―その1773―
●歌は、「道の辺の茨のうれに延ほ豆のからまる君をはかれか行かむ」である。
●歌碑は、坂出市沙弥島 万葉樹木園(47)にある。
●歌をみていこう。
◆美知乃倍乃 宇万良能宇礼尓 波保麻米乃 可良麻流伎美乎 波可礼加由加牟
(丈部鳥 巻二十 四三五二)
≪書き下し≫道の辺(へ)の茨(うまら)のうれに延(は)ほ豆(まめ)のからまる君をはかれか行かむ
(訳)道端の茨(いばら)の枝先まで延(は)う豆蔓(まめつる)のように、からまりつく君、そんな君を残して別れて行かねばならないのか。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)
(注)うまら【茨・荊】名詞:「いばら」に同じ。※上代の東国方言。「うばら」の変化した語。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
(注)うれ【末】名詞:草木の枝や葉の先端。「うら」とも。
(注)「延(は)ほ」:「延(は)ふ」の東国系
左注は、「右一首天羽郡上丁丈部鳥」<右の一首は天羽(あまは)の郡(こほり)上丁(じやうちゃう)丈部鳥(はせつかべのとり)
(注)天羽郡:千葉県富津市南部一帯
この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1098)」で紹介している。
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―その1774―
●歌は、「我が門の片山椿まこと汝れ我が手触れなな地に落ちるかも」である。
●歌碑は、坂出市沙弥島 万葉樹木園(48)にある。
●歌をみていこう。
◆和我可度乃 可多夜麻都婆伎 麻己等奈礼 和我弖布礼奈ゝ 都知尓於知母加毛
(物部廣足 巻二十 四四一八)
≪書き下し≫吾が門の片山椿(かたやまつばき)まこと汝(な)れ我が手触(ふ)れなな地(つち)に落ちもかも
(訳)おれの家の門口に近くの片山椿よ、本当にお前、お前さんにはおれは手を触れないでいたい。しかしこのままにしておいたのでは、地に落ちてしまうかな。(同上)
(注)吾が門の片山椿(かたやまつばき):近所に住む「女」の喩え。
(注)かたやま【片山】:一方が崖(がけ)になっている山。一説に、孤立した山。 (weblio辞書 三省堂大辞林第三版)
(注)なな 分類連語:…ないで。…(せ)ずに。 ※ 活用語の未然形に接続する。上代の東国方言。
左注は、「右一首荏原郡上丁物部廣足」<右の一首は荏原郡(えばらのこほり)の上丁(じゃうちゃう)物部広足(もののべのひろたり)>である。
この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(365)」で紹介している。
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その一七七三、一七七五歌は、「防人歌」である。
「防人歌」というと、お国のためといった「公的な臭いがプンプンする歌」が多いように思うが、万葉集に収録されている「防人歌」は、巻二十(九十三首)を中心に約百首であるが、その内、公的な臭いというか建前的な歌は十首位である。
残りの九十首ほどは「私的な人間性溢れる」歌である。
四三五二、四四一八歌も「防人歌」に収録されていなければ、別れに際しての残るものへの思いを謳い上げた「私的な」歌である。「防人歌」の範疇に在るので、残された者への思いは、より深く、より強く読む人の心を打つのである。
人は、公私、建前と本音の使い分け、というかバランス感覚で乗り切っている。「防人歌」に収録されている大舎人部千文の歌をみてみよう。
◆都久波祢乃 佐由流能波奈能 由等許尓母 可奈之家伊母曽 比留毛可奈之礽
(大舎人部千文 巻二十 四三六九)
≪書き下し≫筑波嶺(つくはね)のさ百合(ゆる)の花の夜床(ゆとこ)にも愛(かな)しけ妹(いも)ぞ昼も愛(かな)しけ
(訳)筑波の峰に咲き匂うさゆりの花というではないが、その夜(よる)の床でもかわいくてならぬ子は、昼間でもかわいくってたまらぬ。(同上)
(注)上二句は序。「夜床」を起こす。
(注)さ百合の花:妻を匂わす
「百合(ゆる)」から「夜床(ゆとこ)」を起こす、東国訛り同音でもってくるのが、微笑ましい。おのろけの様が目に浮かぶのである。
◆阿良例布理 可志麻能可美乎 伊能利都ゝ 須米良美久佐尓 和例波伎尓之乎
(大舎人部千文 巻二十 四三七〇)
≪書き下し≫霰降り鹿島の神を祈りつつ皇御軍に我れは来にしを
(訳)霰が降ってかしましいというではないが、鹿島の神、その猛々(たけだけ)しい神に祈りながら、天皇(すめらき)の兵士として、おれはやって来たつもりなのに・・・(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)霰降り:「鹿島」の枕詞。
(注)結句「我れは来にしを」の下に、四三六九歌のような妻への愛着に暮れるとは、の嘆きがこもる。(伊藤脚注)
(注)を 接続助詞《接続》活用語の連体形に付く。まれに体言に付く。:①〔逆接の確定条件〕…のに。…けれども。②〔順接の確定条件〕…ので。…から。③〔単純接続〕…と。…ところ。…が。(学研)ここでは①の意
大舎人部千文は、四三七〇歌で「皇御軍に我れは来にし」と宣言しつつも、「やって来たつもりなのに・・・」と「皇御軍」になりきれていない自分を攻めている。逆にこのことが、より大舎人部千文の人間らしさを浮き彫りにし、また四三六九歌も生き生きとしてくるのである。
