万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その923)―太宰府市太宰府 大宰府政庁跡北西―万葉集 巻八 八一五

●歌は、「正月立ち春の来らばかくしこそ梅を招きつつ楽しき終へめ」である。

 

f:id:tom101010:20210221155025j:plain

大宰府政庁跡北西部万葉歌碑(紀卿)

●歌碑は、太宰府市太宰府 大宰府政庁跡北西にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆武都紀多知 波流能吉多良婆 可久斯許曽 烏梅乎乎岐都ゝ 多努之岐乎倍米  [大貮紀卿]

               (紀卿 巻八 八一五)

 

≪書き下し≫正月(むつき)立ち春の来(きた)らばかくしこそ梅を招(を)きつつ楽(たの)しき終(を)へめ  [大弐(だいに)紀卿(きのまへつきみ)] 

 

(訳)正月になり春がやってきたなら、毎年このように梅の花を迎えて、楽しみの限りを尽くそう。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)こそ〔係助〕:已然形で意味的に切れるもの。上代にはきわめてまれで、しかも「うべしこそ」「かくしこそ」の形が主であったが、時代が下るとともに逆接関係で続くものより優勢となる(コトバンク  精選版 日本国語大辞典

(注)をく【招く】他動詞:招き寄せる。呼び寄せる。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)招(を)きつつ:客として招いては。

(注)大弐(だいに):律令制で、大宰府の次官(すけ)のうち、最上位のもの。権帥(ごんのそち)を欠くときに実務を執った(コトバンク デジタル大辞泉より)

(注)紀卿:未詳。紀朝臣男子か。「卿」は、三位以上に対する称であるが、賓客の中で最高位だったので興じて「卿」を着けたものか。

 

f:id:tom101010:20210221155531j:plain

歌の解説案内板

 

 

この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(太宰府番外編その2)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 「烏梅乎乎岐都ゝ」というのは、「梅の花」を賓客として招き入れ、正月そして春を祝い、この宴を毎年のように開こうとする、開宴にふさわしい歌である。

 

 この歌に関して、林田正男氏は、「大伴旅人―人と作品」(中西 進 編 祥伝社新書)の中で、「この歌は、琴歌譜(きんかふ)<中略>に『新(あらた)しき年の初めにかくしこそ千歳(ちとせ)をかねて楽しき終へめ』<『古今和歌集』にも小異歌(しよういか)あり」>とあり、当時伝誦されていた歌をいささか句を改めて場に応じた」と書いておられる。

(注)琴歌譜:平安初期の歌謡譜本。一巻。作者、編者未詳。唯一の伝本に天元四年(九八一)の写とあり、それ以前の成立。和琴の歌曲名をあげ、その下に万葉仮名で歌詞を記し、次いで歌い方、琴のひき方を示したもの。収録歌詞二二首、記紀を補う上代歌謡研究の貴重な資料。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典

 

 犬養 孝氏も「万葉の人びと」(新潮文庫)のなかで、述べられているように、「古代には、歌というものは、みな人々の共有財産なんですね。現代で似た歌をつくったら、すぐ盗作といわれるでしょう。なにしろ個人意識、著作権意識が強いですから。」

 そして、林田氏は続けて、「古歌を利用して今の心情を表現することは、上代人にとって教養の一つであった。だとすれば、紀卿は琴歌譜にある歌を換骨奪胎(かんこつだったい)し、『梅花』を歌いこみ宴席歌(えんせきか)にしたてたのである。つまり古歌(こか)を巧みに利用して場に応ずるという教養を示したことになる。」と書かれている。

 

 「共有財産」という観点から、万葉集巻二の巻頭歌八五から九〇歌をみてみよう。ここでは、訳は省略しています。

 

巻頭歌は、題詞が、「難波高津宮御宇天皇代 大鷦鷯天皇 謚曰仁徳天皇  磐姫皇后思天皇御作歌四首」<難波(なには)の高津(たかつ)の宮(みや)に天(あま)の下(した)知(し)らしめす天皇(すめらみこと)の代(みよ) 大鷦鷯天皇(おほさぎきのすめらみこと) 謚(おくりな)して仁徳天皇(にんとくてんわう)といふ  磐姫皇后(いはのひめのおほきさき)、天皇(すめらみこと)を思(しの)ひて作らす歌四首>である。

 

