万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その500、501)―奈良市法蓮佐保山 万葉の苑(2)(3)―万葉集 巻二 一四一、一四二

 

―その500―

●歌は、「岩代の浜松が枝を引き結びま幸くあらばまた返り見む」である。

 

f:id:tom101010:20200526152125j:plain

奈良市法蓮佐保山 万葉の苑(2)万葉歌碑(有間皇子 まつ)

●歌碑(プレート)は、奈良市法蓮佐保山 万葉の苑(2)にある。

 

●これまでにも紹介しているが、歌をみてみよう。

 

◆磐白乃 濱松之枝乎 引結 真幸有者 亦還元見武

                 (有間皇子 巻二 一四一)

 

≪書き下し≫岩代(いはしろ)の浜松が枝(え)を引き結びま幸(さき)くあればまた帰り見む

 

(訳)ああ、私は今、 岩代の浜松の枝と枝とを引き結んで行く、もし万一この願いがかなって無事でいられたなら、またここに立ち帰ってこの松を見ることがあろう。(同上)

 

 

―その501―

●歌は、「家なれば笱に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る」である。

 

f:id:tom101010:20200526152235j:plain

奈良市法蓮佐保山 万葉の苑(3)万葉歌碑(有間皇子 しひ)

●歌碑(プレート)は、奈良市法蓮佐保山 万葉の苑(3)にある。                    

 

●この歌も、これまでにも紹介しているが、みてみよう。

 

◆家有者 笥尓盛飯乎 草枕 旅尓之有者 椎之葉尓盛

               (有間皇子 巻二 一四二)

 

≪書き下し≫家(いへ)なれば笥(け)に盛(も)る飯(いひ)を草枕旅(たび)にしあれば椎(しひ)の葉に盛る

 

(訳)家にいる時にはいつも立派な器物(うつわもの)に盛ってお供えする飯(いい)なのに、その飯を、今旅の身である私は椎の葉に盛って神祭りをする。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)け【笥】名詞:容器。入れ物。特に、食器。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)旅:「家」と「旅」との対比は、行路を嘆く歌の型。

 

一四一、一四二歌の題詞は、「有間皇子自傷結松枝歌二首」<有間皇子(ありまのみこ)、自(みづから)傷(いた)みて松が枝(え)を結ぶ歌二首>である。

 

 弱冠十九歳で処刑された有間皇子の悲劇を追ってみよう。

 

 厩戸王(うまやどのおう・聖徳太子)の死後、豪族・蘇我氏の権力が天皇家を上回るほどに強大になる。蘇我蝦夷(そがのえみし)は大臣として権力をふるい、皇極天皇(こうぎょくてんのう)の時代、蘇我氏聖徳太子の息子である山背大兄皇子(やましろのおおえのおうじ)を攻め滅ぼし、蘇我蝦夷の息子・蘇我入鹿(そがのいるか)が絶大な実権を握ることになる。そのような蘇我氏の天下をこころよく思わなかった人たち、すなわち、唐から帰国した留学生や学問僧たちが、官僚的な中央集権国家を建設し、権力集中をはかろうとする動きが起こしたのである。その代表的な人物が、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ:後の天智天皇)と、中臣鎌足(なかとみのかまたり:後の藤原鎌足)である。彼らが中心となり、645年、蘇我入鹿を謀殺し、蘇我蝦夷を自殺に追い込んだのである。これが『乙巳の変(いちしのへん)』と呼ばれるクーデターである。そしてそれ以降、数年間に及ぶ一連の政治改革が『大化の改新』である。

 中大兄皇子は、あえて皇太子の座にとどまり、細心かつ気長に、反クーデターの芽を摘んでいくのである。

 「乙巳の変」後の体制は、クーデターで中心的な役割を果たしたとも言われる、皇極天皇の弟、軽皇子孝謙天皇として立てるのである。孝謙天皇は、難波に遷都、左大臣阿部倉梯麻呂、右大臣蘇我倉山田石川麻呂の体制でスタートする。当時の力関係を考慮したバランス人事といわれている。しかし、ほどなく天皇は、左右大臣という支柱失うのである。中大兄・鎌足ラインは、いわば傀儡的な同天皇を浮き上がらせるべく、653年、天皇を置き去りにして、飛鳥河辺行宮に遷ってしまうのである。反クーデターの芽を完全に断ち切ったということである。654年同天皇の難波での崩御により完成を見て行くのである。中大兄はここでも、皇太子の地位にとどまり、自分の母にもう一度天皇になっていただく、これが斉明天皇である。

 しかし、中大兄のいわば強引な政策等に反発する動きが、有間皇子を表舞台に立たせようとするようになってきたのである。そして、蘇我赤兄の計略にはまり、有間皇子は、無実のうちに処刑されたのである。

捕えられ、中大兄に謀反の動機を訪ねられたとき、有間皇子は、「天と赤兄と知る。吾全(もは)ら解(しら)ず」と答えたという。

 有間皇子は、孝謙天皇の息子である。

 

 この「有間皇子自傷結松枝歌二首」に続いて、「長忌寸意吉麻呂見結松哀咽歌二首<長忌寸意吉麻呂(ながのいみきおきまろ)、結び松を見て哀咽(かな)しぶる歌二首>(一四三、一四四歌)」さらに「山上臣憶良追和歌一首<山上臣憶良が追和(ついわ)の歌一首(一四五歌)」、「大寳元年辛丑幸于紀伊國時見結松歌一首 柿本朝臣人麻呂歌集中出也<大宝元年辛丑(かのとうし)に、紀伊の国(きのくに)に幸(いでま)す時に、結び松を見る歌一首 柿本朝臣人麻呂が歌集の中に出づ>(一四六歌)」と続いて収録されている。

 

 一四一、一四二歌の題詞「有間皇子自傷結松枝歌二首」<有間皇子(ありまのみこ)、自(みづから)傷(いた)みて松が枝(え)を結ぶ歌二首>が、なかったとしたら、悲劇性も感じさせない、旅の歌としか思えない。

 続く一四三から一四六歌の歌群は、658年の有間皇子事件後、約40年経った701年の歌である。

 一四四歌は、「磐代之 野中尓立有 結松 情毛不解 古所念<岩代(いはしろ)の野中(のなか)に立てる結び松心も解(と)けずいにしへ思ほゆ>」(訳:岩代の野の中に立っている結び松よ、お前の結び目のように、私の心もふさぎ結ぼおれて、去(い)にし時代のことが思われてならない。)であるが、「情毛不解」で、さらに、一四五歌「鳥翔成 有我欲比管 見良目杼母 人社不知 松者知良武<天翔(あまがけ)りあり通(がよ)ひつつ見らめども人こそ知らね松は知るらむ>」(訳:皇子の御霊(みたま)は天空を飛び通いながらいつもご覧になっておりましょうが、人にはそれがわからない。しかし、松はちゃんと知っているのでしょう。)の「人社不知」で、有間皇子の無実を踏まえた有間皇子自傷結松枝歌二首であると認識しているうえで歌った歌であると考えられる。ある意味では、歌物語的に一四一から一四六歌が収録されていると考えられ、題詞が、一四一、一四二歌に悲劇性を大きくもたらしているとも考えられる。

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「國文學 万葉集の詩と歴史」 (學燈社

★「別冊國文學 万葉集必携」 稲岡耕二 編 (學燈社

★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (新潮文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」