万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1691~1693)―福井県越前市 万葉ロマンの道(54~56)―万葉集 巻十五 三七七六~三七七八

―その1691―

●歌は、「今日もかも都なりせば見まく欲り西の御馬屋の外に立てらまし」である。

福井県越前市 万葉ロマンの道(54)万葉歌碑<道標燈籠>(中臣宅守

●歌碑(道標燈籠)は、福井県越前市 万葉ロマンの道(54)にある。

 

●歌をみてみよう。

 

◆家布毛可母 美也故奈里世婆 見麻久保里 尓之能御馬屋乃 刀尓多弖良麻之

      (中臣宅守 巻十五 三七七六)

 

≪書き下し≫今日(けふ)もかも都なりせば見まく欲(ほ)り西の御馬屋(みまや)の外(と)に立てらまし

 

(訳)今日あたりでも、都にいるのだったら、逢いたくって、西の御馬屋の外に佇(たたず)んでいることだろうに。(同上)

(注)せば 分類連語:もし…だったら。もし…なら。 ⇒参考:多く、下に反実仮想の助動詞「まし」をともない、事実と反する事柄や実現しそうもないことを仮定し、その上で推量する意を表す。 ⇒注意:「せば」の形には、サ変の未然形「せ」+接続助詞「ば」の場合もある。 ⇒なりたち:過去の助動詞「き」の未然形+接続助詞「ば」(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)みまく【見まく】分類連語:見るだろうこと。見ること。 ※上代語。 ⇒なりたち:動詞「みる」の未然形+推量の助動詞「む」の古い未然形「ま」+接尾語「く」(学研)

(注)ほる【欲る】他動詞:願い望む。欲する。ほしいと思う。 ⇒語法:ほとんど連用形の形で用いられる。(学研)

(注)みまや【御馬屋/御厩】:貴人を敬ってその厩(うまや)をいう語。(weblio辞書 デジタル大辞泉

(注の注)西の御馬屋:宮中の右馬寮。二人はここでよく逢ったのであろう。(伊藤脚注)

 

ここは配流された味真野、都であったなら、いつものように君に逢いたくて西の御馬屋の外で待っているのに・・・何と悔やまれることか、どうして戻りたいのに戻れない、逢いたいのに逢えない、過去の現実と今の現実のギャップ、このもどかしさが「せば」に凝縮されている。

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1377)」で紹介している。

 ➡ こちら1377

 

 

 

―その1692―

●歌は、「昨日今日君に逢はずてするすべのたどきを知らに音のみしぞ泣く」である。

福井県越前市 万葉ロマンの道(55)万葉歌碑<道標燈籠>(狭野弟上娘子)

●歌碑(道標燈籠)は、福井県越前市 万葉ロマンの道(55)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆伎能布家布 伎美尓安波受弖 須流須敝能 多度伎乎之良尓 祢能未之曽奈久

       (狭野弟上娘子 巻十五 三七七七)

 

≪書き下し≫昨日今日君に逢はずてするすべのたどきを知らに音のみしぞ泣く

 

(訳)そうはおっしゃっても、昨日も今日も、このごろ毎日、あなたに逢わないまま、そうしてよいやらわからず、ただ泣いてばかりです。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)て 接続助詞:《接続》活用語の連用形に付く。①〔継起〕…して、それから。▽ある動作・状態から、次の動作・状態に移ることを表す。②〔並行〕…て。…て、そして。▽動作・状態が同時に進行・存在していることを表す。③〔順接の確定条件〕…ために。…から。…ので。▽上に述べた事柄が原因・理由になって下の事柄が起こることを表す。④〔逆接の確定条件〕…のに。…ても。…にもかかわらず。⑤〔順接の仮定条件〕…たら。…なら。⑥〔状態〕…のようすで。…まま。⑦〔補助動詞に続けるのに用いて〕…て。 ⇒参考:(1)完了の助動詞「つ」の連用形「て」が変化したもの。(2)動詞の撥(はつ)音便形やウ音便形に続いて「掘り食(は)んで」(神楽歌)「夕殿に蛍飛んで」(『源氏物語』)や「呼うで来てくだされ」(『冥途飛脚』)のように、濁音化することもある。(3)副詞の「かく」「など」「さ」に付いて「かくて」「などて」「さて」という副詞を作ったり、格助詞「と」「に」に付いて「とて」「にて」という複合助詞を作る。(学研)ここでは②の意

(注)たどき【方便】名詞:「たづき」に同じ。 ※上代語。(学研)

(注の注)たづき【方便】名詞:①手段。手がかり。方法。②ようす。状態。見当。 ⇒参考:古くは「たどき」ともいった。中世には「たつき」と清音にもなった。(学研)

 

 

 

―その1693―

●歌は、「白栲の我が衣手を取り持ちて斎へ我が背子直に逢ふまでに」である。

福井県越前市 万葉ロマンの道(56)万葉歌碑<道標燈籠>(狭野弟上娘子)

●歌碑(道標燈籠)は、福井県越前市 万葉ロマンの道(56)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆之路多倍乃 阿我許呂毛弖乎 登里母知弖 伊波敝和我勢古 多太尓安布末▼尓

       (狭野弟上娘子 巻十五 三七七八)

   ▼は「人偏に弖」である。「末▼尓」=「までに」

 

≪書き下し≫白栲(しろたへ)の我(あ)が衣手(ころもで)を取り持ちて斎(いは)へ我(わ)が背子(せこ)直(ただ)に逢(あ)ふまでに

(訳)形見にお贈りしたあの白い私の衣、その衣をしっかと取り持って神に祈り、斎(い)み慎んでくださいね、あなた。じかにお逢いするまでずっと。(同上)

 

三七七七、三七七八歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1405)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 この二首で娘子の歌は終わっている。「たどきを知らに」、「斎へ」、「直に逢ふまでに」のフレーズは、追い詰められた、これまでよりも悲壮感がただならない切実な娘子の叫びである。

 

 

 宅守の三七七六歌の娘子とよく逢っていた「西の御馬屋(みまや)」は平城京のどのあたりにあったのか気になるので調べてみた。

 

コトバンク 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版」の「官衙区域」に次の様に記されていた。

平城宮内で見つかった官衙区域のうち名称が推定できたものは、馬寮(めりよう)、大膳職(だいぜんしき)、陰陽寮(おんみようりよう)、式部省兵部省民部省造酒司(さけのつかさ)等であり、その遺跡を直接確認したものは馬寮、大膳職、陰陽寮造酒司である。馬寮は平城宮西辺にあって、長い細殿的な建物からなり、その細殿にかこまれて広い空間がある。」|

 

 さらに 「奈良市HP『宮城』」には、「平城京の北には、平城宮がありました。宮の内には天皇の住まいである内裏や政治を行なう大極殿二官八省の役所の建物が建ち並んでいました。これまでに、宮内省式部省兵部省、大膳職、馬寮など、いくつかの役所の位置がわかっています。」とあり、つぎのような配置図が掲載されていた。

 奈良市HPより引用させていただきました

                                                                     

「奈良文化財研究所 平城京跡資料館」界隈かもしれない。機会があれば現地で確かめてみたいものである。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 デジタル大辞泉

★「コトバンク 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版」

★「奈良市HP」

★「万葉ロマンの道(歌碑)散策マップ」