―その1736―
●歌は、「あしひきの山橘の色に出でよ語らひ継ぎて逢ふこともあらむ」である。
●歌碑は、坂出市沙弥島 万葉樹木園(10)にある。
●歌をみていこう。
題詞は、「春日王歌一首 志貴皇子之子母日多紀皇女也」<春日王(かすがのおほきみ)が歌一首 志貴皇子の子、母は多紀皇女といふ>である。
(注)多紀皇女は、天武天皇の娘
◆足引之 山橘乃 色丹出与 語言継而 相事毛将有
(春日王 巻四 六六九)
≪書き下し≫あしひきの山橘(やまたちばな)の色に出でよ語らひ継(つ)ぎて逢ふこともあらむ
(訳)山陰にくっきりと赤いやぶこうじの実のように、いっそお気持ちを面(おもて)に出してください。そうしたら誰か思いやりのある人が互いの消息を聞き語り伝えて、晴れてお逢いすることもありましょう。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
(注)上二句「足引之 山橘乃」は序、「色に出でよ」を起こす。
この歌ならびに春日王についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1077)」で紹介している。
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山橘を詠んだ歌は万葉集では六首収録されているが、これについてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その664)」で紹介している。
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―その1737―
●歌は、「妹が見し楝の花は散りぬべし我が泣く涙いまだ干なくに」である。
●歌碑は、坂出市沙弥島 万葉樹木園(11)にある。
●歌をみていこう。
「日本挽歌」の反歌の四首目である。
◆伊毛何美斯 阿布知乃波那波 知利奴倍斯 和何那久那美多 伊摩陁飛那久尓
(山上憶良 巻五 七九八)
≪書き下し≫妹(いも)が見し棟(あふち)の花は散りぬべし我(わ)が泣く涙(なみた)いまだ干(ひ)なくに
(訳)妻が好んで見た棟(おうち)の花は、いくら奈良でももう散ってしまうにちがいない。。妻を悲しんで泣く私の涙はまだ乾きもしないのに。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
(注)楝は、陰暦の三月下旬に咲く、花期は二週間程度。筑紫の楝の花散りゆく様を見て、奈良の楝に思いを馳せて詠っている。
(注)ぬべし 分類連語:①〔「べし」が推量の意の場合〕きっと…だろう。…てしまうにちがいない。②〔「べし」が可能の意の場合〕…できるはずである。…できそうだ。③〔「べし」が意志の意の場合〕…てしまうつもりである。きっと…しよう。…てしまおう。④〔「べし」が当然・義務の意の場合〕…てしまわなければならない。どうしても…なければならない。 ⇒なりたち:完了(確述)の助動詞「ぬ」の終止形+推量の助動詞「べし」(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)ここでは①の意
この歌については、これまでに幾度も紹介している。太宰府歴史スポーツ公園の歌碑と「楝」を詠んだ歌四首については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その893)」で紹介している。
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万葉集巻五の巻頭歌「大宰帥(だざいのそち)大伴卿(おほとものまへつきみ)、凶問(きようもん)に報(こた)ふる歌一首(七九三歌)」ならびに山上憶良が旅人に贈った「漢文の序」「日本挽歌一首(七九四歌)」ならびに「反歌」(七九五~七九九歌)については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その489)」で紹介している。
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―その1738―
●歌は、「梅の花今盛なり百鳥の声の恋しき春来るらし」である。
●歌碑は、坂出市沙弥島 万葉樹木園(12)にある。
●歌をみていこう。
◆烏梅能波奈 伊麻佐加利奈利 毛ゝ等利能 己恵能古保志枳 波流岐多流良斯 [小令史田氏肥人]
(田氏肥人 巻八 八三四)
≪書き下し≫梅の花今盛りなり百鳥(ももとり)の声の恋(こほ)しき春来(きた)るらし [小令史(せうりゃうし)田氏肥人(でんじのこまひと)]
(訳)梅の花が今がまっ盛りだ。鳥という鳥のさえずりに心おどる春が、今まさにやってきたらしい。(同上)
(注)百鳥(ももとり):多くの鳥。種々の鳥。(コトバンク デジタル大辞泉)
この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(太宰府番外編その4)」で紹介している。
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太宰府には、2020年11月17日に、「太宰府市吉松 太宰府歴史スポーツ公園」→「同大佐野 太宰府メモリアルパーク」→「同石坂 九州国立博物館」→「同宰府 太宰府天満宮」→「同観世音寺 太宰府市役所」→「同 観世音寺」→「同 太宰府政庁跡バス停」→「同 太宰府展示館横」→「同 太宰府政庁跡北西」→「同坂本 坂本八幡宮」→「同宰府 太宰府政庁跡北側」→「同 朱雀大橋北詰」と万葉歌碑を訪ねている。
主な歌碑を見てみよう。
■太宰府歴史スポーツ公園■
伴氏百代の「梅の花散らくはいづくしかすがにこの城の山に雪は降りつつ(巻五 八二三歌)」である。この歌碑は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その890)」で紹介している。
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大伴旅人の「我が園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも(巻五 八二二歌)」である。この歌碑は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その900)」で紹介している。
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■九州国立博物館■
大伴旅人の「ここにありて筑紫やいづち白雲のたなびく山の方にしあるらし(巻五 五七四歌)」である。この歌碑は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その916)」で紹介している。
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■太宰府天満宮■
佐氏子首の「万代に年は来経とも梅の花絶ゆることなく咲きわたるべし(巻五 八三〇歌)」である。歌碑は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その917)」で紹介している。
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■太宰府市役所■
山上憶良の「春さればまづ咲くやどの梅の花ひとり見つつや春日暮らさむ(巻五 八一八歌)」である。歌碑は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その919)」で紹介している。
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■観世音寺■
沙弥満誓の「しらぬひ筑紫の綿は身に付けていまだは着ねど暖けく見ゆ」である。歌碑は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その920)」で紹介している。
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■太宰府政庁跡バス停■
大伴旅人の「やすみしし我が大君の食す国は大和もここも同じとぞ思ふ(巻六 九五六歌)」である。歌碑は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その921)」で紹介している。
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■太宰府展示館横■
小野老の「あをによし奈良の都は咲く花のにほうがごとく今盛りなり(巻三 三二八歌)」である。歌碑は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その922)」で紹介している。
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■太宰府政庁跡北西■
紀卿の「正月立ち春の来らばかくしこそ梅を招きつつ楽しき終へめ(巻五 八一五歌)」である。歌碑は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その923)」で紹介している。
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■坂本八幡宮■
大伴旅人の「我が岡にさを鹿来鳴く初萩の花妻どひに来鳴くさを鹿(巻八 一五四一歌)」である。歌碑は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その924)」で紹介している。
■太宰府政庁跡北側■
大伴旅人の「世の中は空しきものと知る時しいよよますます悲しかりける(巻五 七九三歌)」である。歌碑は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その925)」で紹介している。
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■朱雀大橋北詰■
柿本人麻呂の「大君の遠の朝廷とあり通ふ島門を見れば神代し思ほゆ(巻三 三〇四歌)」である。歌碑は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その926)」で紹介している。
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(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」