―その1034―
●歌は、「ありつつも君をば待たむうち靡く我が黒髪に霜の置くまでに」である。
●歌をみていこう。
◆在管裳 君乎者将待 打靡 吾黒髪尓 霜乃置萬代日
(磐姫皇后 巻二 八七)
≪書き下し≫ありつつも君をば待たむうち靡(なび)く我が黒髪(くろかみ)に霜の置くまでに
(訳)やはりこのままいつまでもあの方をお待ちすることにしよう。長々と靡くこの黒髪が白髪に変わるまでも。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
(注)在りつつも(読み)アリツツモ[連語]:いつも変わらず。このままでずっと。(コトバンク デジタル大辞泉)
(注)霜を置く(読み)しもをおく:白髪になる。霜をいただく。(コトバンク 三省堂大辞林 第三版)
この歌は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その570)で紹介している。
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八五から九〇歌の歌群の標題は、「難波高津宮御宇天皇代 大鷦鷯天皇 謚曰仁徳天皇」<難波(なにわ)の高津(たかつ)の宮(みや)に天(あめ)の下(した)知(し)らしめす天皇(すめらみこと)の代(よ) 大鷦鷯(おほさざきの)天皇(すめらみこと) 、謚(おくりな)して仁徳天皇(にんとくてんのう)といふ>である。
そして、八五から八八歌の四首の題詞は、「磐姫皇后思天皇御作歌四首」<磐姫皇后(いはのひめのおほきさき)、天皇(すめらみこと)を思(しの)ひて作(つく)らす歌四首>である。
仁徳天皇陵西遊歩道には、この歌碑を真ん中に、左右二基づつ歌碑が建てられている。
歌碑説明案内板には、中央の自然石の歌碑は、平成七年に、左右の四基は平成十九年に建てられたと書いてある。
この遊歩道には、陵の外周のどのあたりにいるのかを示す略地図と陵正面から何メートルの所かが書かれた標識が建てられている。なかなかのアイデアである。ちなみに、これらの歌碑は、正面から西回りで650m、東回りで2200mの標識近くにある。
―その1035―
●歌は、「君が行き日長くなりぬ山尋ね迎へか行かむ待ちにか待たむ」である。
●歌をみていこう。
◆君之行 氣長成奴 山多都祢 迎加将行 待尓可将待
(磐姫皇后 巻二 八五)
≪書き下し≫君が行き日(け)長くなりぬ山(やま)尋(たづ)ね迎へか行かむ待ちにか待たむ
(訳)あの方のお出ましは随分日数が経ったのにまだお帰りにならない。山を踏みわけてお迎えに行こうか。それともこのままじっと待ちつづけようか。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
(注)君が行き:「が」は連体助詞、「行き」はお出ましの意。
(注)「尋ぬ」は原則男の行為、「待つ」は普通、女の行為
左注は、「右一首歌山上憶良臣類聚歌林載焉」<右の一首の歌は、山上憶良臣が類聚歌林に載(の)す>である。
この歌は、巻二の巻頭歌である。
この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その706)」で紹介している。
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―その1036―
●歌は、「かくばかり恋つつあらずば高山の岩根しまきて死なましものを」である。
●歌をみていこう。
◆如此許 戀乍不有者 高山之 磐根四巻手 死奈麻死物呼
(磐姫皇后 巻二 八六)
≪書き下し≫かくばかり恋ひつつあらずは高山(たかやま)の岩根(いはね)しまきて死なましものを
(訳)これほどまでにあの方に恋い焦がれてなんかおらずにいっそのこと、お迎えに出て険しい山の岩を枕にして死んでしまった方がましだ。(同上)
―その1037―
●歌は、「秋の田の穂の上に霧らふ朝霞いつへの方に我が恋やまむ」である。
●歌をみていこう。
◆秋田之 穂上尓霧相 朝霞 何時邊乃方二 我戀将息
(磐姫皇后 巻二 八八)
