●巻二 九十歌の左注は、「・・・三十年の秋の九月乙卯の朔の乙丑に、皇后紀伊国に遊行まして熊野の岬に到りてその処の御綱葉を取りて還る・・・」である。
●歌碑(プレート)は、奈良市春日野町 春日大社神苑萬葉植物園(143)にある。
●左注をみていこう。
左注の原文は、「右一首歌古事記与類聚歌林所説不同歌主亦異焉 因檢日本紀曰 難波高津宮御宇大鷦鷯天皇廿二年春正月天皇語皇后納八田皇女将為妃 時皇后不聴 爰天皇歌以乞於皇后云ゝ 卅年秋九月乙卯朔乙丑皇后遊行紀伊國到熊野岬取其處之御綱葉而還 於是天皇伺皇后不在而娶八田皇女納於宮中 時皇后到難波濟聞天皇合八田皇女大恨之云ゝ 亦曰 遠飛鳥宮御宇雄朝嬬稚子宿祢天皇廿三年春三月甲午朔庚子木梨軽皇子為太子 容姿佳麗見者自感 同母妹軽太娘皇女亦艶妙也云ゝ 遂竊通乃悒懐少息廿四年夏六月御羮汁凝以作氷 天皇異之卜其所由 卜者曰 有内乱 盖親ゝ相奸乎云ゝ 仍移太娘皇女於伊豫者 今案二代二時不見此歌也」である。
≪左注の書き下し≫右の一首の歌は、古事記と類聚歌林と説(い)ふ所同じくあらず、歌の主(ぬし)もまた異(こと)なり。よりて日本紀(にほんぎ)に検(ただ)すに、曰はく、『難波の高津の宮に天の下知らしめす大鷦鷯天皇(おほさぎきのすめらみこと)の二十二年の春の正月に、天皇、皇后(おほきさき)に語りて、八田皇女(やたのひめみこ)を納(めしい)れて妃(きさき)とせむとしたまふ。時に、皇后聴(うけゆる)さず。ここに天皇、歌(みうた)よみして皇后に乞ひたまふ云々(しかしか)。三十年の秋の九月乙卯(きのとう)の朔(つきたち)の乙丑(きのとうし)に、皇后紀伊国(きのくに)に遊行(いで)まして熊野(くまの)の岬(みさき)に到りてその処の御綱葉(みつなかしは)を取りて還(まゐかへ)る。ここに天皇、皇后の在(いま)さぬを伺(うかか)ひて八田皇女(やたのひめみこ)を娶 (め)して宮(おほみや)の中(うち)に納(めしい)れたまふ。時に、皇后難波(なには)の済(わたり)に到りて、天皇の八田皇女を合(め)しつと聞きて大きに恨みたまふ云々』といふ。また曰はく、『遠つ飛鳥の宮に天の下知らしめす雄朝嬬稚子宿禰天皇(をあさづまわくごのすくねのすめらみこと)の二十三年の春の三月甲午(きのえうま)の朔(つきたち)の庚子(かのえね)に、木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)を太子(ひつぎのみこ)となす。容姿(かほ)佳麗(きらきら)しく見る者(ひと)おのずから感(め)づ。同母妹(いろも)軽太娘皇女(かるのおほいらつめのひめみこ)もまた艶妙(かほよ)し云々。つひに竊(ひそ)かに通(あ)ふ。すなはち悒懐(いきどほり)少しく息(や)む。二十四年の夏の六月に、御羮(みあつもの)の汁凝(こ)りて氷(ひ)となる。天皇異(あや)しびてその所由(よし)を卜(うら)へしめたまふ。卜者(うらへ)の曰(まを)さく、『内の乱(にだれ)有り。けだしくは親々(はらから)相(どち)奸(たは)けたるか云々』とまをす。よりて、太娘皇女を伊与に移す」といふ。今案(かむが)ふるに、二代二時(ふたとき)にこの歌を見ず。
(注)八田皇女(やたのひめみこ):仁徳天皇の異母妹。当時は、母の違う兄弟姉妹の結婚は認められた。
(注)きさき【后・妃】: 天皇の配偶者。皇后。中宮。また、女御などで天皇の母となった人。律令制では特に称号の第一とされた。 → 夫人・嬪(ひん)と続く。(weblio辞書 三省堂大辞林第三版)
(注)熊野の岬:和歌山県南方の海岸。熊野は古代人にとっては聖地。
(注)みつながしは【御綱柏】〘名〙 (「みつなかしわ」とも):① =みつのかしわ(三角柏)※古事記(712)下「大后豊楽したまはむと為て、御綱柏(みつながしは)を採りに、木国に幸行でましし間に」② 植物「おおたにわたり(大谷渡)」の古名。③ 植物「かくれみの(隠蓑)」の異名。〔日本植物名彙(1884)〕(コトバンク 精選版 日本国語大辞典)
(注の注)古事記の読みは、「大后(おほきさき)豊楽(とよのあかり)したまはむと為(し)て、御綱柏(みつながしは)を採りに、木国(きのくに)に幸行(いでまし)し間に・・・」
(注)内の乱れ:同居血縁者の不倫。
(注)二代二時にこの歌を見ず:日本書記には、仁徳・允恭両朝のいずれにも八五・九〇のような歌は見当たらない、の意。八五の歌は、磐姫皇后(いはのひめのおほきさき)の歌で、「君が行き日(け)長くなりぬ山尋(たづ)ね迎へか行かむ待ちにか待たむ」である。
この左注については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1143)」で紹介している。この時は、歌碑(プレート)には、左注の「みつながしわ」については、「タニワタリ」と紹介していた。
