万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その903)―梅は香り、桜は散るが定番?

●歌は、「春の野に霧立ちわたる降る雪と人の見るまで梅の花散る」である。

 

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太宰府メモリアルパーク(4)万葉歌碑(田氏真上)

●歌碑は、太宰府市大佐野 太宰府メモリアルパーク(4)にある。

 

●歌をみていこう。

 

 

◆波流能努尓 紀理多知和多利 布流由岐得 比得能美流麻提 烏梅能波奈知流  筑前目田氏真上

                                   (田氏真上 巻五 八三九)

 

≪書き下し≫春の野に霧(きり)立ちわたる降る雪と人の見るまで梅の花散る  筑前目(つくしのみちのくちのさくわん)田氏真上(でんじのまかみ)

 

(訳)“あれは春の野に霧が立ちこめてまっ白に降る雪なのか”と、誰もが見紛(みまが)うほどに、この園に梅の花が散っている。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

 梅花の歌三十二首のうちの一首である。この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(891)」で紹介している。

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 河野裕子氏は、「大伴旅人―人と作品(中西 進 編 祥伝社新書)」の中で、梅花の歌の中で梅の香りを詠んだ歌がないこと、さらに「散る梅」が十首(意味のうえから八四四歌を加えれば十一首)詠われていると指摘され、後の世に、散るものといえば桜として詠われているが、「梅が桜の先取りをしていることが興味ぶかい。」とも書かれている。

 書き下しの形であるが、散る梅十一首をあげてみる。

 

八一六歌:梅の花今咲けるごと散り過ぎず我が家の園にありこせぬかも

八二一歌:青柳梅との花を折りかざし飲みての後は散りぬとも良し

八二二歌:我が園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも

八二四歌:梅の花散らまく惜しみ我が園の竹の林にうぐひす鳴くも

八二九歌:梅の花咲きて散りなば桜花継ぎて咲くべくなりにてあらずや

八三八歌:梅の花散り乱ひたる岡びにはうぐひす鳴くも春かたまけて  

八三九歌:春の野に霧立ちわたり降る雪と人の見るまで梅の花散る 

八四一歌:うぐひすの音聞くなへに梅の花我家の園に咲きて散る見ゆ  

八四二歌:我がやどの梅の下枝に遊びつつうぐひす鳴くも散らまく惜しみ 

八四四歌:妹が家に雪かも降ると見るまでにここだもまがふ梅の花かも

八四五歌:うぐひすの待ちかてにせし梅が花散らずありこそ思ふ子がため

 

 

 いずれの歌も、目の前で、物理的に「散る」梅の花を詠っている。

 

 万葉集で詠われている「さくら」について少しみてみよう。

 

 

◆雉(きざし)鳴く高円(たかまと)の辺(へ)に桜花散りて流らふ見む人もがも

               (作者未詳 巻十 一八六六)

 

 

(訳)雉(きじ)が鳴く高円の山のあたりに、桜花が、吹く風に散っては流れている。誰か一緒に見る人があればよいのにな。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)もがも 終助詞:《接続》体言、形容詞・断定の助動詞の連用形などに付く。〔願望〕…があったらなあ。…があればいいなあ。 ※上代語。終助詞「もが」に終助詞「も」が付いて一語化したもの。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

◆春雨はいたくな降りそ桜花いまだ見なくに散らまく惜(を)しも

               (作者未詳 巻十 一八七〇)

 

(訳)春雨よ、ひどくは降ってくれるな。桜の花をまだよく見ていないのに、散らしてしまうのは惜しまれてならない。(同上) 

 

 

◆見わたせば春日(かすが)の野辺(のへ)に霞(かすみ)たち咲きにほえるは桜花かも

               (作者未詳 巻十 一八七二)

 

(訳)遠く見わたすと、春日の野辺の一帯には霞が立ちこめ、花が美しく咲きほこっている、あれは桜花であろうか。(同上)

 

一八六六歌は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その524)」で、 一八七七歌は、同525、一八七二歌ならびに他の桜の歌についても、同526で紹介している。

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 「梅、香り」といえば、菅原道真の「東風吹かば匂いおこせよ梅の花あるじなしとて春菜忘れそ」である。

 

 「桜、散る」といえば、頭に浮かぶのが、紀友則の「久かたの光のどけき春の日にしづ心無く花の散るらむ」である。(古今和歌集小倉百人一首

 この歌の「花の散る」の「花」は「桜の花」のことである。

 

 ずっと時代が下がって、「忠臣蔵」の浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)の辞世の句といわれる、「風さそう花よりもなおわれはまた春の名残りをいかにとやせん」もしかり、この「花」は「桜の花」である。

 

 万葉集では、「桜花」と詠っているが、農事暦との関わりから、日本人が花見と言えば桜の花を見ることであり、「菊見」「梅見」と異なり、わざわざ「桜見」という必要も時代と共に必要がなくなってきたのである。

桜の花が、はかなく散るイメージのもつ無常感もあいまって「花散る」と言えば桜の花が散ることが意識付けられていったと考えられる。

 

 万葉集の「さくら」を詠った歌を見るとき、「はかなく散る無常感」に支配されている頭で考えると、本来の歌の意味合いからずれて解釈をしてしまいがちになることもあるが、あくまで「桜花」すなわち、「桜」の「花」という客観性を打ち出して万葉歌は、自己主張し素直に歌に臨んでほしいと拒んでいるようにも思えるのである。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「大伴旅人―人と作品」 中西 進 編 (祥伝社新書)

★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「太宰府万葉歌碑めぐり」 (太宰府市

★「天空の楽園 太宰府メモリアルパーク『万葉歌碑めぐり』太宰府悠久の歌碑・句碑」 (太宰府メモリアルパーク)万葉