万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その917、918)―太宰府市大宰府 太宰府天満宮―万葉集 巻八 八三〇、八二二

―その917-

●歌は、「万代に年は来経とも梅の花絶ゆることなく咲きわたるべし」である。

 

●歌碑は、太宰府市大宰府 太宰府天満宮にある。

 

f:id:tom101010:20210215151045j:plain

太宰府天満宮万葉歌碑(佐氏子首)

●歌をみていこう。

 

◆萬世尓 得之波岐布得母 烏梅能波奈 多由流己等奈久 佐吉和多留倍子  [筑前介佐氏子首]

                (佐氏子首 巻八 八三〇)

 

≪書き下し≫万代(よろづよ)に年は来経(きふ)とも梅の花絶ゆることなく咲きわたるべし  [筑前介(つくしのみちのくちのすけ)佐氏子首(さじのこおびと)]

 

(訳)万代までののちまでも春の往来(ゆきき)があろうとも、この園の梅の花は絶えることなく咲き続けるであろう。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)きふ【来経】自動詞:年月がやって来ては去って行く。時が経過する。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 「梅花の歌」三十二首の一首である。

  この歌は、直近では、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(太宰府番外編その4)」でに紹介している。

➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 天満宮西門近くの駐車場に車を留め、境内の万葉歌碑探しである。

驚いたことに平日でしかもコロナ禍であるが、たくさんの人がお参りに来ている。本殿前は列ができている。

ぐるっと見まわしてみるが、歌碑は、本殿近くにはなさそうである。本殿を取り囲む回廊の外を探してみることに。本殿の裏手に歌碑らしきものがあったが、筆塚であったり包丁塚であったりと無駄足を踏む。

休憩所辺りで境内に案内図を見つける。どうも歌碑は真逆の方向である。

携帯で案内図を写し、それを見ながら回廊の外側を、東神苑の方へ進む。

目標としていた宝物殿に行き着く。

この歌碑は、宝物殿横の菖蒲池の辺に建てられていた。逆光で文字が写しづらいが何とか撮り終える。

さあ、次である。

 

 菖蒲池を右手に見ながら歩いて行くと、前方右手に天満宮から九州国立博物館に行くことができる入口が見えて来た。

 入口に向かって左に次の歌碑がある。

 

f:id:tom101010:20210216193706j:plain

九州国立博物館天満宮入口と左手に歌碑

 

 

 

―その918―

●歌は、「我が園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも」である。

 

f:id:tom101010:20210215151423j:plain

太宰府天満宮万葉歌碑(大伴旅人

●歌碑は、太宰府市大宰府 太宰府天満宮九州国立博物館入口手前左側にある。                 

 

●歌をみていこう。

 

◆和何則能尓 宇米能波奈知流 比佐可多能 阿米欲里由吉能 那何列久流加母 [主人]           (大伴旅人 巻八 八二二)

 

≪書き下し≫我(わ)が園(その)に梅の花散るひさかたの天(あめ)より雪の流れ来(く)るかも  主人

 

(訳)この我らの園に梅の花がしきりに散る。遥かな天空から雪が流れて来るのであろうか。(伊藤 博 著 「万葉集 一」角川ソフィア文庫より)

(注)天(あめ)より雪の流れ来(く)るかも:梅花を雪に見立てている。六朝以来の漢詩に多い。

(注)主人:宴のあるじ。大伴旅人

 

「梅花の歌」三十二首の一首である。

 

 この歌は、直近では、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(太宰府番外編その1)」で「序」とともに紹介している。

➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 林田正男氏は、「大伴旅人―人と作品」(中西 進 編 祥伝社新書)のなかで、「万葉では梅は一二二首、萩の一四〇首に次ぐ多数である。しかし、『巻一,二の古い巻や巻十一乃至十六の古歌謡や民謡を含む巻には一首もないという事は、この植物が舶来のものであって、まだ十分に国民になじまなかった事を示すものである』と『万葉集注釈(まんようしゅうちゅうしゃく)』が説くように、当時まだ一般的な花でなく貴族的な文雅(ぶんが)の花であった」と書いておられる。

 

f:id:tom101010:20210216193312j:plain

天満宮曲水の庭


             

 近くには、曲水の庭がある。蛇行する水の流れの縁で、紅葉などが流れて来る間に歌を詠む優雅な景色が広がっている。旅人の館にもこのような庭があったのかもしれない。旧き時代に誘い込まれる雰囲気が漂っている。

 

太宰府天満宮については、「同HP」に次のように書かれている。

太宰府天満宮は、菅原道真(すがわらのみちざね)公の御墓所(ごぼしょ)の上にご社殿を造営し、その御神霊(おみたま)を永久にお祀りしている神社です。 『学問・至誠しせい・厄除けの神様』として、日本全国はもとより広く世のご崇敬を集め、年間に約1000万人の参拝者が訪れています。」

 

成り立ちについては、「道真公は、承和12年(845)に京都でお生まれになりました。幼少期より学問の才能を発揮され、努力を重ねられることで、一流の学者・政治家・文人としてご活躍なさいました。 しかし、無実ながら政略により京都から大宰府に流され、延喜3年(903)2月25日、道真公はお住まいであった大宰府政庁の南館(現在の榎社)において、ご生涯を終えられました。門弟であった味酒安行(うまさけ やすゆき)が御亡骸を牛車に乗せて進んだところ、牛が伏して動かなくなり、これは道真公の御心によるものであろうと、その地に埋葬されることとなりました。延喜5年(905)、御墓所の上に祀廟しびょうが創建され、延喜19年(919)には勅命により立派なご社殿が建立されました。 その後、道真公の無実が証明され、『天満大自在天神(てんまだいじざいてんじん)』という神様の御位を贈られ、『天神さま』と崇められるようになりました。」と書かれている。

 

f:id:tom101010:20210216193456j:plain

天満宮楼門

楼門もながめ、境内をぶらつき、筑前太宰府名物「梅が枝餅」をいただき、太宰府天満宮をあとにした。次なる目的地、太宰府市役所にむかった。

f:id:tom101010:20210216193919j:plain

天満宮参道


 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「大伴旅人―人と作品」 中西 進 編 (祥伝社新書)

★「太宰府万葉歌碑めぐり」 (太宰府市

★「太宰府天満宮HP」