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「かしは」は、本来炊葉(かしば)の意味で、「食べ物を盛る葉」の総称であった。大きくて丈夫な葉は食物を盛り、包むのに有用であった。
万葉集では、「かしは」、「あからがしは」、「このてがしは」、「ほほがしは」という形で詠まれている。
これらをみてみよう。
■「かしは」は三首収録されている。
◆能野川 石迹柏等 時齒成 吾者通 万世左右二
(作者未詳 巻七 一一三四)
≪書き下し≫吉野川(よしのがは)巌(いはほ)と柏(かしは)と常磐(ときは)なす我(わ)れは通(かよ)はむ万代(よろづよ)までに
(訳)吉野川に根を張る巌(いわお)と柏(かや)の木とが変わることがないように、われらは変わりなくここに通おう。いついつまでも。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)柏:鶴 久・森山 隆 編 「萬葉集」 (桜楓社)では「かしは」と読んでいるが、伊藤 博氏は、「かへ」と読み、常緑高木の「榧(かや)」とされている。
これは、歌の内容からいっても「榧(かや)」に軍橋が上がりそうである。
◆秋柏 潤和川邊 細竹目 人不顏面 公无勝
(作者未詳 巻十一 二四七八)
≪書き下し≫秋柏(あきかしは)潤和川(うるはかは)辺(へ)の小竹(しの)の芽(め)の人には忍(しの)び君に堪(あ)へなくに
(訳)潤和川のほとりの小竹(しの)の芽ではないが、他の人の目なら忍び隠すことができても、あの方の前では、とても溢(あふ)れる心を抑えることはできない。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)秋柏:潤和川(所在未詳)の枕詞。
(注)上三句は序。「忍び」を起こす。
◆朝柏 閏八河邊之 小竹之眼笶 思而宿者 夢所見来
(作者未詳 巻十一 二七五四)
≪書き下し≫朝柏(あさかしは)潤八川(うるはちかわ)辺(へ)の小竹(しの)の芽(め)の偲(しの)ひて寝(ぬ)れば夢(いめ)に見えけり
(訳)潤八川の川辺の小竹(しの)の芽ではないが、あの人を偲んで寝たところ、その姿が夢に見えた。(同上)
(注)上三句は序。「偲ふ」を起こす。
■赤ら柏
◆伊奈美野之 安可良我之波ゝ 等伎波安礼騰 伎美乎安我毛布 登伎波佐祢奈之
(安宿王 巻二十 四三〇一)
≪書き下し≫印南野(いなみの)の赤ら柏(がしは)は時はあれど君を我(あ)が思(も)ふ時はさねなし
(訳)印南野の赤ら柏は、赤らむ季節が定まっておりますが、大君を思う私の気持ちには、いついつと定まった時など、まったくありません。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)
(注)印南野 分類地名:歌枕(うたまくら)。今の兵庫県加古川市から明石市付近。「否(いな)」と掛け詞(ことば)にしたり、「否」を引き出すため、序詞(じよことば)的な使い方をすることもある。稲日野(いなびの)。(学研)
(注)さね 副詞:①〔下に打消の語を伴って〕決して。②間違いなく。必ず。(学研)
この歌については直近では、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1120)」で紹介している。
➡ こちら1120
■児手柏(このてかしは)二首
◆奈良山乃 兒手柏之 兩面尓 左毛右毛 ▼人之友
(消奈行文大夫 巻十六 三八三六)
※ ▼は、「イ+妾」となっているが、「佞」が正しい表記である。➡以下、「佞人」と書く。読みは、「こびひと」あるいは「ねぢけびと」➡以下、「こびひと」と書く。
≪書き下し≫奈良山(ならやま)の児手柏(このてかしは)の両面(ふたおも)にかにもかくにも佞人(こびひと)が伴(とも)
(訳)まるで奈良山にある児手柏(このてかしわ)のように、表の顔と裏の顔とで、あっちにもこっちにもいい顔をして、いずれにしても始末の悪いおべっか使いの輩よ。(同上)
(注)上二句「奈良山乃 兒手柏之」は、「兩面尓」を起こす序。
(注)かにもかくにも 副詞:とにもかくにも。どうであれ。(学研)
(注)ねいじん【佞人】:心がよこしまで人にへつらう人。(weblio辞書 三省堂大辞林 第三版)
今でも干物などを盛り付けるヒノキ科のコナノテカシワがある。こちらは、両面同じで裏表の区別がつかない。
三八三六歌は、ヒノキ科のコナノテカシワを喩えに用いて、「表の顔と裏の顔とで、あっちにもこっちにもいい顔をして、いずれにしても始末の悪いおべっか使いの輩よ。」と批判しているのである。
