―その524―
●歌は、「雉鳴く高円の辺に桜花散りて流らふ見む人もがも」である。
●歌碑(プレート)は、奈良市法蓮佐保山 万葉の苑(27)にある。
●歌をみていこう。
◆春▼鳴 高圓邊丹 櫻花 散流歴 見人毛我母
(作者未詳 巻十 一八六六)
※▼は「矢に鳥」である。「春▼」で「きざし」と読んでいる。
≪書き下し≫雉(きざし)鳴く高円(たかまと)の辺(へ)に桜花散りて流らふ見む人もがも
(訳)雉(きじ)が鳴く高円の山のあたりに、桜花が、吹く風に散っては流れている。誰か一緒に見る人があればよいのにな。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)
(注)もがも 終助詞:《接続》体言、形容詞・断定の助動詞の連用形などに付く。〔願望〕…があったらなあ。…があればいいなあ。 ※上代語。終助詞「もが」に終助詞「も」が付いて一語化したもの。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
―その525―
●歌は、「春雨はいたくな降りそ桜花いまだ見なくに散らまく惜しも」である。
●歌碑(プレート)は、奈良市法蓮佐保山 万葉の苑(28)にある。
●歌をみていこう。
◆春雨者 甚勿零 櫻花 未見尓 散巻惜裳
(作者未詳 巻十 一八七〇)
≪書き下し≫春雨はいたくな降りそ桜花いまだ見なくに散らまく惜(を)しも
(訳)春雨よ、ひどくは降ってくれるな。桜の花をまだよく見ていないのに、散らしてしまうのは惜しまれてならない。(同上)
―その526―
●歌は、「見わたせば春日の野辺に霞立ち咲きにほへるは桜花かも」である。
●歌碑(プレート)は、奈良市法蓮佐保山 万葉の苑(29)にある。
●歌をみていこう。
◆見渡者 春日之野邊尓 霞立 開艶者 櫻花鴨
(作者未詳 巻十 一八七二)
≪書き下し≫見わたせば春日(かすが)の野辺(のへ)に霞(かすみ)たち咲きにほえるは桜花かも
(訳)遠く見わたすと、春日の野辺の一帯には霞が立ちこめ、花が美しく咲きほこっている、あれは桜花であろうか。(同上)
巻十 一八五四から一八七三歌までは、題詞が、「詠花」<花を詠む>である。上述の三首以外で「桜」を詠んだ歌をみてみよう。
◆鸎之 木傳梅乃 移者 櫻花之 時片設奴
(作者未詳 巻十 一八五四)
≪書き下し≫うぐひすの木(こ)伝(づた)ふ梅のうつろへば桜の花の時かたまけぬ
(訳)鶯が枝から枝へと飛び移っていた梅、その梅の花が散り過ぎたので、今や、桜の花の時期が近づいた。(同上)
(注)かたまく【片設く】自動詞:(その時節を)待ち受ける。(その時節に)なる。 ▽時を表す語とともに用いる。 ※上代語。(学研)
◆櫻花 時者雖不過 見人之 戀盛常 今之将落
(作者未詳 巻十 一八五五)
≪書き下し≫桜花(さくらばな)時は過ぎねど見る人の恋ふる盛(さか)りと今は散るらむ
(訳)桜の花は、花の時節が過ぎ去ったわけではないのに、見る人が惜しんでくれる盛りだと思って、今こそ散るのであろう。(同上)
(注)こふ【恋ふ】他動詞:心が引かれる。慕い思う。なつかしく思う。(異性を)恋い慕う。恋する。 ※注意:「恋ふ」対象は人だけでなく、物や場所・時の場合もある。(学研)
◆足日木之 山間照 櫻花 是春雨尓 散去鴨
(作者未詳 巻十 一八六四)
≪書き下し≫あしひきの山の際(ま)照らす桜花(さくらばな)この春雨(はるさめ)に散りゆかむかも
(訳)山あいを明るく照らして咲いている桜の花、あの花は、この春雨に散ってゆくことだろうか。(同上)
◆阿保山之 佐宿木花者 今日毛鴨 散乱 見人無二
(作者未詳 巻十 一八六七)
≪書き下し≫阿保山(あほやま)の桜の花は今日(けふ)もかも散り乱(まが)ふらむ見る人なしに
(訳)阿保山の桜の花は、今日もまた、いたずらに散り乱れていることであろうか。見る人もいないままに。(同上)
(注)阿保山:所在未詳。不退寺近くの丘陵か。
◆春雨尓 相争不勝而 吾屋前之 櫻花者 開始尓家里
(作者未詳 巻十 一八六九)
≪書き下し≫春雨(はるさめ)に争ひかねて我(わ)がやどの桜の花は咲きそめにけり
(訳)春雨に逆らいかねて、我が家の庭の桜の花は、ようやく咲きはじめた。(同上)
ちなみに他の歌は、一八五六から一八五九歌が「梅」、一八六〇歌が「山吹」、一八六一歌は「花の種類が不明」、一八六二歌は「梅」、一八六三歌は「ひさぎ」、一八六五歌は「花の種類が不明」、一八六八歌は「馬酔木」、一八七一歌は「梅」、一八七三歌も「梅」となっている。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」