万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その900)―大伴旅人の父安麻呂は壬申の乱で功績をあげた

●歌は、「我が園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも」である。

 

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太宰府メモリアルパーク(1)万葉歌碑(大伴旅人

●歌碑は、太宰府市大佐野 太宰府メモリアルパーク(1)にある。

 

●歌をみていこう。

この歌は、直近では、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(太宰府番外編その1)で紹介している。

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◆和何則能尓 宇米能波奈知流 比佐可多能 阿米欲里由吉能 那何列久流加母 [主人]           (大伴旅人 巻八 八二二)

 

≪書き下し≫我(わ)が園(その)に梅の花散るひさかたの天(あめ)より雪の流れ来(く)るかも  主人

 

(訳)この我らの園に梅の花がしきりに散る。遥かな天空から雪が流れて来るのであろうか。(伊藤 博 著 「万葉集 一」角川ソフィア文庫より)

(注)天(あめ)より雪の流れ来(く)るかも:梅花を雪に見立てている。六朝以来の漢詩に多い。

(注)主人:宴のあるじ。大伴旅人

 

 八二二歌に関して、河野裕子氏は、「大伴旅人―人と作品(中西 進 編 祥伝社新書)」の中で、「『わが園に梅の花散る』と二句切れにして、先ず眼前の景を出す。二句から四句にかけて「ひさかたの天(あめ)」と、ア母音の多い明るい諧調(かいちょう)で、大きな景を作り、こまやかな「散る」に対して、ゆったりとした動きのある「流れ来る」で全体をまとめて息ふかく歌いおさめている。」と書かれている。

 さらに、梅花の歌の中で香りを詠んだ歌がないこと、散る梅が詠われていると指摘されている。

 後の世に、散るものといえば桜として詠われているが、「梅が桜の先取りをしていることが興味ぶかい。」とも書かれている。

 歌を見る視点の多様性を教えられた気がする。

 

 

 大伴旅人は、大伴安麻呂の第1子である。武門大伴氏の嫡流で、家持、書持の父である。大伴安麻呂は、壬申の乱(672年)のときの大海人皇子側で手柄を立てたと「日本書記」に記されている。

 

 ここでは、旅人の父、大伴安麻呂について調べてみよう。

 万葉集には三首が収録されている。これからみてみよう。

 

題詞は、「大伴宿祢娉巨勢郎女時歌一首  大伴宿祢諱曰安麻呂也難波朝右大臣大紫大伴長徳卿之第六子平城朝任大納言兼大将軍薨也」<大伴宿禰、巨勢郎女(こせのいらつめ)を娉(つまど)ふ時の歌一首  大伴宿禰、諱(いみな)を安麻呂といふ。難波の朝の右大臣大紫大伴長徳卿が第六子、平城の朝に大納言兼大将軍に任けらえて薨ず>である。

(注)巨勢郎女:近江朝の大納言巨勢臣人の娘。

(注)いみな【諱・謚・諡】名詞:①(貴人の生前の)実名。②死後に贈る称号。(学研)ここでは①の意

(注)難波朝:孝徳朝(645~654年)

(注)大紫:大化の冠位。後の正三位相当。

 

◆玉葛 實不成樹尓波 千磐破 神曽著常云 不成樹別尓

               (大伴安麻呂 巻二 一〇一)

 

≪書き下し≫玉(たま)葛(かづら)実(み)ならぬ木にはちはやぶる神(かみ)ぞつくといふならぬ木ごとに

 

(訳)玉葛の雄木(おぎ)ではないが、実のならぬ木には恐ろしい神が依(よ)り憑(つ)いていると言いますよ。実のならぬ木にはどの木も。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)たまかづら【玉葛・玉蔓】分類枕詞:つる草のつるが、切れずに長く延びることから、「遠長く」「絶えず」「絶ゆ」に、また、つる草の花・実から、「花」「実」などにかかる。(学研)

 

 これに報(こた)える巨勢郎女の歌もみてみよう。

 

題詞は、「巨勢郎女報贈歌一首  即近江朝大納言巨勢人卿之女也」<巨勢郎女、報(こた)へ贈る歌一首  すなはち近江の朝の大納言巨勢人(こせのひと)卿が女(むすめ)なり>である。

 

◆玉葛 花耳開而 不成有者 誰戀尓有目 吾孤悲念乎

               (巨勢郎女 巻一 一〇二)

 

≪書き下し≫玉葛花のみ咲きてならずあるは誰が恋にあらめ我(あ)は恋ひ思(も)ふを

 

(訳)玉葛で花だけ咲いて実がならない、そんな実のない恋はどこのどなたさんのものなんでしょう。私の方はひたすら恋い慕うておりますのに。(同上)

(注)ならず:誠意のないことの譬え。

 