この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その540)」で紹介している。
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◆知波乃奴乃 古乃弖加之波能 保ゝ麻例等 阿夜尓加奈之美 於枳弖他加枳奴
(大田部足人 巻二十 四三八七)
≪書き下し≫千葉(ちば)の野(ぬ)の子手柏(このてかしは)のほほまれどあやに愛(かな)しみ置きてたか来(き)ぬ
(訳)千葉の野の児手柏の若葉のように、まだ蕾(つぼみ)のままだが、やたらにかわいくてならない。そのままにしてはるばるとやって来た、おれは。(同上)
(注)ほほまる【含まる】自動詞:つぼみのままでいる。(学研)
(注)たか-【高】接頭語:〔名詞や動詞などに付いて〕高い。大きい。立派な。「たか嶺(ね)」「たか殿」「たか知る」「たか敷く」(同上)
左注は、「右一首千葉郡大田部足人」<右の一首は千葉(ちば)の郡(こほり)の大田部足人(おほたべのたりひと)>である。
「防人歌」である。
この「児の手柏」は、文字通り椎葉を子供の掌に見立てたもので、ブナ科のカシワの若葉と考えられている。
この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その983)」で紹介している。
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■ほほがしは二首
四二〇四、四二〇五歌の題詞は、「見攀折保寳葉歌二首」<攀(よ)ぢ折(を)れる保宝葉(ほほがしは)を見る歌二首>である。
◆吾勢故我 捧而持流 保寶我之婆 安多可毛似加 青盖
(講師僧恵行 巻十九 四二〇四)
≪書き下し≫我が背子(せこ)が捧(ささ)げて持てるほほがしはあたかも似るか青き蓋(きぬがさ)
(訳)あなたさまが、捧げて持っておいでのほおがしわ、このほおがしわは、まことにもってそっくりですね、青い蓋(きぬがさ)に。(同上)
(注)我が背子:ここでは大伴家持をさす。
(注)あたかも似るか:漢文訓読的表現。万葉集ではこの一例のみ。
(注)きぬがさ【衣笠・蓋】名詞:①絹で張った長い柄(え)の傘。貴人が外出の際、従者が背後からさしかざした。②仏像などの頭上につるす絹張りの傘。天蓋(てんがい)。(学研)
「厚朴(ほおがしわ)は、今日のホホノキ、またはホオガシワノキ、ホオガシワを指している。落葉高木で、葉は大きく、若葉の頃は赤みを帯びている。万葉集では二度歌われているきりで、講師(国分寺の僧)である僧恵行と越中国守大伴家持とが同じ宴会の「ほほがしわ」を歌っているに過ぎない。二人の歌では、保宝我之波、保宝我之婆と書き表され、題詞では保宝葉と表されている。一字一首の万葉仮名は、漢字の持つ意味を考えなくてはよいとはいうものの。孤悲(こひ)が恋を表すとき、逢えぬ思いで一人つらい悲しい思いをする意味を宿しているのと同様に、ホオを保宝(ほほ)と書くことによって、宝を保つようなめでたい木の意味まで見ていたようだ。
とあり、歌碑の僧恵行の歌と大伴家持の歌が収録されている。大伴家持が奈良時代の越中国(今の富山県)に赴任していた時の歌である。
家持の歌もみてみよう。
◆皇神祖之 遠御代三世波 射布折 酒飲等伊布曽 此保寳我之波
(大伴家持 巻十九 四二〇五)
≪書き下し≫すめろきの遠御代御代(とほみよみよ)はい重(し)き折り酒(き)飲(の)みきといふぞこのほおがしは
(訳)古(いにしえ)の天皇(すめらみこと)の御代御代(みよみよ)では、重ねて折って、酒を飲んだということですよ。このほおがしわは。(同上)
「蓋(きぬがさ)」は、上述の(注)にあったように、「絹で張った長い柄(え)の傘。貴人が外出の際、従者が背後からさしかざした。(学研)」
この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その486)」で紹介している。
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今日では「柏」といえば「柏餅」を包む「柏」(ブナ科)をさすが、もともとは炊葉(かしば)の意味で、大きくて丈夫な葉は食物を盛り、包むのに有用だったのでこういった植物の総称であった。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」
★「クラシルHP」
★「みんなの趣味と園芸」 (NHK出版HP)
★「熊本市動植物園HP」
★「男鹿市HP」