万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(番外200513)―奈良市法蓮佐保山 万葉の苑(1)―万葉集 巻二 九〇

 コロナ問題への対策として、外出自粛が求められている。コンビニのトイレも閉鎖されているところもある。万葉歌碑を訪ねてこれまでのように遠出をすることは憚れる。

 訪れた万葉歌碑の写真のストックも底をつき、近くの遊歩道「万葉の小径」の歌碑をもとに原稿をリメークした。しかし、これも在庫切れになってしまった。少しまとまった写真をベースにブログを進めるためにあれこれ考え、当分、遠出は自粛し近場で数を入手すべく、奈良市の鴻池運動場の「万葉の苑」にターゲットを絞り込んだ。ここには、以前、「ぬばたまの黒髪山の山草に小雨降りしき しくしく思ほゆ(作者未詳 巻十一 二四五六)」の歌碑を撮影に行った。その時に万葉植物にゆかりのある歌のプレートが、建てられているのを見ている。プラスチック製のプレートであり、歌碑と言うにはほど遠いものである。同じようなプレートでも春日大社神苑 萬葉植物園の方が格が違うが、こちらはコロナ対策と園内改修工事の為、令和3年4月中旬まで一時閉園となっている。

 しかし、歌碑の歌をベースに万葉集にアプローチすることが、このブログの目的でもある。 緊急避難ではあるが、ブログを休止するよりはましと考え、ベースに使うことにした。プレートは、破損しているものや文字が読みづらくなっているものがあるが、これも時のいたずらと考え稿を進めて行く。コロナ問題が終息することを祈りながら。

 万葉植物に因んで選定されているので、題詞や左注からとったものもある。これは、「番外」とし、題詞や左注の当該の歌を紹介していく。

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奈良市法蓮佐保山 「万葉苑の小径」の碑

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万葉の苑の万葉歌碑(プレート)



 

 

●歌は、「君が行き日長くなりぬ山たづの迎へを行かむ待つにはまたじ」である。

 

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奈良市法蓮佐保山 万葉の苑(1)万葉歌碑(衣通王 みつなかしは)

●歌碑(プレート)は、奈良市法蓮佐保山 万葉の苑(1)にある。プレートには、歌の左注の一部分「三十年秋九月乙卯朔乙丑皇后紀伊國に遊行して熊野岬に到りその処の御綱葉を取りて還る」が書かれている。

 

●歌ならびに左注をみていこう。

 

◆君之行 氣長久成奴 山多豆乃 迎乎将徃 待尓者不待  此云山多豆者是今造木者也

                (衣通王 巻二 九〇)

 

≪書き下し≫君が行き日(け)長くなりぬ山たづの迎へを行かむ待つにはまたじ ここに山たづといふは、今の造木をいふ

 

(訳)あの方のお出ましは随分日数が経ったのにまだお帰りにならない。にわとこの神迎えではないが、お迎えに行こう。このままお待ちするにはとても堪えられない。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)やまたづの【山たづの】分類枕詞:「やまたづ」は、にわとこの古名。にわとこの枝や葉が向き合っているところから「むかふ」にかかる。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)みやつこぎ【造木】: ニワトコの古名。(weblio辞書 三省堂大辞林第三版)

 

 題詞は、「古事記曰 軽太子奸軽太郎女 故其太子流於伊豫湯也 此時衣通王不堪戀慕而追徃時謌曰」<古事記に曰はく 軽太子(かるのひつぎのみこ)、軽太郎女(かるのおほいらつめ)に奸(たは)く。この故(ゆゑ)にその太子を伊予の湯に流す。この時に、衣通王(そとほりのおほきみ)、恋慕(しの)ひ堪(あ)へずして追ひ徃(ゆ)く時に、歌ひて曰はく>である。

(注)軽太子:十九代允恭天皇の子、木梨軽太子。

(注)軽太郎女:軽太子の同母妹。当時、同母兄妹の結婚は固く禁じられていた。

(注)たはく【戯く】自動詞①ふしだらな行いをする。出典古事記 「軽大郎女(かるのおほいらつめ)にたはけて」②ふざける。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)伊予の湯:今の道後温泉

(注)衣通王:軽太郎女の別名。身の光が衣を通して現れたという。

 