◆君之行 氣長成奴 山多都祢 迎加将行 待尓可将待

               (磐姫皇后 巻二 八五)

 

≪書き下し≫君が行き日(け)長くなりぬ山(やま)尋(たづ)ね迎へか行かむ待ちにか待たむ

 

左注は、「右一首歌山上憶良臣類聚歌林載焉」<右の一首の歌は、山上憶良臣(やまのうへのおくらおみ)が類聚歌林(るいじうかりん)に載(の)す。

 

 万葉集の編者は、きちんと八五歌の出典を記載している。共有財産的に考えつつ、出所を明確にして敬意を払っている。

 

◆如此許 戀乍不有者 高山之 磐根四巻手 死奈麻死物呼

              (磐姫皇后 巻二 八六)

 

≪書き下し≫かくばかり恋ひつつあらずは高山(たかやま)の岩根(いはね)しまきて死なましものを

 

◆在管裳 君乎者将待 打靡 吾黒髪尓 霜乃置萬代日

               (磐姫皇后 巻二 八七)

 

≪書き下し≫ありつつも君をば待たむうち靡(なび)く我が黒髪(くろかみ)に霜の置くまでに

 

◆秋田之 穂上尓霧相 朝霞 何時邊乃方二 我戀将息

               (磐姫皇后 巻二 八八)

 

≪書き下し≫秋の田の穂(ほ)の上(うへ)に霧(き)らふ朝霞(あさがすみ)いつへの方(かた)に我が恋やまむ

 

 

八九歌の題詞は、「或本歌曰」<或本の歌に日(い)はく>とし、わざわざ注釈をつけている。

 

◆居明而 君乎者将待 奴婆珠能 吾黒髪尓 霜者零騰文

               (磐姫皇后 巻二 八九)

 

≪書き下し≫居(ゐ)明(あか)かして君をば待たむぬばたまの我(わ)が黒髪に霜は降るとも

 

左注は、「右一首古歌集中出」<右の一首は、古歌集の中(うち)に出づ>である。

このように、万葉集編纂に於いて供された資料(飛鳥・藤原朝頃の歌集)を明示している。(伊藤 博氏の脚注より)

 

さらに、「古事記曰」<古事記に日はく>とことわりを入れ、題詞「軽太子姧軽太郎女 故其太子流於伊豫湯也 此時衣通王 不堪戀慕而追徃時歌曰」<軽太子(かるのひつぎのみこ)、軽太郎女(かるのおほいらつめ)に姧(たは)く。 この故(ゆゑ)のその太子を伊予の湯に流す。この時に、衣通王(そとほりのおほきみ)、恋慕(しの)ひ堪(あ)へずして追ひ徃(ゆ)く時に、歌ひて曰はく>と物語調に書き記している。

 

◆君之行 氣長久成奴 山多豆乃 迎乎将徃 待尓者不待

              (古事記の歌 巻二 九〇)

 

≪書き下し≫君が行き日(け)長くなりぬ山たづの迎へを行かむ待つには待たじ

左注には、「右一首歌古事記与類聚歌林所説不同歌主亦異焉 因檢日本紀(中略)」<右の一首の歌は、古事記と類聚歌林と説(い)ふ所同じくあらず、歌の主(にし)もまた異(こと)なり。よりて日本紀(にほんぎ)に検(ただ)すに、(中略)」と、根拠をしめし、「今案(かむが)ふるに、二代二時にこの歌を見ず」と検証結果も明示している。

 

 この九十歌の左注については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(番外200513)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 万葉集は、口誦から筆記へ、記憶から記録への橋渡しといった使命も帯びていたと考えられる。その過程において、類歌と言われる、口誦により伝わって来た歌について検証し、それを記録している。共有財産として、それらの歌を大切に扱おうとする気持ちが伝わってくる。脱帽である。

 万葉集の奥に潜む偉大な構想の一部を垣間見た気がする。

f:id:tom101010:20210221155757j:plain

史跡大宰府政庁址


 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「大伴旅人―人と作品」 中西 進 編 (祥伝社新書)

★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (新潮文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク  精選版 日本国語大辞典

★「コトバンク デジタル大辞泉

★「太宰府万葉歌碑めぐり」 (太宰府市

★「大宰府政庁跡 文化遺産散策マップ」 (古都大宰府保存協会)