうか。(同上)

(注)率(あども)ひて:声を掛け合って調子を合わせ。「安曇思ひ」を懸けるか。(伊藤脚注)

(注の注)あどもふ【率ふ】他動詞:ひきつれる。 ※上代語。(学研)

 

 

■巻九、一七一六■

題詞は、「山上歌一首」<山上(やまのうへ)が歌一首>である。

 

◆白那弥乃 濱松之木乃 手酬草 幾世左右二箇 年薄經濫

       (山上憶良 巻九 一七一六)

 

≪書き下し≫白波(しらなみ)の浜松の木の手向(たむ)けくさ幾代(いくよ)までにか年は経(へ)ぬらむ

 

(訳)白波の寄せる浜辺の松の木に結ばれたこの手向けのものは、結ばれてからもうどのくらいの年月が経っただろうか。(同上)

 

左注は、「右一首或云川嶋皇子御作歌」<右の一首は、或いは「川島皇子(かはしまのみこ)の御作歌」といふ。

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その2430)」で紹介している。

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 「人麻呂の『妻』との贈答歌もある。(巻九、一七八三)(歌は省略)もうこうなれば、当の人麻呂自身が素材となった後人の歌まで、人麻呂の歌集はふくんでしまっているのである。」(同著)

■巻九 一七八三■

◆松反 四臂而有八羽 三栗 中上不来 麻呂等言八子

       (柿本人麻呂歌集 巻九 一七八三)

 

≪書き下し≫松反(まつがへ)りしひてあれやは三栗(みつぐり)の中上(なかのぼ)り来(こ)ぬ麻呂(まろ)といふ奴(やっこ)

 

(訳)鷹の松返りというではないが、ぼけてしまったのかしら、機嫌伺に中上りもして来ない。麻呂という奴は。(同上) 

(注)松反り:「しひて」の枕詞。鷹が手許に帰らず松の木に帰る意か。(伊藤脚注)

(注の注)松反り(読み)まつがへり:[枕]「しひ」にかかる。かかり方未詳。(コトバンク デジタル大辞泉

(注)しひてあれやは:耄碌(もうろく)したわけでもるまいに、何を言われるか。「しふ」は心身に障害のある意。(伊藤脚注)

(注の注)しふ【癈ふ】自動詞:目や耳などの感覚がまひする。身体の器官がだめになる。老いぼれる。(学研)

(注)みつぐりの【三栗の】分類枕詞:栗のいがの中の三つの実のまん中の意から「中(なか)」や、地名「那賀(なか)」にかかる。(学研)

(注)中上り来ぬ:機嫌伺いに中上りもして来ない。「中上り」は地方官が任期中に報告に上京すること。(伊藤脚注)

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その477)」で紹介している。

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 「巻十の数十首は多く三輪山麓に関し、巻七でも多数がそれにかかわる。巻によって土地がかわるということは、人麻呂歌集の成り立ちを物語るものだが、より多く三輪山麓から山辺一帯に歌が多いことは、彼の生活圏、出自をしめす自作の歌であろう。(巻七、一〇八八)(歌は省略)と、聴覚と視覚との渾然(こんぜん)としたけはいを力強くとらえた歌だが、これも旅行者としてではない、人麻呂自身の生活体験が生んだ歌であろう。」(同著)

 

■巻七 一〇八八■

題詞は「雲を詠む」であり、一〇八八の左注に「右二首柿本朝臣人麻呂之歌集出」(右の二首は柿本朝臣人麻呂が歌集に出づ)とある。

◆足引之 山河之瀬之 響苗尓 弓月高 雲立渡

        (柿本人麻呂歌集 巻七 一〇八八)

 

≪書き下し≫あしひきの山川(やまがは)の瀬の鳴るなへに弓月(ゆつき)が岳(たけ)にい雲立ちわたる

 

(訳)山川(やまがわ)の瀬音(せおと)が高鳴るとともに、弓月が岳に雲が立ちわたる。

(同上)

(注)弓月が岳:三輪山東北の巻向山の最高峰。(伊藤脚注)

(注)なへ 接続助詞 《接続》活用語の連体形に付く。:〔事柄の並行した存在・進行〕…するとともに。…するにつれて。…するちょうどそのとき。 ※上代語。中古にも和歌に用例があるが、上代語の名残である。(学研)

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1186)」で紹介している。

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奈良県天理市萱生町万葉歌碑(柿本人麻呂歌集 巻七 一〇八八) 20210706撮影



 

 「一方に豊かに土のにおいを湛(たた)えた民衆の歌もおさめられている。特徴的なものは旋頭歌の一群であろう。(巻七、一二八八)(歌は省略) 旋頭歌は上下が三句ずつ切れて二回の繰り返しとなる。元来は二者によって歌われたもので、それは集団の場によって旋(めぐ)り歌われるものであった。・・・歌をみんなで歌う場の、豊かな情感がある。

 天平期にかけて人麻呂の歌集はこうした土のにおいも取り入れながら、大きくふくれあがっていった。実作者が大事なのではない。ひとまろの歌集のあり様がまさしく人麻呂の歌のもつ必然のものでもあったことが大事なのである。」(同著)

 

■巻七 一二八八■

◆水門 葦末葉 誰手折 吾背子 振手見 我手折

       (柿本人麻呂歌集 巻七 一二八八)

 

≪書き下し≫港(みなと)の葦(あし)の末葉(うらば)を誰(た)れか手折(たを)りし 我(わ)が背子(せこ)が振る手を見むと我(わ)れぞ手折りし

 

(訳)港の葦の葉先、この葉を手折ったのはどこの誰なのさ。そりゃ、いとしいお人の振る手を見ようと、あたいが手折ったのさ。(同上)

 

 

 

 

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「古代史で楽しむ 万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫

★「植物で見る万葉の世界」(國學院大學「万葉の花の会」発行)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク デジタル大辞泉