 左注は、「右一首歌古事記与類聚歌林所説不同歌主亦異焉 因檢日本紀曰 難波高津宮御宇大鷦鷯天皇廿二年春正月天皇語皇后納八田皇女将為妃 時皇后不聴 爰天皇歌以乞於皇后云ゝ 卅年秋九月乙卯朔乙丑皇后遊行紀伊國到熊野岬取其處之御綱葉而還 於是天皇伺皇后不在而娶八田皇女納於宮中 時皇后到難波濟聞天皇合八田皇女大恨之云ゝ 亦曰 遠飛鳥宮御宇雄朝嬬稚子宿祢天皇廿三年春三月甲午朔庚子木梨軽皇子為太子 容姿佳麗見者自感 同母妹軽太娘皇女亦艶妙也云ゝ 遂竊通乃悒懐少息廿四年夏六月御羮汁凝以作氷 天皇異之卜其所由 卜者曰 有内乱 盖親ゝ相奸乎云ゝ 仍移太娘皇女於伊豫者 今案二代二時不見此歌也」<右の一首の歌は、古事記と類聚歌林と説(い)ふ所同じくあらず、歌の主(ぬし)もまた異(こと)なり。よりて日本紀(にほんぎ)に検(ただ)すに、曰はく、『難波の高津の宮に天の下知らしめす大鷦鷯天皇(おほさぎきのすめらみこと)の二十二年の春の正月に、天皇、皇后(おほきさき)に語りて、八田皇女(やたのひめみこ)を納(めしい)れて妃(きさき)とせむとしたまふ。時に、皇后聴(うけゆる)さず。ここに天皇、歌(みうた)よみして皇后に乞ひたまふ云々(しかしか)。三十年の秋の九月乙卯(きのとう)の朔(つきたち)の乙丑(きのとうし)に、皇后紀伊国(きのくに)に遊行(いで)まして熊野(くまの)の岬(みさき)に到りてその処の御綱葉(みつなかしは)を取りて還(まゐかへ)る。ここに天皇、皇后の在(いま)さぬを伺(うかか)ひて八田皇女(やたのひめみこ)を娶 (め)して宮(おほみや)の中(うち)に納(めしい)れたまふ。時に、皇后難波(なには)の済(わたり)に到りて、天皇の八田皇女を合(め)しつと聞きて大きに恨みたまふ云々』といふ。また曰はく、『遠つ飛鳥の宮に天の下知らしめす雄朝嬬稚子宿禰天皇(をあさづまわくごのすくねのすめらみこと)の二十三年の春の三月甲午(きのえうま)の朔(つきたち)の庚子(かのえね)に、木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)を太子(ひつぎのみこ)となす。容姿(かほ)佳麗(きらきら)しく見る者(ひと)おのずから感(め)づ。同母妹(いろも)軽太娘皇女(かるのおほいらつめのひめみこ)もまた艶妙(かほよ)し云々。つひに竊(ひそ)かに通(あ)ふ。すなはち悒懐(いきどほり)少しく息(や)む。二十四年の夏の六月に、御羮(みあつもの)の汁凝(こ)りて氷(ひ)となる。天皇異(あや)しびてその所由(よし)を卜(うら)へしめたまふ。卜者(うらへ)の曰(まを)さく、『内の乱(にだれ)有り。けだしくは親々(はらから)相(どち)奸(たは)けたるか云々』とまをす。よりて、太娘皇女を伊与に移す」といふ。今案(かむが)ふるに、二代二時(ふたとき)にこの歌を見ず。>である。

(注)おおさざきのみこと【大鷦鷯天皇】:仁徳天皇の名。

(注)八田皇女(やたのひめみこ):仁徳天皇の異母妹。当時は、母の違う兄弟姉妹の結婚は認められた。

(注)きさき【后・妃】: 天皇の配偶者。皇后。中宮。また、女御などで天皇の母となった人。律令制では特に称号の第一とされた。 → 夫人・嬪(ひん)と続く。(weblio辞書 三省堂大辞林第三版)

(注)熊野の岬:和歌山県南方の海岸。熊野は古代人にとっては聖地。

(注)みつながしは 御綱葉:ウコギ科の常緑小高木カクレミノの葉ともいうが、未詳。万葉集では「磐姫皇后、天皇を思ひて作らす歌」(1-85~90)の左注に「皇后、紀伊国に遊行(ゆ)きて、熊野の岬に至り、その処の御綱葉(みつながしは)を取りて還へる」とある。皇后磐姫が紀伊国の出かけたことは、記に「大后(おほきさき)、豊楽(とよのあかり)せむと為(し)て、御綱柏を採りに木国(きのくに)に幸出(いでま)しし間」とあり、紀に、この時期を「秋九月」としている。カシハは、「炊葉」の意であり、食物を盛ったり、覆ったりするのに用いたものであった。例えば、「皇祖の遠き御代御代はい敷折り酒飮むといふそこのほほがしは」(19-4205)のように、葉を折って酒器として用いたホホガシハ(もくれん科)のような例もある。当該のミツナガシハは、その採取の時期が秋であることや、皇后自らこれを採るために紀伊国まで出かけている樣子などを考えると、新嘗祭の神饌を盛る器として用いられるためのものであったと考えられよう。(國學院大學デジタル・ミュージアム「万葉神事語辞典」)

(注)内の乱れ:同居血縁者の不倫。

(注)二代二時にこの歌を見ず:日本書記には、仁徳・允恭両朝のいずれにも八五・九〇のような歌は見当たらない、の意。八五の歌は、磐姫皇后(いはのひめのおほきさき)の歌で、「君が行き日(け)長くなりぬ山尋(たづ)ね迎へか行かむ待ちにか待たむ」である。

 

 巻二の冒頭歌(八五~八八歌)の歌群の題詞は、「磐姫皇后(いはのひめのおほきみ)、天皇(すめらみこと)を思(しの)ひて作らす歌四首」とある。天皇仁徳天皇のことであるから、万葉集では最古の歌と言うことになる。しかし左注にもあるように、「二代二時にこの歌を見ず」であり、いわば、民謡的なものが、万葉集巻二の編者によって物語的に収録されたと思われる。

 

 ある意味、磐姫皇后の仁徳天皇に対する思いという「宮廷ロマンス」を大胆に物語的に収録していることを考えると、万葉集の深さと編者の思いを垣間見たような気がするのである。たしかに万葉集は決して歴史書ではない。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「萬葉集相聞の世界」 伊藤 博 著 (塙書房

★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (新潮文庫

★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)

★「万葉神事語辞典」 (國學院大學デジタル・ミュージアム

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典

★「weblio辞書 三省堂大辞林第三版」