 奈良県HPの「はじめての万葉集 vol.64」にこの歌の背景的なものが説明されているので一部引用させていただきます。「(前略)安麻呂は大伴旅人(おおとものたびと)の父にあたる人物で、大海人皇子(おおあまのみこ)(後の天武天皇)と近江朝廷が争った壬申の乱では大海人側について行動した記録が『日本書紀』にあります。

 一方の巨勢郎女は、安麻呂への返歌につけられた注に『近江朝(あふみのみかど)の大納言巨勢人卿(こせのひとのまへつきみ)の女(むすめ)なり』とあり、壬申の乱で安麻呂が敵対した近江朝廷側の重臣の娘だったとされています。壬申の乱で近江朝廷が敗北した後、巨勢人は子孫とともに流罪に処されていますが、ここに巨勢郎女も含まれていたのかは分かっていません。(後略)(本文 万葉文化館 吉原 啓)」

 一〇一、一〇二歌が「娉(つまど)ふ時の歌」であり、巨勢郎女は、壬申の乱で功をあげた安麻呂の妻であることから、巨勢人一族が流罪になったとしても、影響はなかったものと考えられる。

 

 

 大伴安麻呂の歌にもどろう。

 

題詞は、「大納言大伴卿の歌一首  未詳」<大納言大伴卿(おほとものまへつきみ)が歌一首  未詳>である。

(注)大納言大伴卿:旅人の父、安麻呂らしいが、未詳となっている。

 

◆奥山之 菅葉凌 零雪乃 消者将惜 雨莫零行年

                (大伴安麻呂 巻三 二九九)

 

≪書き下し≫奥山(おくやま)の菅(すが)の葉(は)しのぎ降る雪の消(け)なば惜(を)しけむ雨な降りそね

 

(訳)奥山の菅の葉を押し伏せては降り積もる雪、この雪が消えてしまっては誰にとっても残念であろう。雨よ降らないでおくれ。(同上)

 

 

もう一首もみてみよう。

 

題詞は、「大納言兼大将軍大伴卿歌一首」<大納言兼大将軍(だいなごんけんたいしやうぐん)大伴卿(おほとものまへつきみ)が歌一首>である。

 

◆神樹尓毛 手者觸云乎 打細丹 人妻跡云者 不觸物可聞

                (大伴安麻呂 巻四 五一七)

 

≪書き下し≫神木(かむき)にも手は触(ふ)るといふをうつたへに人妻といへば触れぬものかも

 

(訳)懼(おそ)ろしい神木にさえ手ぐらい触れることもあるというのに、ただもう、人妻というだけでまるっきり手出しもできないものなのかなあ。(同上)

(注)しんぼく【神木】名詞:神社の境内にあり、神霊が宿るとして祭られる樹木。(学研)

(注)うつたへに 副詞:〔下に打消・反語の表現を伴って〕ことさら。まったく。②〔肯定の表現を下に伴って〕きっと。(学研)ここでは①の意。

(注)かも 終助詞:《接続》体言や活用語の連体形などに付く。〔詠嘆を含んだ反語〕…だろうか、いや…ではない。 ▽形式名詞「もの」に付いた「ものかも」、助動詞「む」の已然形「め」に付いた「めかも」の形で。(学研)

 

 

五一八歌は、安麻呂の妻の石川郎女の歌が続いている。こちらもみてみよう。

 

題詞は、「石川郎女歌一首 即佐保大伴大家也」<石川郎女(いしかはのいらつめ)が歌一首 すなはち佐保大伴の大家(おほとじ)なり>である。

(注)とじ【刀自】名詞:①主婦。「とうじ」とも。②…様。…君。▽夫人の敬称。 ※「刀自」は万葉仮名に基づく表記。(学研)

 

◆春日野之 山邊道乎 与曽理無 通之君我 不所見許呂香裳

               (石川郎女 巻四 五一八)

 

≪書き下し≫春日野(かすがの)の山辺(やまべ)の道を恐(おそ)りなく通ひし君が見えぬころかも

 

(訳)春日野の山沿いの道、その恐れ多い道をおののくこともなく通って来られたあなたなのに、このごろいっこうにお見えになりませんね。(同上)

(注)おそり【恐り・畏り】名詞:おそれ。心配。危険。(学研)

(注)安麻呂の五一七歌の歌の神木に対し、神の社のある春日野の歌である。意識した配列と思われる。

 

 なお、大伴坂上郎女の四六〇、四六一歌の左注に、石川命婦として記載されている。四六〇歌の解説の中に「坂上郎女の母、石川郎女が、病気療養のため有馬に行っていたので、坂上郎女が一人で尼理願の葬儀を取り仕切り、悲しみながらの報告である。」ことを記している。、これについては、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(787)」で紹介している。

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(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「大伴旅人―人と作品」 中西 進 編 (祥伝社新書)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「太宰府万葉歌碑めぐり」 (太宰府市

★「天空の楽園 太宰府メモリアルパーク『万葉歌碑めぐり』太宰府悠久の歌碑・句碑」 (太宰府メモリアルパーク)万葉