これに似たようなニュアンスで、 「ますらをと思へる」とは、「ますらをたるものが・・・」という、すなわち「立派なお役人ともあろうお方が・・・」と期待されるイメージとのギャップを言外に漂わせている歌が数多く収録されている。
これについては、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1213)」で紹介している。
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万葉集には、大伴旅人の人間性をうかがわせる歌も収録されている。
これをみてみよう。
◆八隅知之 吾大王乃 御食國者 日本毛此間毛 同登曽念
(大伴旅人 巻六 九五六)
≪書き下し≫やすみしし我(わ)が大君(おほきみ)の食(を)す国は大和(やまと)もここも同(おな)じとぞ思ふ
(訳)あまねく天下を支配されるわれらの大君がお治めになる国、その国は、大和もここ筑紫(つくし)も変わりはないと思っています。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)やすみしし【八隅知し・安見知し】分類枕詞:国の隅々までお治めになっている意で、「わが大君」「わご大君」にかかる。
(注)をす【食す】他動詞:①お召しになる。召し上がる。▽「飲む」「食ふ」「着る」「(身に)着く」の尊敬語。②統治なさる。お治めになる。▽「統(す)ぶ」「治む」の尊敬語。 ※上代語。(学研)
これは、旅人が、大宰少貮石川朝臣足人の次の歌に対して和した歌である。
◆刺竹之 大宮人乃 家跡住 佐保能山乎者 思哉毛君
(石川足人 巻六 九五五)
≪書き下し≫さす竹の大宮人(おほみやひと)の住む佐保(さほ)の山をば思(おも)ふやも君
(訳)奈良の都の大宮人たちが、自分の家として住んでいる佐保の山、その山のあたりを懐かしんでおられますか、あなたは。(同上)
これに対して、気の許す仲間達との宴席で、同じような問いかけが、大伴四綱から投げかけられた時には、旅人は、本音で答えている。
◆藤浪之 花者盛尓 成来 平城京乎 御念八君
(大伴四綱 巻三 三三〇)
≪書き下し≫藤波(ふぢなみ)の花は盛りになりにけり奈良の都を思ほすや君
(訳)ここ大宰府では、藤の花が真っ盛りになりました。奈良の都、あの都を懐かしく思われますか、あなたさまも。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
(注)「思ほすや君」:大伴旅人への問いかけ
これに対して、旅人は、題詞「帥大伴卿歌五首」<帥大伴卿(そちのおほとものまへつきみ)が歌五首>で答えているのである。書き下しを並べてみます。
◆我(わ)が盛りまたをちめやもほとほとに奈良の都を見ずかなりなむ(三三一歌)
◆我(わ)が命も常にあらぬか昔見し象の小川を行きて見むため(三三二歌)
◆浅茅原つばらつばらにもの思へば古りにし里し思ほゆるかも(三三三歌)
◆忘れ草我が紐に付く香具山の古りにし里を忘れむがため(三三四歌)
◆我が行きは久にはあらじ夢のわだ瀬にはならずて淵しありこそ(三三五歌)
本音どころか、弱弱しい面までさらけだしており、九五六歌のように、「八隅知之 吾大王乃 御食國者」と、マクロ的にみて、大和も大宰府も同じと言い切る、旅人の姿は、ここにはない。
これについては、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その921)」で紹介している。
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―その1775―
●歌は、「あぢさゐの八重咲くごとく八つ代にをいませ我が背子見つつ偲はむ」である。
●歌碑は、坂出市沙弥島 万葉樹木園(49)にある。
●歌をみていこう。
◆安治佐為能 夜敝佐久其等久 夜都与尓乎 伊麻世和我勢故 美都ゝ思努波牟
(橘諸兄 巻二十 四四四八)
≪書き下し≫あぢさいの八重(やへ)咲くごとく八(や)つ代(よ)にをいませ我が背子(せこ)見つつ偲ばむ
(訳)あじさいが次々と色どりを変えてま新しく咲くように、幾年月ののちまでもお元気でいらっしゃい、あなた。あじさいをみるたびにあなたをお偲びしましょう。(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)八重(やへ)咲く:次々と色どりを変えて咲くように
(注)八(や)つ代(よ):幾久しく。「八重」を承けて「八つ代」といったもの。
(注)います【坐す・在す】[一]自動詞:①いらっしゃる。おいでになる。▽「あり」の尊敬語。②おでかけになる。おいでになる。▽「行く」「来(く)」の尊敬語。(学研)
左注は、「右一首左大臣寄味狭藍花詠也」≪右の一首は、左大臣、味狭藍(あじさゐ)の花に寄せて詠(よ)む。>である。
題詞は、「同月十一日左大臣橘卿宴右大辨丹比國人真人之宅歌三首」<同じき月の十一日に、左大臣橘卿(たちばなのまへつきみ)、右大弁(うだいべん)丹比國人真人(たぢひのくにひとのまひと)が宅(たく)にして宴(うたげ)する歌三首>である。
この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その982)」他で紹介している。
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橘諸兄の四四四八歌は、どこの万葉植物園でも歌碑が設置されているといっても過言ではない。歌碑のみみてみよう。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」