≪書き下し≫秋の田の穂の上(うへ)に霧(き)らふ朝霞(あさかすみ)いつへの方(かた)に我(あ)が恋やまむ
(訳)秋の田の稲穂の上に立ちこめる朝霞ではないが、いつになったらこの思いは消え去ることか。この霧のように胸のうちはなかなか晴れそうにない。(同上)
八五から八八歌までは、連作として伝えられているが、八五首だけは類聚歌林に載せてある。
八五歌の類歌として九〇歌が、八七歌の類歌として八九歌が、それぞれ万葉集には収録されている。
このことから、題詞「磐姫皇后思天皇御作歌四首」は、それぞれ別の歌であったが、万葉集では、磐姫皇后の歌として連作にしてストーリー性を持たせてあった資料を基に収録されたとも考えられる。
改めて四首を並べてそのストーリー性を追ってみよう。
(八五歌)君が行き日長くなりぬ山尋ね迎へか行かむ待ちにか待たむ
(八六歌)かくばかり恋ひつつあらずは高山の磐根し枕きて死なましものを
(八七歌)ありつつも君をば待たむ打ち靡くわが黒髪に霜の置くまでに
(八八歌)秋の田の穂の上に霧らふ朝霞何処辺の方にわが恋ひ止まむ
八五歌では、天皇が長らく磐姫のもとへ来ていない状況で、迎えに行こうか、いや、待ち続けていようか、揺れ動く女の人の気持ちを、八六歌では、こんなに恋つづけてに苦しんでいないで、迎えに行こう、途中でのたれ死んでもかまわない、八七歌では、こうやっていつづけて、この黒髪に霜がおくよう白髪まじりになるまでも、あなたを待ち続けよう。そして、八八歌では、秋の田にかかる朝霞のように、東も西もわからない私の恋心なのですよ、と、起承転結のストーリーが出来上がっているのである。
磐姫皇后の歌といえば、万葉集では最も古い歌となるのであるが、宮廷ラブロマンを作り上げる所に万葉集の奥深さが潜んでいるように思えるのである。
伊藤 博氏は、その著「萬葉集相聞の世界」(塙書房)の中で、「昔の名にしおう人物に、或る種の歌どもを仮託して、新しい物語―フィクションを構成する傾向」があり、「藤原時代も、やはり例外ではなかった。」と書かれており、「萬葉に連作なるものが流行するのは、藤原朝に仕えた柿本人麻呂の作品あたりからとみられ」、「四首には、だいたい藤原朝ころと思われる伝承歌との類歌が多い」とし、「四首仮託の時期は、おそくとも、藤原末期、奈良朝初期をくだらないだろう。」と述べられておられる。
磐姫皇后は古事記および日本書記によると当時最大の豪族であった葛城襲津彦(かずらきのそつひこ) の娘と言われている。王権樹立のため仁徳天皇のもとに嫁いだのは政略結婚であったのだろう。
◆葛木之 其津彦真弓 荒木尓毛 憑也君之 吾之名告兼
(作者未詳 巻十一 二六三九)
≪書き下し≫葛城(かづらき)の襲津彦(そつびこ)真弓(まゆみ)新木(あらき)にも頼めや君が我(わ)が名告(の)りけむ
(訳)葛城(かつらぎ)の襲津彦(そつびこ)の持ち弓、その材の新木さながらにこの私を信じ切ってくださった上で、あなたは私の名を他人(ひと)にあかされたのでしょうか。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)
(注)葛城襲津彦:4世紀後半ごろの豪族。大和の人。武内宿禰(たけのうちのすくね)の子。大和朝廷に仕え、その娘、磐之媛(いわのひめ)は仁徳天皇の皇后とされる。(コトバンク デジタル大辞泉)葛城氏の祖とされる。
(注)けむ 助動詞《接続》活用語の連用形に付く。〔過去の原因の推量〕…たというわけなのだろう。(…というので)…たのだろう。 ▽上に疑問を表す語を伴う。(学研)
この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その439)」で紹介している。
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(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (新潮文庫)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」